表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ルパーティア  作者: OHISUN
エラグレア・アカデミー編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/1

第一章 硝子なき少年の証明

はるか昔、ヴィトラリスに黒き厄災ノクティルが現れた。


空は曇り、大地は荒れ、硝石晶の輝きは失われていった。


世界が滅びの影に包まれた時、四つの部族から四人の長が立ち上がる。


ルミナス、グリード、ミレア、セリオン。


そして彼らの傍らには、星より現れた原初のグラセル、アステルがいた。


アステルは人々に、硝子に心を宿す力――メルドをもたらしたと伝えられている。


四人の長とアステルは心を重ね、黒き厄災に立ち向かった。


戦いの果て、ノクティルは退けられ、ヴィトラリスには再び光が戻った。


これが、人々に語り継がれる始まりの神話。


硝子に心が宿った、最初の物語である。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


朝日が、ゆっくりとのぼりはじめていた。

窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

淡い光が、二階の小さな部屋へと差し込み、壁や棚に飾られたガラス細工を静かに照らしていた。

木造の部屋の中には、いくつもの煌びやかなガラスの装飾が並んでいる。

そのひとつひとつが朝日を受け、まるで小さな星のように輝いていた。


そんな部屋の片隅に、一メートルほどの人型のガラス人形が置かれている。

小柄で、頭身の低い愛らしい姿。

大きな頭に対して、手足は細く短く、丸みを帯びた輪郭には幼さがあった。

けれど、その造形は驚くほど繊細だった。髪の流れ、指先の形、衣装の細かな模様に至るまで、丁寧に作り込まれている。

ベッドの上で、一人の青年がゆっくりと目を覚ました。

彼は眠そうにまぶたをこすりながら、そのガラス人形へ視線を向ける。

そして、少しだけ微笑んだ。

「おはよう、コレット」

返事はない。

それでも青年は、いつものように穏やかな顔でそう声をかけた。


その時、一階から女性の優しい声が響いてきた。

「リュド、起きなさーい」

青年の名は、リュド=グラスフェルド。

片目が隠れるほど長い前髪を持ち、素朴さの中に、どこか儚い透明感を漂わせる少年だった。

「起きてるよー!」

リュドはそう返事をすると、ベッドから降りた。

軽く身支度を整え、階段を下りていく。

一階は、ガラス細工の工房になっていた。

ここは、祖父オスヴァルト=グラスフェルドが営む老舗の工房 【クラリスの窓】。

そして同時に、リュドにとっては生まれ育った家でもあった。

工房の横には、小さな食卓のある部屋がある。

リュドがそこへ向かうと、青い鳥のような姿をしたガラス人形が、ぱたぱたと羽を揺らしながら彼を迎えた。

「おはよう、リュド。朝ご飯、できてるよ」

「ポポ、いつもありがとう」

リュドは嬉しそうに笑った。

彼女の名は、ポポ。

ただのガラス人形ではない。

心を宿したガラス細工――

この世界で“グラセル”と呼ばれる存在だ。


「今日もおいしそう!」

食卓には、焼きたてのパンと、ドラムバルの腸詰め肉。

それから、湯気を立てる野菜スープが並んでいた。

スープには、エルネシアで採れた新鮮な野菜が使われている。

淡い緑や橙色の具材が、澄んだスープの中でやさしく揺れていた。

「でしょー? 学校に行く前に、ちゃんと元気つけないとね」

ポポは得意げに胸を張るように、小さなガラスの翼を揺らした。

ポポは、祖父オスヴァルトのグラセルだ。

けれどリュドにとっては、ただの相棒でも、工房の手伝いでもなかった。

幼い頃から、朝起こしてくれて、食事を用意してくれて、時には叱ってくれる。

父も母もいないリュドにとって、ポポは母親のような存在だった。

リュドは、自分の両親について多くを知らない。

生まれてすぐに亡くなったのだと、そう聞かされている。

パンを手に取りながら、リュドはふと工房の方へ目を向けた。

「じいちゃんは、もう工房?」

「そうよ。今日も依頼が多いみたいね」

ポポは食器を整えながら答えた。

「リュドが学校に行ったら、私もオスヴァルトの手伝いに行くわ」

リュドはスープを一口飲み、ほっと息をついた。

「そっか。じいちゃん、朝から無理してないといいけど」

「大丈夫よ。あの人、口では年寄りぶるけど、工房に立つと誰より元気なんだから」

ポポの言葉に、リュドは小さく笑った。


食事を終えると、リュドは二階の部屋へ戻った。

今日は、エラグレア・アカデミーへ向かう日だ。

いつものように、硝石晶と加工道具を入れたカバンを肩にかける。

机の上には、使い込まれた道具がきちんと並べられていた。

小さな鑿、研磨布、細工用の金具。

どれもリュドにとって、幼い頃から手に馴染んだものばかりだった。

最後に、リュドは古びたメルドグローブを手にはめる。

革はところどころ擦り切れ、金具にも細かな傷が入っている。

それでも、何度も手入れされてきたのだろう。

古さの中に、不思議な温もりがあった。

支度を終えたリュドは、部屋の片隅に置かれたコレットへ視線を向ける。

朝日を受けたコレットは、何も言わず、ただ静かにそこにいた。

リュドは少しだけ目を伏せる。

「……お前を、連れて行きたかったよ」

小さくつぶやいた声は、部屋の中に溶けて消えた。

コレットは答えない。

けれどリュドは、返事を待つようにほんの少しだけ立ち止まった。

やがて、いつものように微笑む。

「行ってくるね」

そう言って、リュドは部屋を出た。

階段を下り、工房を抜けると、朝の光が扉の隙間から差し込んでいる。

彼は一度だけ振り返り、それから外へ向かった。


ここは、ソルメリア国の港町――ミラフィス工房街。

多くのガラス職人たちが集まり、日々ガラス細工を作り続ける場所だ。

その街の端にある古い工房が、リュドの家でもある【クラリスの窓】だった。

ミラフィス工房街は、海沿いに広がっている。

近くにはレイナード港があり、朝早くから多くの船が行き交っていた。

港では交易が行われ、遠い国から運ばれてきた品々が荷下ろしされている。

海面に反射する朝の光。

建物の窓や看板に飾られたガラス細工の輝き。

それらが重なり合い、街全体が淡く色づいているように見えた。

クラリスの窓を出たリュドは、ミラフィス工房街の中心通りをまっすぐ進んだ。

通りの奥には、大きな建物がそびえている。

ルミナリア大聖堂。

ソルメリアの人々が、神ルミナスへ祈りを捧げる場所だ。

その手前の道を左に曲がると、リュドの目的地が見えてくる。

エラグレア・アカデミー。

世界中から若者が集まる、硝子細工とグラセルの学び舎である。

アカデミーへ続く橋の手前で、リュドは足を止めた。

胸の奥にたまった緊張を吐き出すように、大きく深呼吸をする。

その瞬間――

ばんっ!

