第三章 月明かりに目覚める硝子
グランルミア城 屋上庭園
グランルミア城の屋上庭園には、白い花が静かに咲き誇って
いた。
透明な硝石晶で作られた小柱が庭園の道に沿って並び、陽の光を受けて淡く輝いている。
風が吹くたび、花びらが揺れ、硝石晶の柱に反射した光が白い床の上をゆっくりと流れていった。
その庭園を、一人の男が歩いている。
華やかな装飾を施した伝統衣装。
穏やかな表情。
長く整えられた髭に手を添えながら、男はゆっくりと歩を進めていた。
彼の名は、オルディン=セレディア。
ソルメルリア国を治める、セレディア王家の王である。
その後ろには、二人の男が控えていた。
一人は、軍務大臣ガレス=フォルガン。
もう一人は、宰相クラウス=アウグスト。
静かな庭園の中で、最初に口を開いたのはガレスだった。
彼は手にした報告書へ目を落とし、重い声で告げる。
「オルディン王。グランシエル騎士団のアルヴェイン団長より報告が届いております。以前より話に上がっていた、失踪事件の件です」
オルディンは足を止めず、静かに耳を傾ける。
「続けよ」
「これまで失踪者は七人とされていましたが、本日、新たに三人が姿を消したとの報告を受けました」
庭園を流れる風が、白い花を揺らした。
「合計で十人か」
「はい。グランシエル騎士団は捜索を続けていますが、いまだ有力な手がかりはありません。ただ、現時点ではっきりしている共通点がひとつあります」
ガレスは一度、言葉を切る。
「失踪しているのは、いずれも若者だということです」
オルディンは、そこでようやく足を止めた。
「……そうか」
その声は穏やかだった。
けれど、重いものを含んでいた。
「国民は不安であろうな」
「すでに一部では噂が広がり始めています。大きな黒い影を見たという証言もあり、不安はさらに強まるかと」
オルディンは、しばらく白い花を見つめていた。
そして、隣に控える宰相へ視線を向ける。
「クラウス。お前はこれをどう見る?」
話を振られた男は、一歩前へ出た。
宰相クラウス=アウグスト。
落ち着いた物腰の中に、鋭い思考を隠した男である。
「ここまで数が増えた以上、偶発的な事件とは考えにくいでしょう。組織的な犯行である可能性が高いと見ます」
「目的は?」
「当初は、人身売買、あるいは身代金目的の誘拐も考えました。しかし、失踪者の身分はばらばらです。貴族の子もいれば、商家の子、工房に関わる者もいる。身代金の要求も確認されていません」
クラウスは静かに続ける。
「となると、金銭目的ではない可能性が高い」
オルディンは髭に触れながら、わずかに目を細めた。
「人の出入りはどうだ?」
「入出国の記録は、外務大臣ラザル、財務大臣メルヴィスとともに確認を行いました。少なくとも、公式な記録上では大きな異変はありません」
「密入国、密出国の可能性は?」
「完全には否定できません。ただ、現在のところ、港や街道で不審な大規模移動は確認されていません」
オルディンは小さく頷く。
「失踪したと思われる場所で、大きな黒い影の目撃情報があると聞いたが」
それに答えたのは、ガレスだった。
「はい。いくつかの現場付近で、同様の証言があります。ただし、夜間の目撃が多く、証言にも曖昧な部分があります。現在、グランシエル騎士団が調査中です」
「黒い影、か」
オルディンは低く呟いた。
庭園の明るさとは対照的に、その言葉だけが冷たく響いた。
「何も進展せんな」
ガレスは表情を引き締める。
「アルヴェイン団長より、捜索範囲を広げる許可を求められています」
オルディンは、わずかに眉を動かした。
「ん?」
そして、ゆっくりとガレスへ振り返る。
「捜索は、まだ隅々まで行えていないのか?」
「はい」
「なぜだ?」
オルディンの声は荒くない。
だが、空気が少しだけ重くなる。
「国民が十人も消えている。にもかかわらず、騎士団が捜索範囲を広げるのに、なぜ許可がいる?」
ガレスは一度、言葉を詰まらせた。
クラウスもまた、わずかに目を伏せる。
オルディンは二人の反応を見て、静かに言った。
「答えよ」
ガレスは報告書を握り直し、低く答える。
「……ルミナリア大聖堂の管轄区域です」
風が止まったように、庭園が静まり返った。
