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ルパーティア(改正前)  作者: OHISUN
エラグレア・アカデミー編

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第二章 壊れた硝子の人形

グランシエル騎士団本部 正面ホール


「どうなっているんだ!」


グランシエル騎士団本部の正面ホールに、怒号が響き渡った。声を上げていたのは、いかにも貴族然とした身なりの男だった。


上質な外套を羽織り、指には宝石のついた指輪をいくつもはめている。


しかし今、その顔は怒りで赤く染まり、整えられた髭さえ震えていた。


「ビレイム伯爵 、どうか落ち着いてください。我々も現在、調査を進めております」


男の前に立つ騎士は、感情を抑えた声で答えた。


銀白の鎧をまとい、背筋をまっすぐに伸ばした青年。


その表情は冷静で、貴族の怒声を浴びても眉ひとつ動かさない。


彼の名は、リオル=ファルケン。


グランシエル騎士団の副隊長である。


「落ち着いていられるか!」


伯爵は床を踏み鳴らすように一歩前へ出た。


「息子がいなくなって、もう一週間も経っているんだぞ! 貴様、副隊長だろう! もっと総力を上げて探さんか!」


「副隊長という立場だからこそ、勝手な行動はできません」


リオルは表情を変えずに答える。


「騎士団は、すでに捜索隊を出しています。情報の確認も含め、順を追って対応しております」


「順を追ってだと?」


伯爵の声がさらに荒くなる。


「そんな悠長なことを言っている場合か! だったら団長を呼べ!」


ホールにいた騎士たちの空気が、わずかに張り詰める。


伯爵は苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。


「今の聖晶騎士団は、トップが女だから仕事ができないのか?」


その瞬間、リオルの眉間がぴくりと動いた。


それまで一切変わらなかった表情に、初めて冷たい感情が差す。


「お言葉ですが――」


リオルが一歩前へ出ようとした、その時だった。


「仕事ができなくて、すまないな。ビレイム伯爵 」


凛とした声が、ホールの上から降ってきた。


伯爵が振り返る。


リオルも顔を上げた。


二階へ続く大階段の上に、一人の女性が立っていた。


シルバーの髪が、差し込む光を受けて淡く輝いている。


すらりとした細身の体に、グランシエル騎士団の白銀の鎧。


華奢に見えるほど整った姿でありながら、その立ち姿には誰もが自然と背筋を正したくなるような威厳があった。


彼女はゆっくりと階段を下りてくる。


「アルヴェイン団長……申し訳ございません」


リオルはすぐに頭を下げた。


女性は静かに手を上げる。


「いい。気にするな、ファルケン副隊長」


彼女の名は、セイラ=アルヴェイン。


グランシエル騎士団団長。


聖晶騎士団とも呼ばれるこの騎士団を率いる、若き女性騎士である。


セイラは伯爵の前まで歩み寄ると、まっすぐにその目を見た。


「伯爵。ご子息が行方不明になっている件については、こちらでも重く受け止めている」


伯爵は一瞬たじろいだが、すぐに怒りを取り戻す。


「だったら、なぜまだ見つからない! 私の息子だぞ!」


「だからこそ、焦りで判断を誤るわけにはいかない」


セイラの声は静かだった。


けれど、その静けさには刃のような鋭さがあった。


「現在、同様の失踪が他にも確認されている。貴族の子息だけではない。商家の子、工房の弟子、港で働く少年まで、複数の若者が姿を消している」


その言葉に、伯爵の表情がわずかに変わる。


「な……なんだと?」


「これは単なる家出でも、個人的な誘拐でもない可能性がある」


セイラは淡々と続けた。


「だからこそ、騎士団は慎重に動いている。ご子息だけを特別扱いして捜索線を乱せば、他の失踪者を見落とす危険がある」


伯爵は言葉を詰まらせた。


ホールには、重い沈黙が落ちる。


セイラはその沈黙を破るように、静かに告げた。


「必ず見つける。だが、騒ぎ立てれば見つかるわけではない」


伯爵は悔しそうに唇を歪めた。


「……ならば、結果を出せ」


「そのために、我々はここにいる」


セイラは一歩も引かなかった。


伯爵はしばらく彼女を睨んでいたが、やがて外套を翻し、乱暴に背を向けた。


「一刻も早く、息子を連れ戻せ」


そう言い残し、伯爵は騎士団本部を出ていった。


重い扉が閉まる音が、ホールに響く。