背中に強い衝撃が走った。

「いたぁ……!」

リュドは思わず背中を丸め、その場で悶絶する。

「よう! リュド! おはよう!」

振り返ると、そこには赤髪の青年が立っていた。

鋭い目つきに、にっと笑う口元。

その歯は、獣のようにぎざぎざとしている。

彼の後ろでは、黄色い大きな体を持つ四本足のグラセルが、やれやれと言いたげに首を振っていた。

二本の大きな角と、赤い目。

ずっしりとした体は、どんな攻撃でも受け止めそうな迫力がある。

「が、ガイルか……おはよう」

リュドは背中をさすりながら、苦笑した。

彼の名は、ガイル=バーンロート。

軍事国家ヴァスレイン出身の青年で、リュドの親友である。

「その馬鹿力で叩くの、ほんとやめてくれ……」

「俺はやめておけと、何度も言ったんだがな」

黄色いグラセルが、低く落ち着いた声で言った。

「何言ってんだ、ドラン」

ガイルは豪快に笑いながら、親指で自分の胸を叩く。

「覇気のない親友には、朝から気合い入れてやらないとな!」

「気合いじゃなくて、骨が折れるかと思ったよ……」

リュドがそう言うと、ガイルはまた、ガハハと大きく笑った。

ドラン。

それが、ガイルのグラセルの名だった。

大きな体と頑丈な角を持つ、獣型のグラセル。

ガイルの荒々しさとは対照的に、どこか冷静で、主人の暴走を止める役目も担っているようだった。

そんなやり取りをしながら、リュドたちは橋を渡り終えた。

目の前には、エラグレア・アカデミーの大きな門がそびえている。

エラグレア・アカデミー。

それは、ただの学び舎ではない。

かつて四大国が長い争いを終えた時、その平和の証として建てられた場所だった。

ソルメリア、ヴァスレイン、エルネシア、ネルヴァルト。

四つの国から若者たちが集まり、硝子細工とグラセルについて学ぶ、ヴィトラリス最高峰の教育機関である。

リュドとガイルも、この場所で三年間学んできた。

そして、もうじき卒業を迎える。

門をくぐり、校舎へ続く道を歩いていく。

最初は、いつもの朝と変わらないはずだった。

だが、リュドが中庭へ足を踏み入れた途端、周囲の空気がわずかに変わる。

ちらりと向けられる視線。

口元に浮かぶ冷笑。

すれ違いざまに落とされる、小さな陰口。

「……まだ通ってるんだ」

「よく平気な顔で来られるよな」

聞こえないふりをするには、あまりにも近い声だった。

リュドは、少しだけ目を伏せる。

肩にかけたカバンの紐を、無意識に握りしめた。

その横で、ガイルが低く言う。

「上向けよ」

リュドは小さく息を呑む。

「お前が下向く理由なんて、どこにもねえだろ」

ガイルの声は乱暴だった。

けれど、その言葉には確かな温かさがあった。

リュドが周囲からそんな目を向けられるのには、ひとつの理由がある。

リュドには、グラセルがいない。

この世界では、十五歳になる年に“グラス・レーヴ”と呼ばれる儀式を行う。

自らの手で硝子人形を作り、そこに心を宿す。

そうして生まれた存在が、グラセルだ。

グラセルは、ただの相棒ではない。

硝子細工を扱う者にとって、自身の心を映す証であり、技術と才能を示す存在でもある。

だからこそ、エラグレア・アカデミーの入学試験にも、グラセル能力実技が含まれていた。


試験は三つ。

グラセル能力実技。

筆記試験。

硝子細工実技。

それぞれ百五十点。

合計四百五十点のうち、三百点以上で合格となる。


つまり本来、グラセルを持たない者がこのアカデミーに入ることは、ほとんど不可能だった。

だがリュドは違った。

グラセル能力実技で点を取れないまま、筆記試験と硝子細工実技だけで合格点に届いた。

それは、エラグレア・アカデミーの歴史でも初めてのことだった。

グラセルを持たない、初めての生徒。

その事実は、誇れるはずのものだった。

けれど同時に、リュドを孤立させる理由にもなっていた。

「気にすんな、リュド」

ガイルは前を向いたまま言う。

「お前がここにいるのは、ちゃんと実力で勝ち取った結果だ」

リュドは少しだけ顔を上げた。

「……うん」

小さく答える声は、まだ弱かった。

それでも、リュドはもう一度前を向き、校舎へ向かって歩き出した。


しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

周囲の視線はまだ完全には消えていない。

それでもガイルは、気にする様子もなく、いつもの調子で歩いていた。

やがて、ガイルの方から口を開く。

「そういや、リュド。お前、どうすんだ?」

「え?」

「卒業したあとだよ」

リュドは少し考えるように視線を落とした。

「うん……多分、じいちゃんの工房を継ぐかな」

それは、ずっと前から何となく考えていた未来だった。