オルディンの表情から、穏やかさが少しだけ消える。
「大聖堂が、捜索を拒んでいるのか」
「正式には、拒否ではありません。ですが、大聖堂側は“祈りの場を騎士団が荒らすことは、民の信仰を乱す”として、騎士団の立ち入りに慎重な姿勢を示しています」
クラウスが言葉を補う。
「加えて、現教皇はこの二年で民からの支持を大きく集めています。大聖堂との対立が表面化すれば、国政への影響も避けられません」
オルディンは沈黙した。
白い花びらが一枚、風に流されて足元へ落ちる。
「民が消えている時に、祈りの場も何もあるまい」
静かな声だった。
だが、そこには確かな怒りがあった。
ガレスは頭を下げる。
「アルヴェイン団長も同じ考えです。だからこそ、王の許可を求めております」
オルディンはしばらく考えた後、庭園の先に広がるソルメルリアの街を見下ろした。
「信仰は民を支えるものだ」
誰に言うでもなく、王は呟く。
「だが、民を守ることより上にあってはならぬ」
オルディンは振り返り、二人を見た。
「アルヴェイン団長に伝えよ。捜索範囲の拡大を許可する」
ガレスの表情が引き締まる。
「はっ」
「ただし、大聖堂との衝突は避けろ。表向きは協力要請という形を取る。クラウス、調整を頼む」
「承知しました」
オルディンは、そこで一度言葉を切った。
そして、さらに低い声で続ける。
「それと、ガレス」
「はっ」
「現場で危険が確認された場合、グランシエル騎士団にグラセルの戦闘使用を許可する」
ガレスはわずかに目を見開いた。
「よろしいのですか」
「若者が十人も消えている。大きな黒い影の目撃情報もある。相手がただの人間とは限らん」
オルディンは静かに街を見下ろした。
「民を守るためなら、必要な力を使わせるべきだ」
クラウスが慎重に口を開く。
「ですが、街中でのグラセル戦闘は、民に不安を与える可能性があります」
「わかっている」
オルディンは頷いた。
「だから無制限ではない。民間区域での使用は、避難誘導と安全確保を最優先とする。戦闘は、対象の危険性が明確な場合に限れ」
ガレスは深く頭を下げる。
「承知しました。アルヴェイン団長にも、そのように伝えます」
オルディンは再び、白い花の咲く庭園を見渡した。
そして、低く言った。
「若者だけが消える事件。黒い影。大聖堂の不自然な慎重姿勢……」
長い髭に触れながら、オルディンは目を細める。
「嫌な風が吹いているな」
白い花が、風に揺れる。
グランルミア城の屋上庭園は変わらず美しかった。
けれどその美しさの下で、ソルメルリアに忍び寄る影は、確かに濃くなり始めていた。
―――
――
―
ルミナリア大聖堂
ルミナリア大聖堂の内部には、柔らかな光が満ちていた。
高い天井には、神ルミナスの伝承を描いたステンドグラスが並び、差し込む光は床の上に淡い色彩を落としている。
白い石柱には透明な硝石晶が埋め込まれ、祈りの場にふさわしい静けさと輝きを放っていた。
教壇の前には、二人の男が立っている。
一人は、伝統衣装を取り入れたチャソックを身にまとった男。
姿勢は正しく、祈りの言葉を紡ぐ声には揺るぎがない。
もう一人は、金色の装飾が施されたミトラを被った男。
豪奢な法衣をまといながらも、どこか肩の力が抜けたような、親しみやすい雰囲気を漂わせていた。
チャソックの男が、静かに目を閉じる。
「ルミナスの光よ、
我らの心に宿りたまえ。
迷える魂を照らし、
傷つく者に安らぎを与え、
闇に沈む心を、再び光のもとへ導きたまえ。
我らが硝子に込める願いが、
誰かを傷つける刃ではなく、
誰かを守る灯となりますように」
祈りの言葉が、大聖堂の奥へ静かに響いていく。
その余韻が消える前に、隣の男が軽い調子で口を開いた。
「マティアス枢機卿、お硬いねぇ」
祈っていた男――マティアス=ロウシェル枢機卿は、ゆっくりと目を開けた。
「あなたが、たるみすぎなのです。セヴァリオ教皇」
彼の隣に立つ男。
現ルミナリア大聖堂の頂点に立つ教皇、セヴァリオ=クロウゼルである。
セヴァリオは悪びれもせず、軽く肩をすくめた。
「そんなに硬くならなくても、神ルミナスは皆を守ってくれるさ」
「神に守られるためには、人もまた正しくあろうと努めるべきです」