リオルは深く息を吐いた。


「団長。申し訳ありません。私が抑えるべきでした」


「構わない」


セイラは伯爵が去った扉を見つめたまま言う。


「彼の怒りも、当然ではある」


「ですが、団長への侮辱は――」


「怒るな、リオル」


セイラは静かに言った。


「今、私たちが向けるべきものは、伯爵への怒りではない」


リオルは口を閉ざす。


セイラは、ホールに集まった騎士たちへ視線を向けた。


「失踪者は、これで七人目だ」


その言葉に、騎士たちの表情が一斉に硬くなる。


リオルの目が細くなった。


「……偶然とは考えにくいですね」


「ああ」


静かに頷く。


「今のところ、はっきりしている共通点はひとつ。失踪しているのは、いずれも若者だということだ」


「男女は問わず、ですか」


「そうだ。貴族の子もいれば、商家の子、工房で働く者もいる。身分も暮らしもばらばらだ」


リオルは考え込むように目を伏せた。


「身代金の要求もありません。となると、単純な誘拐とは考えにくい」


「その可能性が高い」


セイラの声は低かった。


「争った痕跡も少ない。まるで、最初から狙いを定めて連れ去ったように見える」


ホールの空気が、さらに重く沈む。


セイラは静かに告げた。


「調査を急ぐ。次の失踪者を出す前に、必ず手がかりを掴む」


騎士たちは一斉に頭を下げた。


グランシエル騎士団本部に、再び慌ただしい足音が広がっていく。


その騒ぎが、まだエラグレア・アカデミーに届くことはなかった。


―――

――


一方、その頃。


エラグレア・アカデミーでは、硝石晶鍛造実技の授業が終わろうとしていた。


廊下には、次の授業へ向かう生徒たちの足音が響いている。


リュドは肩にかけたカバンを直しながら、先ほど作った盾の感触を思い返していた。


あの時、胸の奥に湧き上がった感情。


守りたい。


それが何だったのか、まだ自分でもよくわからない。


「やっぱり、凄いね」


後ろから声をかけられ、リュドは振り返った。


そこにいたのはソフィアだった。


彼女は教本を抱えたまま、まっすぐリュドを見ている。


「さっきのメルド。あれ、簡単にできるものじゃないわ」


「ありがとう」


リュドは少し驚きながらも、素直に答えた。


「正直、そう言ってもらえると嬉しいよ」


ソフィアは小さく首を振る。


「あれは才能だけじゃ説明がつかないわ。あなた、かなり努力したでしょう?」


リュドは少し照れたように笑った。


「はは……まあ、そうかも」


そして、視線を自分の左手へ落とす。


「俺にはグラセルがいないからさ。その分、人並み以上にどこかで頑張る必要があっただけなんだけどね」


それは、リュドにとって当たり前のことだった。


足りないものがあるなら、別の何かで補うしかない。


ずっとそう思ってきた。


けれどソフィアは、はっきりと言った。


「そんなことないわ」


リュドは顔を上げる。


「努力できる人は、尊敬できる」


その言葉に、リュドは一瞬返事に困った。


からかわれたわけではない。


慰められたわけでもない。


ソフィアは本気でそう言っていた。


「……ありがとう」


リュドは少し照れくさそうに、目を逸らした。


ソフィアはその様子を見て、ふっと柔らかく笑う。


「卒業間近だっていうのに、あなたとはあまり話したことがなかったわね」


「そうだね。授業では何度か一緒だったけど」


「本当はね、ずっと興味があったの」


ソフィアの声が少しだけ真剣になる。


「グラセルを持たずに入学した、たった一人の生徒」


リュドは黙って彼女を見る。


「このアカデミーは、グラセルがいることを前提にしている。授業も、実技も、進路も、ほとんどがそう」


ソフィアは言葉を選ぶように続けた。


「だから最初は、私も疑問に思ったわ。どうしてグラセルを持たないあなたが、この学校に入学できたのか」


リュドの表情が、少しだけ硬くなる。


だが、ソフィアはすぐに続けた。


「でも、今日わかった」


彼女はまっすぐにリュドを見る。


「あなたは、特別扱いでここにいるんじゃない。ちゃんと実力でここに立っているのね」


リュドは何も言えなかった。


その言葉は、ガイルの励ましとはまた違う形で、胸に届いた。


「……そう思ってくれるなら、嬉しい」


リュドは小さく答える。


ソフィアは静かに微笑んだ。


「ええ。少なくとも私は、そう思うわ」


「休み時間なのに、呼び止めてごめんね」


ソフィアは教本を抱え直し、少しだけ微笑んだ。


「じゃあ、私はこれで」