クラリスの窓で、硝子細工を作り続ける。

祖父の背中を見て育ったリュドにとって、それは自然な道でもあった。

「ガイルは?」

リュドが尋ねると、ガイルは待ってましたと言わんばかりに胸を張った。

「俺はヴァスレインに帰って、騎士になる!」

自信に満ちた声だった。

「そんで、いい嫁もらって、子どもができたら、戦士ってやつが何なのか教えてやるのさ!」

ガイルはそう言って、ガハハと豪快に笑った。

リュドはその様子を見て、思わず微笑む。

「いいね、その夢。ガイルらしいよ」

「だろ?」

ガイルは得意げに笑う。

けれど、次の瞬間。

その表情が少しだけ真剣なものに変わった。

「リュド」

名前を呼ばれ、リュドはガイルを見る。

「お前もさ」

ガイルはまっすぐにリュドを見つめていた。

「いつか絶対、グラセルを作れる。俺はそう信じてる」

リュドは何も言えなかった。

胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。

ガイルは、にっと笑った。

「だって俺、お前以上のガラス職人なんて見たことねぇからな」

その言葉は、乱暴で、飾り気もなくて。

けれど、まっすぐだった。

リュドは小さく息を吸い、少しだけ笑った。

「……ありがとう、ガイル」

いつもそうだ。

リュドが下を向きそうになるたび、ガイルは強引なくらい明るく前を向かせてくれる。

その言葉に、リュドは何度も救われてきた。

「まあ、お前はガラス細工、雑すぎるがな」

横からドランが、ぼそりと言った。

「んだとぅ!? ドラン、砂くずにするぞ!」

ガイルは笑いながら拳を振り上げる。

ドランはまったく動じず、呆れたように鼻を鳴らした。


そんなやり取りをしながら校舎へ向かっていると、前方から一人の青年が歩いてきた。

青みがかった髪。

冷たく鋭い目つき。

感情をほとんど映さない表情。

その隣には、四足歩行のグラセルがいた。

青灰色から黒銀色にきらめく体は、獣のようでありながら、刃のようにも見える。

無駄のない足取りで、主人の傍らを静かに歩いていた。

「……ゼクト」

ガイルの表情が変わった。

先ほどまでの豪快な笑みが消え、低くこぼすようにその名を呼ぶ。

彼の名は、ゼクト=クロウベルク。

ヴァスレイン出身の青年であり、ガイルの幼なじみ。

そして、同じ道を競い合ってきたライバルでもあった。

傍らにいるグラセルの名は、シグラ。

ゼクトは、リュドを一瞬だけ見た。

まるで価値を測るような、冷たい視線だった。

そしてすぐに、ガイルへ目を戻す。

「ガイル。お前はまだ、こいつといるのか」

「だからなんだ?」

ガイルの声が低くなる。

「お前には関係ないだろ」

「関係ある」

ゼクトは表情を変えずに言った。

「お前はヴァスレインに戻れば、いずれ騎士団を背負う男だ」

ガイルは眉をひそめる。

「何が言いたい」

「昔のお前は、もっと前だけを見ていた」

ゼクトの声は静かだった。

だが、その静けさの奥には、冷たい苛立ちがあった。

「誰よりも強くなると、本気で言っていたはずだ。だが今のお前はどうだ。グラセルを持たない者に情を移し、その者を庇うことばかりしている」

「リュドは足手まといじゃねえ」

ガイルの声に怒気が混じった。

ゼクトはそこで、もう一度リュドを見る。

青髪のヴァスレイン人は珍しい。

けれど、わずかに見えた獣のような鋭い歯が、彼もまたヴァスレインの血を引く者であることを示していた。

「グラセルを持たない者に、何の価値がある」

その言葉に、空気が冷えた。

「グラセルは己の力の証明だ。心の強さ、技の深さ、戦う覚悟。それらを形にしたものだ」

ガイルが一歩前に出ようとする。

だが、その前にリュドが口を開いた。

「違う」

静かな声だった。

けれど、はっきりとしていた。

「グラセルは、力を見せつけるためのものじゃない。ともに生きる、心の相棒だよ」

ゼクトの眉が、わずかに動いた。

少しの沈黙。

そして、ゼクトは冷たく言う。

「だが、その心に相棒はいないようだな」

その一言に、ガイルの目つきが変わった。

「ゼクト……貴様!」

ガイルの拳が、ゼクトへ向かって振り上がる。

その瞬間――

シグラが、音もなくゼクトの前に滑り込んだ。

あまりにも速い動きだった。

まるで黒銀の刃が、空気を切って現れたかのようだった。

ガイルの拳は、シグラの目前で止まる。

「もういいだろ」

ドランが低く言った。

その声には、ガイルを止めるだけの重みがあった。

ガイルは歯を食いしばりながら、拳を下ろす。

ゼクトは最後まで表情を変えない。

ただ、去り際にガイルへ言葉を残した。

「ガイル。お前は心が幼い」