マティアスはため息まじりに答えた。
セヴァリオは、歴代の教皇とは少し違う存在だった。
厳格さよりも親しみやすさ。
難しい教義よりも、誰にでも届く言葉。
威厳を前面に出すよりも、民の近くで笑いかけることを大切
にしている。
その軽やかな振る舞いに、保守的な聖職者たちは眉をひそめることもあった。
だが、民からの支持は非常に厚い。
彼は、民衆の人気によって教皇の座へと上り詰めた、珍しい人物だった。
「信仰とは、もっと明るくていいんだよ」
セヴァリオは大聖堂のステンドグラスを見上げ、にこやかに言う。
「難しい顔をして祈るだけが、信仰ではないだろう?」
「軽すぎる祈りも、時には信仰の重みを失わせます」
「はは、相変わらず手厳しいね」
セヴァリオは笑った。
マティアスは呆れたように息を吐く。
けれど、そのやり取りには、敵意というよりも長く顔を合わせてきた者同士の慣れがあった。
「それで、マティアス」
セヴァリオはふと表情を穏やかにした。
「最近、民の様子はどうかな」
「失踪事件の影響で、不安の声は増えています」
マティアスはすぐに答えた。
「特に若者を持つ家庭では、夜間の外出を控えさせる者も多いようです」
「そうか……」
セヴァリオは静かに目を伏せた。
先ほどまでの軽さが、少しだけ影を潜める。
「それは、つらいな」
その声は、素直に民を案じているものだった。
「祈りの場として、できることを増やそう。相談に来た者には、必ず誰かが話を聞くようにしてほしい。必要なら、炊き出しや休息所も開く」
「承知しました」
マティアスは頷いた。
そして、少し表情を引き締める。
「それと、セヴァリオ教皇。先ほど王城より連絡がありました」
「王城から?」
セヴァリオは軽く首を傾げる。
「オルディン王より、ルミナリア大聖堂の管轄区域について、グランシエル騎士団の調査に協力してほしいとの要請が出ています」
「なるほど」
セヴァリオは、先ほどまでの軽い笑みを少しだけ収めた。
「失踪事件の件だね」
「はい」
マティアスは静かに頷く。
「すでに失踪者は増えています。王城も、騎士団も、事態を重く見ているようです」
マティアス=ロウシェルは、信仰大臣セラフィナ=ロウシェルと同じ家系に連なる人物だった。
そのため、王城や信仰省との連絡役を任されることも多い。
今回の要請も、正式な通達として大聖堂へ届く前に、まずマティアスの耳へ入ったものだった。
「信仰大臣からも、協力を前向きに考えてほしいとの言葉がありました」
「セラフィナ殿らしいね」
セヴァリオは小さく笑った。
「民を守ることと、祈りを守ること。その両方を考える人だ」
「私も同じ考えです」
マティアスは真剣な声で言う。
「大聖堂の管轄区域にも、騎士団が調べるべき場所はあります。失踪事件が広がっている以上、協力を拒む理由はありません」
「うん」
セヴァリオは素直に頷いた。
「管轄区域の調査は認めよう」
マティアスの表情が少しだけ和らぐ。
「ありがとうございます」
「ただし」
セヴァリオは、教壇の奥に広がる礼拝堂へ視線を向けた。
「祈りの場での調査は許可できない」
マティアスは眉をひそめる。
「礼拝堂への立ち入りも、ですか」
「今は、失踪事件で民の心が揺れている」
セヴァリオの声は穏やかだった。
だが、その言葉には教皇としての考えがあった。
「そんな時に、武装した騎士たちが祈りの場へ踏み込めば、民はどう思うかな。ここに何か恐ろしいものがあるのではないか、と不安になる者もいるだろう」
「しかし、必要な調査であれば――」
「もちろん、必要なら協力はする」
セヴァリオはマティアスの言葉を遮らず、静かに続けた。
「倉庫、外周、庭園、管理棟、巡礼者用の宿舎。そういった場所は調査して構わない。記録も出そう。出入りした者の名簿も確認させる」
そこで、セヴァリオは少しだけ表情を引き締めた。
「だが、礼拝堂と祈祷室だけは別だ」
マティアスは黙って教皇を見る。
「そこは、民が不安を預ける場所だ。恐れを抱えた者が、最後に心を落ち着ける場所でもある」
セヴァリオは、ステンドグラスから差し込む光を見上げた。
「祈りの場まで疑いの目で見られるようになれば、民はどこで心を休めればいい?」