そう言って、軽く手を振る。


リュドも小さく手を振り返した。


「うん。また」


ソフィアは人の流れの中へ歩いていき、やがて廊下の向こうへ消えていった。


リュドはしばらくその背中を見送っていたが、ふと時間を思い出す。


「ガイルは、まだ授業中だろうし……大広間で待ってるか」


そうつぶやき、リュドは一階へ向かうことにした。


エラグレア・アカデミーの中央階段は、螺旋状になっている。


しかも、そのすべてが透明なガラスで作られていた。


手すりも、踏み板も、柱も。


光を受けるたびに、淡い色をまとって輝く。


朝はやわらかく。


昼はまばゆく。


夕方には茜色を溶かしたように。


夜には月の光を映し、まるで星の道のようになる。


リュドは、その階段をゆっくりと下りていった。


太陽の光が足元で砕け、いくつもの色になって揺れている。


その美しさに、少しだけ気持ちが落ち着きかけた時だった。


下から、誰かが上ってくる。


リュドは足を止めた。


青みがかった髪。


冷たく鋭い目。


感情をほとんど映さない表情。


ゼクト=クロウベルクだった。


先ほどのやり取りが脳裏をよぎる。


リュドは思わず、手すりに置いた指に力を入れた。


ゼクトも、リュドに気づいていた。


けれど避ける様子はない。


むしろ、まっすぐこちらへ近づいてくる。


螺旋階段の途中。


光に包まれた美しい場所に、気まずい沈黙だけが落ちた。


ゼクトはリュドの前で足を止めた。


そして、何の前置きもなく言った。



「俺は、お前が嫌いだ」



あまりにも突然だった。


リュドは返す言葉を失う。


「……え?」


ゼクトは表情を変えない。


「お前は、ガイルといるべきじゃない」


その言葉は、朝の陰口よりもずっと鋭く、まっすぐリュドの胸に刺さった。


リュドは唇を引き結ぶ。


「……どうして、そこまで言うんだよ」


ゼクトの目が、わずかに細くなる。


「お前が、ガイルを鈍らせるからだ」


螺旋階段に差し込む光が、二人の間で静かに揺れていた。


「意味がわからない」


リュドは、ゼクトを見返した。


「君は、ガイルをどうしたいんだ」


その言葉を聞いた瞬間、ゼクトの目が鋭く細まった。


次の瞬間――


ドンッ!


リュドの背中が、階段横の壁に押しつけられた。


「っ……!」


ゼクトはリュドの胸ぐらを掴み、低い声で言う。



「何も喋るな」



その声は静かだった。


けれど、確かな怒りが滲んでいた。


「お前は、ガイルの邪魔だ」


リュドは歯を食いしばる。


「何が邪魔なんだよ……!」


震える声を押し殺すように、リュドはゼクトの腕を掴んだ。


「俺が君に、何をしたっていうんだ!」


力任せに押し返す。


ゼクトの手が離れ、リュドは壁から身を離した。


肩で息をしながら、それでも目は逸らさない。


「はぁ、はぁ……君が何を言っても」


リュドは胸元を押さえながら、はっきりと言った。


「ガイルは、大切な友達だ」


ゼクトの表情が、わずかに歪んだ。


「……何が友達だ」


吐き捨てるような声だった。


「お前に、ガイルの何がわかる」


リュドは黙る。


ゼクトは一歩近づいた。


「お前はただ、今の状況を楽しんでいるだけだ。ガイルが隣にいてくれる。庇ってくれる。味方でいてくれる。それが心地いいだけだろう」


「違う」


「違わない」


ゼクトの声が、低く重くなる。


「お前はガイルに何ができる?」


リュドは言葉を詰まらせた。


「ガイルが迷った時、お前は導けるのか。ガイルが傷ついた時、お前は守れるのか。あいつがヴァスレインに戻り、騎士として戦場に立つ時、お前は隣に立てるのか」


ゼクトの言葉が、ひとつひとつ胸に刺さる。


「グラセルも持たないお前が、あいつに何を返せる」


リュドは、何も言い返せなかった。


ゼクトは冷たく見下ろす。


「ガイルは強くなれる。もっと上へ行ける。なのに、お前の隣にいることで足を止めている」


リュドの左手が、メルドグローブを握りしめる。


「……俺は」


声がうまく出なかった。


ゼクトは、最後に静かに言った。


「本当に友達だと言うなら、あいつの邪魔をするな」


その言葉を残し、ゼクトはリュドの横を通り過ぎていく。


階段に、ゼクトの足音だけが冷たく響いた。


リュドは、拳を握りしめた。


胸の奥が痛い。


ゼクトの言葉は、間違いだと言い切りたかった。


けれど、何もできない自分を責める声も、確かに心の中にあった。


――お前はガイルに何ができる?