「なんだと……」

「守ることと、甘やかすことを履き違えている」

ゼクトは冷たい目で、ガイルを見据える。

「お前には力がある。ヴァスレインに戻れば、いずれ多くの者を率いる立場になる」

一拍置いて、ゼクトは続けた。

「だからこそ、情で足を止めるな」

ガイルは何も言わなかった。

ただ、強く拳を握っていた。

「強くなれ、ガイル。お前は、そんな場所にいる人間じゃない」

そう言い残し、ゼクトはシグラを連れて校舎の中へ入っていった。

その背中が見えなくなっても、ガイルの怒りは収まっていなかった。

リュドは、何も言えなかった。

ゼクトの言葉は、自分だけを傷つけるものではなかった。

ガイルの未来にまで、影を落とす言葉だった。

「……悪い、リュド」

ガイルが小さくつぶやいた。

リュドは首を横に振る。

「ガイルが謝ることじゃないよ」

それでも、胸の奥には痛みが残っていた。

グラセルを持たない自分は、本当に誰かの足を止めているのだろうか。

そんな考えが、リュドの心に小さな影を落とした。


重い空気を引きずったまま、リュドとガイルは校舎の中へ入った。

二人が向かったのは、最初の講義が行われる教室。

今日の一限目は、ヴィトラリス世界史だった。

教室の中央には大きな黒板があり、その横には古びた歴史書や巻物、ヴィトラリスの世界地図が並べられている。

地図には、ソルメリア、ヴァスレイン、エルネシア、ネルヴァルトの四大国が色分けされ、それぞれの領土や主要都市が細かく記されていた。

リュドとガイルは、いつもの席に腰を下ろす。

「……まだ先生、来てないのか」

ガイルが腕を組みながら言った。

教室には、すでに数名の生徒が集まっていた。

彼らのそばには、それぞれのグラセルが静かに控えている。

植物のようなもの、獣のようなもの、魚のようなもの。

形は違っても、どれも持ち主の心を映すように、独自の輝きを放っていた。

リュドは、それらを一瞬だけ見て、すぐに視線を机へ落とした。

数分後、教室の扉が開いた。

入ってきたのは、プラチナブロンドの長い髪を後ろでゆるく束ねた男性だった。

丸眼鏡の奥には、穏やかな目がある。

どこか気だるげで、それでいて不思議と品のある雰囲気をまとっていた。

「やあ、みんな。おはよう」

男性はにこやかに教室を見渡した。

「もう、みんな揃っているかな?」

その視線が、ふとリュドのところで止まる。

ほんの一瞬、目が合った。

先生は、何も言わずに柔らかく微笑んだ。

リュドも、小さく会釈を返す。

すると、一人の生徒が声を上げた。

「クロウス先生、少し遅刻ですよ!」

クロウス先生は困ったように笑い、片手を軽く上げた。

「ああ、すまないね。ちょっとばかり忙しくてね」

そして、黒板の前に立つ。

「では、早速授業を始めようか」

教室のざわめきが、少しずつ静まっていく。

クロウス先生は、黒板のそばに置かれていた古い歴史書を手に取った。

表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。

長い時代を越えて読み継がれてきたものだと、ひと目でわかる本だった。

「今日は少し、千年前の神話について話そう」

その言葉に、数人の生徒が顔を上げる。

クロウス先生は、ゆっくりと本を開いた。

そして、静かな声で読み始める。


はるか古の御世、ヴィトラリスの地に、黒き厄災ノクティルあらはれけり。

天は雲に閉ざされ、日は光を失ひ、

大地は荒れ、草木は枯れ、

人の心を映す硝石晶の輝きも、日に日に薄れゆきぬ。

世、まさに滅びの影に覆はれんとせし時、

四つの部族より、四人の長、立ち上がりけり。

光を掲げし者、ルミナス。

誓ひを胸に燃やせし者、グリード。

森と共に生きし者、ミレア。

記憶を守りし者、セリオン。

また、その傍らには、星より来たりし原初のグラセル、

アステルありけり。

アステルは人々に、硝子へ心を宿す力、

すなはちメルドを授けたり。

四人の長は、その力をもって心を重ね、

硝石晶に己が意志を宿し、

黒き厄災ノクティルに立ち向かひけり。

長き戦ひの果て、ノクティルはつひに討たれ、

閉ざされし空にはふたたび光さし、

ヴィトラリスの大地には、失はれし硝石晶の輝き戻りけり。

かくして、世は再び息を吹き返し、

人々は四人の長と原初のグラセルを、

永き時の彼方まで語り継ぎける。


クロウス先生は本を閉じ、教室を見渡した。

「これは、みんながよく知っている神話の話だね」

黒板の前で、先生はゆっくりと言葉を続ける。

「四人の長と原初のグラセル、アステル。彼らが黒き厄災ノクティルを討ち、ヴィトラリスに光を取り戻した。今の四大国の成り立ちを語るうえで、避けては通れない始まりの物語だ」