マティアスはしばらく黙っていた。
セヴァリオの言葉は、軽いものではなかった。
少なくとも、民の心を案じていることは伝わってくる。
「……わかりました」
マティアスは静かに頷いた。
「では、騎士団にはこう伝えます。大聖堂の管轄区域の調査には協力する。ただし、礼拝堂および祈祷室への立ち入りは、原則として許可できない、と」
「うん。それで頼むよ」
セヴァリオはいつもの柔らかい笑みに戻る。
「必要以上に騎士団と対立するつもりはない。民を守る目的は、我々も同じだからね」
「その言葉、信じますよ」
マティアスが釘を刺すように言うと、セヴァリオは肩をすくめた。
「おや、私はそんなに信用がないかな?」
「日頃の行いです」
「手厳しいねぇ」
セヴァリオは苦笑した。
だが、マティアスの表情はまだ硬かった。
祈りの場を守る。
その考え自体は理解できる。
けれど、失踪者は増えている。
民の不安も広がっている。
祈りだけで守れるものには、限りがある。
マティアスはそう思いながら、静かに教壇の前で頭を下げた。
「では、私は王城と騎士団への返答を整えます」
「ああ。頼んだよ、マティアス」
マティアスが去っていくと、セヴァリオは大聖堂の中央へ視線を向けた。
そこでは今日も、数人の民が静かに祈りを捧げている。
セヴァリオは小さく息を吐き、穏やかに呟いた。
「せめてここだけは、恐れではなく光で満たしておきたいものだね」
ステンドグラス越しの光が、教壇の上にやわらかく落ちていた。
―――
――
―
クラリスの窓 オスヴァルトの地下室
リュドはしばらく、目の前のガラス人形に見とれていた。
欠けている。
傷ついている。
それでも、ただの壊れた人形には見えなかった。
地下室のわずかな光を受け、その身体は静かに輝いている。
ひび割れた部分さえ、美しさの一部であるかのようだった。
「なぜ、こんなところにルパーティアが……?」
リュドは震える声でつぶやいた。
「しかも、欠片じゃない。こんなに大きな形で……」
ルパーティアは、希少な硝石晶だ。
各大国で厳重に管理されているもの以外、所在はほとんど確認されていない。
それなのに、目の前にある。
欠損は激しい。
両手は失われ、片足も欠け、右の顔には大きなヒビが入っている。
けれど、小さな欠片などではない。
人の形をした、ルパーティアそのものだった。
リュドは、吸い寄せられるように一歩近づいた。
そっと手を伸ばす。
指先がその身体に触れようとした、その時――
ガラス人形の左胸あたりが、わずかに光った。
「……?」
リュドは息を呑む。
今、光った。
確かに、何かが反応した。
不思議に思い、さらに顔を近づけようとした瞬間。
背後から、低い声が響いた。
「リュド」
リュドの肩がびくりと震えた。
「こんなところで、何をしている」
振り返ると、階段の途中に祖父が立っていた。
オスヴァルト=グラスフェルド。
いつもの穏やかな表情ではなかった。
長年、工房を守ってきた職人の顔でもない。
そこにあったのは、厳しさと、どこか痛みをこらえるような表情だった。
「じ、じいちゃん……」
リュドは慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
オスヴァルトは、自分の部屋に立ち入ることを禁じていた。
ましてや、その奥に隠されていた地下室に入るなど、許されることではない。
オスヴァルトはしばらく黙ってリュドを見つめていた。
そして、短く言う。
「とりあえず、上にあがりなさい」
「……はい」
リュドはもう一度だけ、ガラス人形を見た。
左胸の光は、もう消えていた。
けれど、確かに何かがそこにあった。
リュドには、そう思えてならなかった。
食卓では、ポポが夕食の支度をしていた。
鍋からは温かな湯気が立ち上り、部屋には野菜と香草の香りが広がっている。
けれど、いつものような穏やかな空気はなかった。
リュドとオスヴァルトは、食卓を挟んで向かい合って座っていた。
ポポは二人の様子を見て、何かを察したのか、普段よりも静かに料理を進めている。
沈黙が続く。
リュドは膝の上で拳を握りしめていた。
聞きたいことは山ほどある。