その問いが、何度も頭の中で反響する。


リュドは、俯きかけた。


でも。


ガイルはいつも、自分に言ってくれた。


上を向け、と。


お前がここにいるのは、実力で勝ち取った結果だ、と。


お前以上のガラス職人は見たことがない、と。


だったら。


今度は、自分が証明する番だ。



「だったら!!」



リュドの声が、螺旋階段に大きく響いた。


ゼクトの足が止まる。


リュドは顔を上げた。


声は震えていた。


けれど、その目は逸らさなかった。



「グラセル・レガリアで、俺は優勝する」



ゼクトはゆっくりと振り返る。


リュドは、メルドグローブをはめた左手を強く握った。


「ガイルの隣に立っても、劣ることがないように」


階段に差し込む光が、リュドの横顔を照らした。


「グラセルがいなくても、俺にできることがあるって証明する」


ゼクトは黙ったまま、リュドを見つめていた。


その表情は変わらない。


けれど、ほんのわずかに目の奥が揺れたようにも見えた。


「……言葉だけなら、誰でも言える」


ゼクトは冷たく言った。


「なら、見てろ」


リュドは一歩も引かずに答えた。



「俺は逃げない」



しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


やがてゼクトは、何も言わずに背を向ける。


「なら、証明してみろ」


そう言い残し、ゼクトは階段を上っていった。


リュドはその背中を見送りながら、強く息を吸った。


怖くないわけじゃない。


不安が消えたわけでもない。


それでも、もう決めた。


グラセル・レガリアで勝つ。


誰かを見返すためだけじゃない。


ガイルの隣に立つために。


そして、自分自身に証明するために。


グラセルがいなくても、自分にはできることがあるのだと。


―――

――


禁忌と論理講学の教室


「ガハハハ!」


禁忌と論理講学の教室に、ガイルの大きな笑い声が響いた。


「リュド、お前がゼクトに喧嘩売ったのか!」


腹を抱えて笑うガイルを見て、リュドはむっと頬を膨らませる。


「何笑ってんだよ」


「いや、珍しいなと思ってよ」


ガイルは目元に浮かんだ涙を指で拭いながら、まだ笑っていた。


「いつものお前なら、言われっぱなしで飲み込むことが多いだろ? それが、グラセル・レガリアで優勝するって言い返したんだろ?」


「……そんなにおかしい?」


「おかしくはねえよ」


ガイルは笑みを残したまま、少しだけ声を落とした。


「むしろ、嬉しいくらいだ」


リュドは少し驚いて、ガイルを見る。


「ただな」


ガイルは椅子の背にもたれながら、リュドをまっすぐ見た。


「あんまり無茶はするなよ」


その表情は柔らかかった。


けれど、どこか考え込んでいるようにも見えた。


「お前、いつも頑張りすぎなんだよ」


リュドは目を逸らし、少し不満げに言う。


「だから、戦い方について聞いてるんじゃないか」


「わかってるって」


ガイルは頭をかきながら苦笑した。


「あー、悪い悪い。ただ、対抗試合までは明日から休校だろ?」


「うん」


「だったら明日、教えてやるよ」


ガイルはにっと笑う。



「戦士ってやつが何なのかをな」



その言い方があまりにもガイルらしくて、リュドは思わず笑った。


「頼りにしてるよ」


「任せとけ!」


そんな話をしていると、教室の扉が静かに開いた。


入ってきたのは、不気味な雰囲気を漂わせる一人の男だった。


痩せた体に、黒を基調とした教師用の外套。


目元には深い影があり、口元には常に薄い笑みが浮かんでいる。


穏やかなのに、どこか底が知れない。


「やあ、諸君。集まっているね」


男は教卓の前に立つと、ゆっくりと教室を見渡した。


「相変わらず、アルケイオス先生の見た目って不気味だよな」


ガイルが小声でぼそりと言った。


「不気味で結構」


低い声が返ってきた。


ガイルの肩がびくりと跳ねる。


アルケイオス先生は、笑顔のままガイルへ鋭い視線を向けていた。


「す、すみません!」


焦って背筋を伸ばすガイルを見て、リュドは隣で小さく笑った。


彼の名は、ノクス=アルケイオス。


禁忌と論理講学を担当する教師である。


禁忌技術への対抗策。


それに関わる倫理。


そして、危険な力に対してどう考え、どう判断するべきか。


この授業では、ただ知識を学ぶだけではなく、禁忌と向き合うための思考そのものを鍛えられる。


アルケイオス先生は、教卓に手を置いた。


「では、早速授業を始めよう」


教室の空気が静まる。


「今日は、いつものグラセル倫理学から少し外れた話をする」


そう言って、アルケイオス先生は教卓の下から小さな箱を取り出した。


黒い金属で覆われた箱だった。


蓋には複数の鍵がかけられ、表面には封印の紋様が刻まれている。