リュドは、机の上で手を組みながら、その言葉を聞いていた。

誰もが知っている神話。

幼い頃から何度も聞かされてきた、ヴィトラリスの始まりの物語。

クロウス先生は、閉じた本の表紙にそっと手を置いた。

「けれど、実際にこれがすべて真実なのかは、今もわかっていない」

教室の空気が、少しだけ変わった。

「神話とは、長い年月の中で語り継がれるものだ。そこには事実もあれば、人々の願いや恐れが混ざることもある」

クロウス先生は黒板の前に立ち、ヴィトラリスの地図へ目を向けた。

「今でこそ四大国は平和を保っている。だが、その平和が訪れたのは、わずか二百年前のことだ」

黒板に、白いチョークで大きく数字が書かれる。

二百年前。

「それ以前のヴィトラリスでは、四大国が長く争い続けていた。土地を巡り、資源を巡り、信仰を巡り、そして……硝石晶を巡ってね」

先生の声は穏やかだった。

けれどその目は、どこか遠くを見ているようだった。

「人はなぜ、争うのか」

ぽつりと落とされた言葉に、教室は静まり返る。

クロウス先生は、少しだけ目を細めた。

まるで、今ここではないどこかを思い出しているような表情だった。

「実は、千年前にも一度、平穏な世界があったという伝承が残されている」

その言葉に、リュドは顔を上げた。

「ソルメリアの祖、ルミナス。彼はかつて、部族同士の争いを終わらせ、すべての部族をひとつにまとめ上げたと言われている」

クロウス先生は、黒板にルミナスの名を書いた。

「ルミナスが生きていた間、人々は争うことなく暮らしていた。少なくとも、そう伝えられている」

ガイルが腕を組みながら、小さくつぶやく。

「……そんな時代があったのかよ」

「伝承では、ね」

クロウス先生は穏やかに答えた。

「けれど、ルミナスが亡くなった後、世界は大きく変わった。技術は発展し、国は豊かになり、人々の暮らしも広がっていった」

そこで先生は、一度言葉を切る。

「だが発展は、必ずしも平和だけを生むわけではない」

教室の誰もが、先生の言葉に耳を傾けていた。

「人々は、より多くを求めるようになった。より強い硝石晶を。より優れたグラセルを。より広い土地を。より多くの富を」

クロウス先生の声が、わずかに低くなる。

「その欲が、やがてヴィトラリスを混沌へと導いた」

リュドは、無意識に手元のメルドグローブへ視線を落とした。

クロウス先生は、ゆっくりとリュドの方を見る。

「その大きな要因となったものが、ひとつある。何かわかるかい、リュド」

突然名前を呼ばれ、リュドは少し驚いた。

教室中の視線が、リュドへ集まる。

一瞬、言葉に詰まる。

だが、すぐに思い当たるものがあった。

硝石晶よりも希少で、

奇跡のような性質を持つと語られるもの。


リュドは小さく息を吸い、答えた。

「……ルパーティア、ですか?」


クロウス先生は、静かに微笑んだ。

「そう。奇跡の硝石晶――ルパーティアだ」


「ルパーティアは死者の魂を宿すことができる。手にした者に幸福をもたらす」

クロウス先生は、黒板に書かれた“ルパーティア”の文字を見つめた。

「そうした“噂”が、人々を狂気へと変えていった」

教室が、しんと静まり返る。

その中で、一人の少女が手を上げた。

栗色の髪を肩のあたりで揃えた、落ち着いた雰囲気の少女だった。

「先生。実際に、死者の魂を宿すことはできるのですか?」

クロウス先生は、少女の方へ視線を向ける。

「いや。少なくとも、現在確認されている記録では、ルパーティアにそのような効果はない」

先生は穏やかに、けれどはっきりと言った。

「そもそもルパーティアについては、どうやって生まれたのか、どのような性質を持つのか、その多くがわかっていないんだ」

黒板に、先生は短く書き足す。

ルパーティア――希少硝石晶。推定硬度8以上。

「わかっているのは、推定硬度8以上を持つ、極めて希少な硝石晶であること。そして、その希少性ゆえに、数え切れない人々が欲しがったということだ」

少女は少し考え込むように目を伏せ、それからもう一度尋ねた。

「硝石晶ということは、メルドを使えば、ルパーティアで物を形作ることはできるのでしょうか?」

クロウス先生は、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

「いい質問だね、ソフィア」

彼女の名は、ソフィア=ウォード。

真面目で知識欲が強く、講義中もよく質問をする生徒だった。

クロウス先生は、教室全体を見渡す。

「結論から言うと、誰にも作れなかった」

その言葉に、教室のあちこちで小さなどよめきが起こる。

「過去にルパーティアを手にした者たちは、誰もが試みた。器を作ろうとした者、武器を作ろうとした者、グラセルを作ろうとした者。国も、職人も、研究者も、例外なくね」

先生は黒板に軽く指を添える。

「結果はすべて失敗だった」

リュドは、思わず身を乗り出した。

「どうしてですか?」

クロウス先生はリュドを見る。

「ルパーティアは、削れない。砕けない。溶けない。そして、メルドにほとんど応えない」

「メルドに……応えない?」

リュドが小さくつぶやく。

「そうだ。通常の硝石晶は、作り手の心に反応して形を変える。けれどルパーティアは、まるで自分の意志を持っているかのように、外からの干渉を拒む」

先生の声が、少しだけ低くなる。

「だから人々は、こう考えた。これは人の手で扱うものではない。神が残した奇跡なのだ、と」

そこで先生は、一拍置いた。

「だがね。奇跡と呼ばれるものほど、人は欲しがる」

教室の空気が、また少し重くなった。

「扱えないとわかっていても、人々はルパーティアを求め続けた。持っているだけで幸福になれる。死者に会える。最高のグラセルを作れる。そんな噂だけが一人歩きしていった」