けれど、何から聞けばいいのかわからない。
先に口を開いたのは、リュドだった。
「じいちゃん」
オスヴァルトは静かに視線を上げる。
「聞きたいことがあるんだ」
「……ルパーティアについてか?」
リュドは息を呑んだ。
やはり、祖父は知っていた。
あれがルパーティアであることを。
そして、それを地下に隠していたことを。
リュドは、ゆっくりと頷いた。
「うん」
声は小さかった。
けれど、逃げるつもりはなかった。
「あれは……何なの?」
オスヴァルトはすぐには答えなかった。
しばらく黙ったまま、食卓の木目を見つめている。
その沈黙は、ずっと避けてきたものに向き合うための時間のようだった。
やがて、オスヴァルトは深く息を吐いた。
「……いつか、お前に話さねばならん日が来るとは思っていた」
リュドは、じっと祖父を見る。
「だが、まさか今日になるとはな」
オスヴァルトの声には、後悔とも諦めともつかない響きがあった。
「じいちゃんは、ずっとあれを隠してたの?」
「ああ」
「どうして?」
オスヴァルトは目を閉じた。
「守るためだ」
「守る?」
「お前を。あれを。そして、この家に託された役目をだ」
リュドは言葉を失う。
地下室に眠る、美しいガラス人形。
ルパーティアでできた、人の形。
そして、それを守ってきた祖父。
自分が知らなかった何かが、この家にはずっとあった。
オスヴァルトは静かに続けた。
「リュド。グラスフェルド家は、ただのガラス職人の家ではない」
「……どういうこと?」
「この家には、代々受け継がれてきた役目がある」
オスヴァルトは、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「遠い昔、ルパーティアを作った職人がいたという」
「ルパーティアを……作った職人?」
リュドは思わず聞き返した。
ルパーティアは、どうやって生まれたのかもわかっていない希少硝石晶。
そう授業で聞いたばかりだった。
オスヴァルトは頷く。
「少なくとも、グラスフェルド家にはそう伝えられている」
「それって……本当に?」
「わからん」
オスヴァルトははっきりと言った。
「今となっては、どこまでが真実で、どこからが伝承なのかもわからん。だが、ひとつだけ確かなことがある」
「確かなこと?」
「グラスフェルド家の始まりは、その職人の弟子だった」
リュドは息を止めた。
「弟子……」
「ああ。その職人に仕え、技を学び、そして最後に一つの役目を託された」
オスヴァルトは、静かにリュドを見る。
「あのルパーティアを守ることだ」
部屋の中が静まり返る。
ポポの羽音さえ、遠く聞こえた。
「じゃあ、あの人形は……」
「わからん」
オスヴァルトは首を横に振った。
「わしにも、あれが何なのかは完全にはわからない。人形なのか。グラセルなのか。あるいは、それ以外の何かなのか」
リュドは目を見開く。
「じいちゃんにも、わからないの?」
「ああ」
オスヴァルトの声は重かった。
「わしが知っているのは、あれがルパーティアでできていること。そして、グラスフェルド家が代々それを守ってきたことだけだ」
「どうして、俺に教えてくれなかったの?」
その問いに、オスヴァルトはすぐには答えなかった。
やがて、ぽつりと言う。
「ルパーティアは、人を狂わせる」
リュドは、授業で聞いた話を思い出す。
死者の魂を宿す。
幸福をもたらす。
最高のグラセルを作れる。
そんな噂が、人々を狂気に変えた。
「知る者が増えれば、それだけ危険も増える。たとえ家族であっても、軽々しく伝えていいものではない」
「でも、俺は……」
「わかっている」
オスヴァルトはリュドの言葉を遮るのではなく、静かに受け止めた。
「お前に黙っていたことは、悪かったと思っている」
リュドは何も言えなかった。
怒りたい気持ちはある。
けれど、祖父の顔を見ると、簡単に責めることもできなかった。
オスヴァルトは、長い年月その秘密を背負ってきた顔をしていた。
「リュド」
「……うん」
「あれのことは、誰にも話すな」
その声は、いつになく厳しかった。
「ガイルにも?」
リュドが思わず聞く。
オスヴァルトは少しだけ目を伏せる。
「今は、誰にもだ」
リュドは唇を噛んだ。