生徒たちの視線が、一斉にその箱へ集まった。


アルケイオス先生は、にやりと不気味に笑う。


「まずは、君たちにこれを見てもらいたい」


鍵がひとつ、またひとつと外されていく。



かちり。



最後の鍵が外れた瞬間、教室の空気が重くなったような気がした。


アルケイオス先生が、ゆっくりと箱を開ける。


中に入っていたのは、淀んだ赤黒い光を放つ硝石晶だった。


美しいとは言えない。


けれど、目を逸らしがたい。


鈍く濁った輝きの奥に、何かが沈んでいるように見える。


まるで、硝石晶そのものが苦しんでいるかのようだった。



「赫灰――かくかい、だ」



その名を聞いた瞬間、教室がざわついた。


禁忌の授業で名前を聞くことはあっても、実物を見るのは初めてだった。


誰もが驚きを隠せない。


「あれが……赫灰」


リュドは小さくつぶやいた。


胸の奥に、嫌な感覚が広がる。


ただ見ているだけなのに、触れてはいけないものを見てしまったような気がした。


アルケイオス先生は、生徒たちの反応を見渡しながら言う。


「赫灰がどういうものか、わかる者はいるかね?」


教室は静まり返った。


その中で、一人の少女が手を上げる。


「死者の血を、硝石晶に取り込んだものと聞いています」


答えたのは、フィオナだった。


アルケイオス先生は満足げに頷く。


「その通りだ」


生徒たちの間に、さらに重い沈黙が落ちる。


誰もが同じ疑問を抱いていた。


なぜ、そんなものが学校にあるのか。


そしてなぜ、アルケイオス先生がそれを持っているのか。


アルケイオス先生は、その疑問に気づいているのかいないのか、変わらぬ笑みのまま続けた。


「赫灰によるメルド、そして赫灰を用いたグラス・レーヴは、固く禁じられている」


その声は、先ほどまでより少し低かった。


「二百年前。四大国がまだ争い続けていた時代に、カリヴァンという勢力が突如として現れた」


黒板に、先生はその名を書く。


カリヴァン


「彼らは赫灰をグラセルに埋め込み、通常ではあり得ない力を引き出していた」


教室の空気が、さらに冷たくなる。


「赫灰に侵されたグラセルは、強大な力を得る。硬度も、攻撃性も、通常の領域を超えることがある」


アルケイオス先生は、箱の中の赫灰を見下ろした。


「だが、その代償は大きい」


生徒たちは息を呑む。


「赫灰に取り憑かれたグラセルは、心を失う」


その言葉は、教室の中に重く落ちた。


「当時、心を失ったグラセルたちは暴れに暴れ、多くの人間とグラセルを殺したと記録されている」


アルケイオス先生の声は、淡々としていた。


まるで、ただ教科書の一文を読み上げているだけのように。


けれど、話している内容はあまりにも重かった。


教室の空気が、じわりと冷えていく。


「……先生」


その沈黙の中で、ソフィアが手を上げた。


「なんだね、ソフィア君」


「なぜ、先生がそれを持っているのですか?」


教室中の視線が、アルケイオス先生へ集まる。


たしかに、それは誰もが思っていたことだった。


赫灰は禁忌の素材。


それをなぜ、教師がこの場に持ち込んでいるのか。


アルケイオス先生は、口元を歪めるように笑った。


「ふふふ……なんでだと思う?」


その笑い方に、何人かの生徒が小さく身をすくめた。


ガイルも、さすがに笑ってはいなかった。


「……相変わらず、趣味悪いぜ」


「聞こえているよ、バーンロート君」


「す、すみません……」


アルケイオス先生は、箱の中から赫灰を取り出した。


淀んだ赤黒い硝石晶が、教室の光を吸い込むように鈍く輝く。


「では、これにメルドを試してみようか」


その言葉に、教室がざわめいた。


「え……?」


「やばくないか?」


「それ、やっちゃいけないんだよな……?」


生徒たちのひそひそ声が広がっていく。


中には、椅子を引いて後ずさる者もいた。


「ちょ、先生、本気か?」


ガイルが思わず声を上げる。


だが、アルケイオス先生はまるで気にしていない。


赫灰を左手に乗せ、静かに目を細めた。


「よく見ておきたまえ」


そして、唱える。



「メルド」



教室中が息を呑んだ。


しかし――

何も起こらなかった。


赫灰は、赤黒く淀んだ光を放ったまま、ただ先生の左手の上にあるだけだった。


形も変わらない。


輝きも増さない。


硝石晶がメルドに応える時の、あの柔らかな揺らぎもない。


アルケイオス先生は、くつくつと喉の奥で笑った。


「ふふふ……大丈夫だ」


生徒たちは、張り詰めていた息を少しずつ吐き出す。


「赫灰は、通常のメルドには応えない」


その言葉に、多くの生徒は安心したようだった。


だが、リュドだけは違った。


胸の奥に、小さな違和感が残る。


――応えない?

――通常のメルド?