クロウス先生は静かに本を片づける。

「噂は、やがて争いの理由になった」

「そして、争いが終わる頃には、ルパーティアは各地へと散らばっていた」

クロウス先生は、黒板に描かれたヴィトラリスの地図へ目を向けた。

「現在、所在が確認されているものは四つだけ。各大国に一つずつ、厳重に管理されている」

教室の中が、静かになる。

「再び、争いの種にならないようにね」


先生はそう言って、チョークを置いた。

「さあ、今日の授業はこれで終わろうか」

その言葉に、生徒たちの空気が少し緩む。

「みんなもう知っていると思うけれど、一週間後、卒業前の行事として“グラセル・レガリア”が行われる」

クロウス先生は、教室を見渡した。

「グラセル同士の対抗戦だね。四大国のお偉いさんもたくさん集まる。卒業後の進路にも関わる大事な場だ。自分の力をしっかり示すんだよ」

そこで先生は、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。

「以上。今日の講義はここまで」

授業が終わると、生徒たちは次々に立ち上がった。

机の上の道具を片づける音。

椅子を引く音。

グラセルたちの足音や羽音が、教室の中に広がっていく。

ガイルも立ち上がり、リュドを見る。

「行くぞ、リュド」

けれど、リュドは席を立たなかった。

「……先に行ってて」

「ん?」

「ちょっと、先生に聞きたいことがあるんだ」

ガイルは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに頷いた。

「わかった。外で待ってる」

ガイルとドランが教室を出ていく。

やがて、教室にはリュドとクロウス先生だけが残った。

クロウス先生は、黒板の文字を消しながら口を開く。

「どうしたんだい、リュド」

リュドは少しだけ拳を握った。

そして、まっすぐ先生を見る。

「クロウス先生」

「うん?」

「俺も……グラセルなしで、グラセル・レガリアに出させてもらえませんか?」

クロウス先生の手が止まった。

「……君が?」

先生は振り返り、少し驚いた顔でリュドを見る。

「メルドで作ったものを使って、グラセルと対抗したい。そういうことかい?」

「はい」

リュドの返事は、迷いのないものだった。

クロウス先生は、しばらく黙ってリュドを見つめた。

「ルールはわかっているかい?」

「わかっています」

「グラセル・レガリアは、相手のグラセルを無力化し、最後に相手の胸につけられたガラスのハート型エンブレムを破壊することで勝敗を決める」

先生の声は、先ほどよりも少し硬かった。

「つまり、ただの競技とはいえ、グラセル同士が直接ぶつかる。衝撃も、速度も、普通の訓練とは比べものにならない」

「それでも、出たいです」

リュドはまっすぐ答えた。

クロウス先生は、ゆっくり息を吐く。

「……リュド。君は類まれな才能を持っている」

その言葉に、リュドは少しだけ目を見開いた。

「メルドの技術に関して言えば、君以上の生徒を、私は見たことがない」

先生の声は穏やかだった。

けれど、その奥には本気の心配があった。

「だが、危険だ」

クロウス先生は静かに言う。

「生身の人間が、直接グラセルを相手にするのはね」

リュドは黙っていた。

それでも、目は逸らさなかった。

クロウス先生は、そんなリュドを見て、少し困ったように微笑む。

「君が何かを証明したい気持ちは、わかるよ」

リュドの拳に、力がこもる。

「けれど、証明のために傷ついていい理由にはならない」

教室の外から、生徒たちの声が遠く聞こえてくる。

リュドは一度だけ目を伏せた。

だが、すぐに顔を上げた。

「……俺は、証明したいんです」

静かな声だった。

「グラセルがいなくても、俺はここで学んできた。ここにいる意味があるって」

そして、少しだけ唇を噛む。

「それに……俺のメルドは、誰かの足を止めるものじゃないって」

クロウス先生は、その言葉を聞いて何も言わなかった。

ただ、リュドの目をじっと見つめていた。


「はぁ……」

クロウス先生は、小さくため息をついた。

呆れているようでいて、その表情はどこか優しい。

リュドを責めるというより、最初からこうなることをわかっていたような顔だった。

「リュド。君は本当に、ぶれないね」

「……すみません」

「謝ることじゃないよ」

クロウス先生は、少しだけ目を細めた。