「……わかった」
本当に納得できたわけではない。
それでも、祖父の言葉が軽いものではないことはわかった。
リュドは、ふと思い出したように顔を上げる。
「あれ、俺が触れようとした時……左胸が光ったんだ」
オスヴァルトの表情がわずかに動いた。
「左胸が?」
「うん。ほんの少しだけ。でも、確かに光った」
オスヴァルトは黙り込んだ。
その沈黙に、リュドの胸がざわつく。
「じいちゃん?」
「……そうか」
オスヴァルトは低く呟いた。
「光ったか」
その声には、驚きと、どこか恐れのようなものが混じっていた。
「何か知ってるの?」
「いや」
オスヴァルトは首を横に振る。
「わしにも、わからん」
けれど、その表情は明らかに何かを考えていた。
リュドはそれ以上、問い詰められなかった。
しばらくの沈黙の後、不意にオスヴァルトが口を開いた。
「……約束を守れるなら、あのルパーティアをお前の部屋に置いてもいい」
「え……?」
あまりにも急な言葉に、リュドは目を瞬かせた。
「ほ、本当に?」
「ああ。ただし、誰にも話さないこと。勝手なことをしないこと。それが条件だ」
リュドは一瞬、なぜ祖父がそんなことを言い出したのかわからなかった。
地下室に隠し、長い間守ってきたものだ。
それを自分の部屋に置いてもいいなど、普通なら考えられない。
けれど、理由を考えるより先に、リュドの胸には別の感情が広がっていた。
あのガラス人形を、もう一度近くで見られる。
それだけで、十分だった。
「……うん。約束する」
オスヴァルトは、静かに頷いた。
―――
――
―
その夜。
窓から差し込む月明かりが、リュドの部屋をやさしく照らしていた。
棚に並ぶガラス細工。
ベッドのそばに置かれたコレット。
そして、机の上に静かに横たえられたガラス人形。
月の光を受けて、それらは淡く、透き通るように輝いていた。
昼の光とは違う、静かで深い美しさだった。
リュドは椅子に座り、机の上のガラス人形をじっと見つめる。
「……本当に綺麗だな」
思わず、そう呟いていた。
欠けているはずなのに、美しい。
傷ついているはずなのに、目を離せない。
その姿を見ていると、ただ飾っておくだけではいけないような気がした。
「……メルドで治せないかな」
リュドは小さく呟く。
ルパーティアそのものには手を加えられないかもしれない。
けれど、欠けた部分を補うことなら、自分にもできるかもしれない。
そう思うと、試さずにはいられなかった。
リュドは、左手にメルドグローブをはめる。
机の上の硝石晶へ意識を向け、静かに唱えた。
「メルド」
淡い光が、左手から広がった。
リュドのメルドは美しかった。
迷いのない流れ。
澄みきった光。
硝石晶がまるで意思を持つかのように、彼の心に応えて形を変えていく。
失われていた手。
欠けた腕。
片足。
ひび割れた右顔の一部。
ルパーティアそのものではない。
けれど、それに寄り添うように、補うように、硝石晶が新たな形を編み上げていく。
光が収まり、リュドはそっと息を吐いた。
「……できた」
机の上には、先ほどよりもずっと整った姿のガラス人形があった。
ルパーティアの部分と、リュドが補った硝石晶の部分では、わずかに色味が違う。
それでも、不思議と違和感はなかった。
むしろ、傷を抱えたまま新しく繋がったその姿は、前よりもいっそう美しく見えた。
「こんな感じかな」
リュドは、少しだけ満足そうに微笑んだ。
そして、ふと思い出す。
地下室で、この人形の左胸が光ったことを。
「あれ、なんだったんだろう……」
リュドはそっと左手を伸ばした。
今度はメルド越しではなく、直接触れてみる。
指先が、ガラス人形の左胸あたりに触れた、その瞬間――
そこが、また淡く光った。
「……!」
リュドは目を見開く。
今度は、地下室の時よりもはっきりとしていた。
胸の奥から光がにじむように、人形の左胸がやわらかく輝いている。
「なんだ、これ……」
次の瞬間。
あたたかな光が、ふわりとリュドを包み込んだ。
冷たいはずのガラスから、信じられないほどやさしいぬくもりが伝わってくる。
それは不思議な感覚だった。
怖くはない。
むしろ、懐かしいような、安心するような光だった。