リュドは、アルケイオス先生の左手を見つめた。


通常のメルドには応えない。


なら、通常ではないメルドならどうなるのか。


その疑問が頭をよぎった直後だった。


アルケイオス先生は、赫灰を右手に持ち替えた。


リュドの背筋に、冷たいものが走る。


「先生……?」


ソフィアが不安そうに呟いた。


アルケイオス先生は、にやりと笑う。


「では、もう一度」


教室の空気が、先ほどとは比べものにならないほど重くなった。




「ディゾル」




その瞬間。


赫灰が、禍々しい光を放った。


赤黒い煙のようなものが、硝石晶の表面からにじみ出る。


それは光でありながら、影のようでもあった。


ぐにゃり、と赫灰の輪郭が歪む。


通常のメルドのような、美しい変化ではない。


硝石晶が心に応えて形を変えているのではなかった。


無理やりねじ伏せられている。


リュドには、そう見えた。


「……っ」


耳の奥で、奇妙な音がした。


声のようだった。


叫びのようだった。


泣いているようにも、怒っているようにも聞こえる。


教室の誰かが、椅子を倒した。


「な、なんだよこれ……」


「やめてください、先生!」


生徒たちの顔に、恐怖が広がっていく。


ガイルは反射的に立ち上がり、リュドの前に半歩出た。


「リュド、下がれ」


リュドは動けなかった。


目の前の赫灰から、目を逸らせなかった。


赤黒い輝きの中で、何かが蠢いている。


形を得ようとしているのに、形になれないもの。


心を宿すはずの硝石晶の中で、心ではない何かが暴れている。


アルケイオス先生の右手の中で、赫灰は歪な形へと変わっていく。


それは盾でも、器でも、武器でもなかった。


まるで、苦しみそのものを無理やり硝子に閉じ込めたような、醜い塊だった。


リュドの胸が、強く締めつけられる。


これは、メルドじゃない。


そう思った。


これは、心を重ねる力なんかじゃない。


何かを支配して、押し潰して、無理やり形にする力だ。


アルケイオス先生は、満足げにその歪な赫灰を見つめていた。


「見たまえ」


不気味な笑みを浮かべたまま、先生は言う。


「これが、禁忌に触れるということだ」


教室は、完全に静まり返っていた。


人の顔のような薄気味悪い造形、触手のような物。


誰もが思った。これを真似してはならないと。


その時だった。


バンッ!