「昔、君によく似た子を教えたことがあるんだ」

「俺に、ですか?」

「ああ。何を言っても、自分で決めたことを曲げない子だった。危ないと言っても、無理だと言っても、それでも前へ進もうとする」

その声には、懐かしさがあった。

けれど同時に、ほんの少しだけ悲しみも混じっているように聞こえた。

リュドは何かを聞こうとした。

だが、クロウス先生はすぐにいつもの明るい表情へ戻った。

「……わかった」

「え?」

「校長には、私から伝えておくよ」

クロウス先生は、肩をすくめるように笑った。

「参加者を一名追加します、ってね」

リュドの顔がぱっと明るくなる。

「あ、ありがとうございます!」

深く頭を下げると、リュドは足早に教室を出ていった。

その背中を見送りながら、クロウス先生はしばらく黙っていた。

困ったような、けれどどこか嬉しそうな表情で、ぽつりとつぶやく。

「本当に……よく似ているよ」

その声は、誰にも届かなかった。


教室の扉を開けると、廊下の壁にもたれかかるようにしてガイルが待っていた。

隣ではドランが、静かに座っている。

「よ。終わったか?」

「待っててくれたんだ」

「当たり前だろ。親友を置いていくわけねえだろうが」

ガイルはそう言って、にっと笑った。

「んで? 先生と何の話してたんだ?」

リュドは一度だけ息を吸う。

そして、まっすぐガイルを見た。

「俺も、グラセル・レガリアに出るよ」

ガイルの笑顔が、一瞬止まった。

「……は?」

ドランも赤い目を細める。

「リュド。それは本気で言っているのか?」

リュドは小さく頷いた。

「うん。本気だよ」

ガイルはしばらく何も言わなかった。

だが次の瞬間、頭をがしがしとかきながら、大きく息を吐いた。

「……ったく」

怒っているのか、呆れているのか。

それでも、ガイルは最後には笑った。

「お前も大概、無茶するやつだな」

リュドは少しだけ苦笑する。

「ガイルにだけは言われたくないよ」

「言うようになったじゃねえか」

ガイルはリュドの肩を軽く叩いた。

今度は、さっきよりずっと優しく。

「なら、やるからには勝てよ」

「うん」

「俺も出る。だから、お前が本気なら、俺も本気で見る」

ガイルの声は、いつものように明るかった。

けれど、その奥には心配も混じっていた。

リュドはそれに気づきながらも、まっすぐ頷いた。

「ありがとう」


クロウス先生の授業を終えると、生徒たちはそれぞれ次の講義へ向かい始めた。

廊下には、ざわざわとした声が広がっている。

授業の話をする者。

一週間後のグラセル・レガリアについて盛り上がる者。

自分のグラセルに声をかけながら歩く者。

その中を、リュドとガイルは並んで歩いていた。

「次、俺はグラセル構築学だから、またあとでな」

ガイルはそう言って、別の教室へ向かおうとする。

「ああ、また後で」

リュドが返すと、ガイルは軽く手を上げた。

「無茶すんなよ」

ガイルはそう言って笑い、ドランとともに人の流れの中へ消えていった。

リュドはその背中を少し見送る。

そして、自分の時間割を思い出した。

次は、硝石晶鍛造実技。

硝石晶を加工し、形を与えるための実技授業だ。

リュドにとっては、最も得意な授業でもあった。

肩にかけたカバンの紐を握り直し、リュドは別棟へ向かって歩き出した。

硝石晶鍛造実技の教室へ向かうと、扉の前に一人の少女が立っていた。

栗色の髪を揺らし、手には分厚い教本を抱えている。

さきほど世界史の授業で質問をしていた少女――ソフィア=ウォードだった。

ソフィアはリュドの姿を見つけると、まるで待っていたかのように微笑んだ。

「来たわね」

「ソフィア?」

リュドは少し驚いたように足を止める。

「あなたなら、この授業を取っていると思っていたわ」

「俺が?」

「ええ。グラセル構築学より、硝石晶鍛造実技を選ぶでしょう?」

ソフィアは当然のように言った。

エラグレア・アカデミーでは、実技授業の一部を選択することになっている。

主に分かれるのは、グラセル構築学と硝石晶鍛造実技。

グラセル構築学は、グラセルの能力を伸ばし、戦闘や補助能力を高めるための授業。

一方、硝石晶鍛造実技は、メルドによって硝石晶そのものを加工し、道具や器、細工を形作るための授業だった。

グラセルを持つ生徒の多くは、迷わずグラセル構築学を選ぶ。