あまりの眩しさに、リュドは思わず目を閉じた。
すると――
声が聞こえた。
「あなたは誰?」
やさしい声だった。
透き通るように澄んでいて、どこか幼さを含んだ、静かな声。
「……え?」
リュドは目を開く。
驚きのあまり、呼吸が止まりそうになる。
確かに聞こえた。
今の声は、間違いなくこの部屋の中から聞こえた。
目の前のガラス人形は、月明かりの中で静かに輝いている。
けれど、もうただの人形には見えなかった。
リュドは震える声で言う。
「い、今の……君が?」
返事はすぐにはなかった。
だが、左胸の光は消えていない。
淡く、やさしく、命のように瞬いている。
リュドは目の前の存在を見つめたまま、ようやく理解した。
自分が修復したこのガラス人形は――
グラセルだったのだ。
目の前のガラス人形が、まばたきをしていた。
月明かりを受けた硝子の瞳が、ゆっくりと開き、リュドを見つめている。
リュドは息を忘れた。
動いている。
確かに、目の前の彼女は動いていた。
「ええ……」
ガラスの少女は、不思議そうに自分の手を見つめる。
そして、ゆっくりとリュドへ視線を戻した。
「あなたは誰なの? 私は……なぜ、ここにいるの?」
その声は、先ほど聞こえたものと同じだった。
やわらかく、澄んでいて、どこか心細い声。
リュドは慌てて姿勢を正した。
「あ、あぁ……俺はリュド」
少し言葉につまりながらも、リュドは名乗る。
「リュド=グラスフェルド」
「リュド……」
少女は、その名を確かめるように小さく繰り返した。
リュドは机の上の彼女を見つめながら、慎重に言葉を選ぶ。
「君は、地下室にいたんだ。ずっと……寝ていた、ことになるのかな」
「……寝ていたの?」
少女は目を瞬かせる。
「うん。多分」
リュド自身も、はっきりしたことはわからなかった。
けれど、今の彼女に無理な説明をすることもできない。
「君の名前は? なんていうの?」
少女は少し黙った。
自分の中を探るように、視線を落とす。
月明かりが、その透明な髪や頬に淡く反射していた。
「私の、名前……」
しばらくして、彼女は小さく呟いた。
「ネリィ……」
その声に、リュドは息を呑む。
「そう。ネリィよ」
彼女は、自分に言い聞かせるように、もう一度その名を口にした。
「ネリィ……」
リュドも、その名を静かに繰り返した。
不思議な響きだった。
初めて聞いたはずなのに、胸の奥にすっと残る名前。
リュドは、少し緊張しながら尋ねる。
「君は……グラセルだよね?」
ネリィは自分の身体を見下ろした。
硝子でできた手。
リュドが補った腕や足。
そして、左胸で淡く光る何か。
「ええ」
ネリィはゆっくり頷いた。
「そうみたいね」
その言い方は、まるで他人事のようだった。
自分自身のことなのに、確信を持てていないように聞こえた。
リュドはさらに尋ねる。
「君を作った人は誰なの?」
ネリィの表情が、わずかに曇った。
「……わからないわ」
小さな声だった。
「ごめんなさい。今の状況も、私がどうしてここにいるのかも……何がどうなっているのかも、わからないの」
ネリィは不安そうに目を伏せる。
「思い出そうとすると、何かが遠くで光っているような気がするの。でも、手を伸ばすと消えてしまう」
リュドはその言葉を聞き、少しだけ胸が痛んだ。
目覚めたばかりで、何もわからない。
それはきっと、とても怖いことのはずだった。
リュドはできるだけ優しく声をかける。
「謝らなくていいよ」
ネリィが顔を上げる。
「俺も、わからないことだらけなんだ。君がなぜ地下室にいたのかも、どうしてルパーティアでできているのかも」
リュドは少し迷ってから、そっと続けた。
「でも、君が目を覚ましたのは本当だ」
ネリィの左胸の光が、かすかに揺れた。
リュドは静かに微笑む。
「だから、少しずつ一緒に考えよう」
ネリィはリュドを見つめた。
不安げだった瞳が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……一緒に?」
「うん」
リュドは頷いた。
「俺でよければ」
ネリィはしばらく黙っていた。
そして、月明かりの中で小さく頷いた。
「……ありがとう、リュド」