教室の扉が、勢いよく開かれた。



「何をしているんですか! アルケイオス先生!」



鋭い声が教室に響いた。


扉の前に立っていたのは、クロウス先生だった。


いつもの穏やかな笑みは消えている。


丸眼鏡の奥の目には、明らかな怒りが浮かんでいた。


生徒たちは一斉に振り返る。


クロウス先生の視線は、教室の中を素早く確認した。


怯える生徒たち。


立ち上がったガイル。


動けずにいるリュド。


そして、アルケイオス先生の右手の中で、禍々しく歪んだ赫灰。


その光景を見た瞬間、クロウス先生の表情がさらに険しくなる。


「今すぐ、それを箱に戻してください」


アルケイオス先生は、まるで動じていなかった。


「何って、授業だよ」


不気味な笑みを浮かべたまま、彼は歪な赫灰を見せるように持ち上げる。


「生徒に赫灰の危険性を教えていたんだ」


「だからといって、実際に赫灰を使うことは禁じられている!」


クロウス先生の声が、教室の空気を震わせた。


いつも穏やかな彼を知っている生徒たちは、その剣幕に息を呑む。


アルケイオス先生は、少しだけ肩をすくめた。


「禁忌を知らずに、禁忌に対抗できるとでも?」


「知ることと、使うことは違います」


「違うかな」


アルケイオス先生は、薄く笑った。


「危険なものほど、目を逸らしてはいけない。恐ろしいものほど、正しく理解しなければならない。君も教師なら、それくらいはわかるはずだ」


「理解のために、生徒を危険に晒す必要はありません」


クロウス先生は一歩、教室の中へ入る。


「赫灰は、ただの教材ではない。心を歪める禁忌の素材です。扱いを誤れば、取り返しがつかない」


アルケイオス先生は、クロウス先生をじっと見た。


その目は笑っているようで、笑っていなかった。


「ずいぶん詳しい言い方をするね、クロウス先生」


クロウス先生の表情は変わらなかった。


「この学校の教師なら、知っていて当然のことです」


「そうか」


アルケイオス先生は、くつくつと喉の奥で笑う。


「なら、あなたが教えますか? エルディン」


その呼び方に、教室の空気がわずかに揺れた。


生徒たちにとって、クロウス先生はいつも“クロウス先生”だった。


下の名で呼ばれることなど、ほとんどない。


クロウス先生は、静かにアルケイオス先生を見つめ返す。


「授業の進行権は、あなたにあります。ですが、生徒の安全を損なう行為なら、見過ごせません」


声は落ち着いていた。


けれど、そこにははっきりとした拒絶があった。


アルケイオス先生は、少しだけ目を細める。


「真面目だね。相変わらず」


「教師として当然です」


「そうか。なら今日は、真面目な教師の顔を立てておこう」


アルケイオス先生はそう言うと、右手の赫灰へ視線を落とした。


そして、ゆっくりとそれを箱の中へ戻す。


蓋が閉じられ、鍵がかけられる。


重苦しかった空気が、少しだけ薄れた。


だが、教室の中にはまだ緊張が残っていた。


アルケイオス先生は生徒たちを見渡す。


「見ての通り、赫灰は通常のメルドとはまったく違う反応を示す。だからこそ禁忌とされている」


そして、薄く笑った。


「今日の授業は、ここまでにしよう」


生徒たちはすぐには動かなかった。


誰もが、今見たものをどう受け止めればいいのかわからずにいた。


クロウス先生は、静かにリュドたちの方を見る。


「みなさん、教室を出てください。廊下で先生方の指示を待つように」


その声に、生徒たちはようやく椅子を引き始めた。


リュドも立ち上がる。


けれど、胸の中にはまだ、先ほどの光景が残っていた。


左手では何も起こらなかった赫灰。


右手で歪み、叫ぶように形を変えた赫灰。


そして、アルケイオス先生の言葉。


――通常のメルドには応えない。


リュドは教室を出る直前、ふと振り返った。


クロウス先生とアルケイオス先生は、教卓を挟んで向かい合っていた。


二人とも何も言わない。


けれど、その沈黙は、授業が終わった後のものとは思えないほど冷たかった。


―――

――


アルケイオス先生が赫灰を使用した一件は、すぐに問題となった。


授業は中断され、その日の残りの講義もすべて取りやめになった。


生徒たちは教師たちの指示に従い、順に帰宅することになった。


アカデミーの門を出たリュドは、ガイルとドランと並んでミラフィス工房街へ向かって歩いていた。


いつもなら、ガイルが何かしら騒がしく話している。


けれど今日は、三人の間に重い沈黙が流れていた。


先に口を開いたのは、ガイルだった。


「……なあ、アルケイオス先生、どうしたんだ?」


リュドは答えなかった。


「いつも不気味な雰囲気は出してるけどよ。今日のあれは、さすがに異常だったよな」


ドランも低く唸るように言う。


「赫灰を生徒の前で使うなど、教師のすることではない」


リュドは、ようやく小さく口を開いた。


「……わからない」


それ以上、言葉が出なかった。


アルケイオス先生の右手の中で歪んだ赫灰。


赤黒い光。


耳の奥に残る、叫びのような音。


それを思い出すだけで、胸の奥が抉られるような気がした。


心を宿すはずの硝石晶が、無理やり形を変えられていく。


それは、リュドの知っているメルドとはまるで違っていた。"ディゾル"という聞き慣れない言葉。


「……」


ガイルはリュドの横顔を見る。


いつものように軽口を叩くことはできなかった。


ふと、ガイルは何かを思い出したように言う。


「そういえば……アルケイオス先生だったよな?」


「え?」


「お前をエラグレア・アカデミーに推薦したの」


リュドの足が、ほんの少しだけ遅くなる。


「……うん」


そうだ。


グラセルを持たないリュドが、このアカデミーに入ることができた理由。


その一つに、アルケイオス先生の推薦があった。


だからこそ、リュドにはわからなかった。


自分を認め、推薦してくれたはずの先生。


その人が、なぜあんなことをしたのか。


なぜ、赫灰に右手でメルドを行ったのか。


リュドは唇を引き結んだ。


「ごめん、ガイル」


「ん?」


「俺、先に帰る」


ガイルは少し驚いた顔をした。


「あ、ああ。気をつけてな」


「うん」


リュドは短く返事をすると、足早に歩き出した。


やがて、その背中は人混みの中へ消えていった。


残されたガイルは、しばらくその背中を見送っていた。


「どうしたんだ? リュドのやつ」


ドランが口を開く。


ガイルは腕を組み、小さく息を吐いた。


「気になることができたんだろ」


「放っておいていいのか」


「今はな。あいつ、考える時は一人になりたがる」


ガイルはそう言ったが、その表情には少しだけ心配が残っていた。


その時、ドランがふと横を向いた。


「ガイル。そんなことより、これを見てみろ」


「なんだよ」


ドランが見ていたのは、建物の壁に貼られた一枚の告知だった。


ガイルは近づき、そこに書かれた文字を読む。


それは、グランシエル騎士団からの知らせだった。


近頃、ミラフィス周辺で若者の行方不明が相次いでいること。


夜間の外出を控えるよう注意を促すこと。


そして、数件の失踪現場付近で、大きな黒い影の目撃情報があること。


「……行方不明?」


ガイルの表情が、少しだけ真剣になる。


ドランも告知を見つめたまま言う。


「物騒だな」


「……黒いグラセル、まさかな」


ガイルは貼り紙から目を離し、リュドが去っていった方角を見る。


「明日、リュドにも伝えないとな」


そう言いながらも、胸の奥に嫌な予感が残った。


アルケイオス先生の赫灰。


若者の失踪。


大きな黒い影。


何かが少しずつ動き始めている。


―――

――


リュドがクラリスの窓に戻った頃には、空は夕日に染まり始めていた。


「ただいま」


扉を開け、いつものように声をかける。


けれど、返事はなかった。


工房の中は静まり返っている。


作業台も、棚に並ぶ硝子細工も、使い込まれた道具たちも、まるで息を潜めているようだった。


窓から差し込む夕日が、壁や棚に並んだガラス細工を淡く照らしている。


赤橙色の光を受けた硝子は、ひとつひとつ違う色を返し、静かな工房の中で小さな星のように煌めいて

いた。


美しい。


けれど、どこか寂しい光だった。



「じいちゃん、ポポ。ただいま」



もう一度呼びかける。


それでも、返事はない。


リュドは工房の奥へ進んだ。


作業台の上には、途中まで磨かれた硝子細工が置かれている。


けれど、そこにオスヴァルトの姿はなかった。


ポポの羽音も聞こえない。



「……部屋にいるのかな」



リュドは小さくつぶやき、祖父の部屋へ向かった。


扉の前で足を止める。


軽くノックした。



「じいちゃん、いる?」



返事はない。


リュドは少し迷ったあと、そっと扉を開けた。



「聞きたいことがあるんだけど……」



部屋の中は、静まり返っていた。


机。


椅子。


古い本棚。


壁にかけられた職人道具。


どれもいつも通りの場所にある。


けれど、そこに祖父の姿はなかった。



「……いないのか」



リュドは小さく息を吐き、部屋を出ようとした。


その時だった。


夕日が、窓から差し込む。


細い光の筋が床を照らし、その先で何かがきらりと光った。


「……ん?」


リュドは足を止めた。


床の上に、小さなガラス片が落ちていた。


拾い上げる。


それは、見たことのないほど繊細な硝子だった。


薄く、軽く、けれどただ脆いだけではない。


指先に乗せただけで、奥に眠る光がかすかに揺れる。


普通の硝石晶とは違う。


リュドは、その欠片を見つめたまま、胸の奥がざわつくのを感じた。



「なんだ……これ」



ふと、視線が床へ落ちる。


部屋の隅に敷かれたラグ。


その端が、わずかにめくれていた。


リュドはゆっくりと近づき、ラグを持ち上げる。


その下に、床板とは違う輪郭があった。



「……扉?」



床下へ続く、小さな扉。


なぜこんな場所に。


いつからあったのか。


なぜ今まで気づかなかったのか。


考えるより先に、リュドの手は扉に触れていた。


まるで、そうしなければならないと、どこかで知っていたかのように。


ゆっくりと扉を開ける。


冷たい空気が、下から流れ上がってきた。


その先には、地下へ続く階段があった。


リュドは息を呑む。


「……」


足が、自然と階段へ向かう。


一段。


また一段。


降りるたび、外の音が遠ざかっていく。


工房の静けさも、夕日の温もりも、少しずつ背後へ置き去りにされていく。


地下の奥に、かすかな光があった。


リュドはゆっくりと階段を下りきる。



そして――息を忘れた。



そこにあったのは、人型のガラス人形だった。



両手は欠け、片足も失われ、右の顔の一部には大きなヒビが入っている。


体のあちこちに欠損があり、長い時間の中で傷ついてきたことがひと目でわかった。



それでも、美しかった。



地下にあるにもかかわらず、わずかな光を受けただけで、その身体は静かに輝いていた。


ただ光を反射しているのではない。


内側から、淡く、深く、どこか懐かしい輝きが滲んでいる。


色はひとつではなかった。


薄い青。


淡い金。


やわらかな桃色。


透き通る白。


いくつもの色が重なり合い、まるで心の奥に沈んだ記憶が、硝子の中で眠っているようだった。


リュドは、その場から動けなかった。


誰に聞かなくても、わかってしまった。


これは、普通の硝石晶ではない。




これは――

「ルパーティア……」




声にならない声が、喉の奥で震えた。


その瞬間、リュドの頬を何かが伝った。


涙だった。



「……え?」



自分でも驚いて、リュドは頬に触れる。


なぜ涙が出たのか、わからない。


悲しいわけではない。


怖いわけでもない。


けれど、胸の奥が締めつけられる。


そんな、言葉にならない感情があふれていた。


リュドは、一歩だけ近づく。


欠けた人形は、何も言わない。


動くこともない。


それでも、リュドにはその姿が、ただの壊れた硝子人形には見えなかった。


傷ついているのに、美しい。


壊れているのに、どこか温かい。


眠っているようで、泣いているようで。


それでいて、誰かを待っているようだった。


リュドは震える声でつぶやく。




「なんだ……これ……」




涙はまだ止まらなかった。



なぜ、こんなものが祖父の部屋の下にあるのか。


なぜ、ルパーティアがここにあるのか。


なぜ、自分はこれを見て泣いているのか。


何ひとつわからない。


それでも、ひとつだけ言葉になった。


リュドは、目の前のガラス人形を見つめたまま、そっと息を吐く。





「……きれいだ」





その声は、地下の静寂に溶けていった。






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