だからこそ、リュドはソフィアがここにいることの方に驚いた。

「君こそ、グラセル構築学だと思ってたよ」

ソフィアは口元に手を添え、ふふ、と笑う。

「あなたみたいな天才のメルドを見られる機会なんて、ここでしかないでしょう?」

「天才って……」

「謙遜しなくていいわ。今日は勉強させてもらうつもりよ」

まっすぐそう言われ、リュドは少し困ったように笑った。

その時、廊下の奥から大きな声が響いてきた。

「お! お前らか!」

振り返ると、大柄な男がこちらへ歩いてくるところだった。

茶色い髪に、伸びた髭。

分厚い腕と広い肩幅を持ち、教師というより、鍛冶場の親方と呼んだ方がしっくりくる風貌だった。

「こんにちは、ロウエン先生」

リュドが頭を下げる。

男の名は、バルト=ロウエン。

硝石晶鍛造実技を担当する教師である。

「おう、こんにちは!」

ロウエン先生は豪快に笑い、教室の扉を開けた。

「さあ、授業を始めるぞ。入った、入った!」

リュドとソフィアは、促されるまま教室へ入る。

中は、思った以上にがらんとしていた。

広い作業台がいくつも並び、壁際には加工用の道具や保護具が整然と置かれている。

炉のような設備もあるが、通常の火ではなく、硝石晶を温めるための特殊な晶炉だった。

だが、そこにいる生徒は少ない。

リュドとソフィア。

そして、数名の生徒だけ。

教室の広さに対して、あまりにも人数が足りていなかった。

その理由を、リュドはよく知っている。

多くの生徒にとって、硝石晶そのものを加工する技術は、それほど重要視されていない。

グラセルさえいれば、生活の補助にも、戦闘にも困らない。

さらに卒業後、多くの者は軍や騎士団、各国の管理機関を目指す。

そうなれば、必要とされるのは自分の手で硝石晶を形作る力よりも、グラセルを強く扱う力だった。

だから、ほとんどの生徒はグラセル構築学へ向かう。

メルドの技術だけを磨こうとする者は、今では少数派だった。


「わっはっは!」

ロウエン先生は教室を見渡し、大きく笑った。

「今日はまた少ないな! グラセル構築学とかぶったか!」

その声が、がらんとした教室によく響く。

「まあ、いい。少ない方が、ひとりひとりしっかり見られるってもんだ」

ロウエン先生は黒板の前に立ち、腕を組んだ。

「それじゃ、授業を始めるぞ」

生徒たちが、それぞれ作業台の前に立つ。

ロウエン先生は、にやりと笑った。

「まずは、おさらいだ」

ロウエン先生は黒板に大きく文字を書いた。


心の三原則

「もう何度も聞いていると思うが、メルドを行ううえで大切なのは、この三つだ」

先生はチョークで、ひとつ目の言葉を書き足す。


澄魂――ちょうこん

「心が濁らず、恐れや怒りに揺れない状態。これが澄魂だ」

続いて、二つ目。


精律――せいりつ

「感情を制御し、意識を一点に集中する状態。余計な迷いを削ぎ落とす力だな」

最後に、三つ目。


融念――ゆうねん

「柔軟に、他者や状況と調和できる状態。自分の心だけで押し通すんじゃなく、素材の声や周囲の流れを受け入れる力だ」


ロウエン先生は黒板を軽く叩いた。

「この三つの心のあり方が、グラセルや硝石晶細工の質に大きく影響する」

先生は教室を見渡し、豪快に笑った。

「つまりだ。どれだけ手先が器用でも、心が乱れていれば硝石晶は応えてくれない。逆に、心が整っていれば、ただの欠片にも見える硝石晶が、驚くほど美しい形になることもある」

そして、作業台に置かれた硝石晶をひとつ手に取る。

「メルドは力技じゃない。心を押しつけるものでもない」

ロウエン先生は、その硝石晶を生徒たちに見せるように掲げた。

「心を澄ませ、意識を整え、素材と調和する。そこから、形が生まれる」

リュドはその言葉を聞きながら、静かに自分のメルドグローブを見下ろした。


ロウエン先生は、黒板に書いた三つの言葉を見ながら、腕を組んだ。

「俺から言わせりゃあ、グラセル構築学より、メルドを磨く方がよっぽど有用だ」

数人の生徒が、少しだけ顔を上げる。

ロウエン先生は気にせず、豪快に笑った。

「もちろん、グラセルを鍛えることが悪いって話じゃない。だがな、グラセルに頼る前に、自分の心と手で硝石晶を扱えなきゃ、職人としては半人前だ」

そう言って、先生は黒板に新たな言葉を書き足していく。


クラッシュベイン

グリントシールド

モールドウィーヴ


「心の三原則は、硝石晶の物性にも影響する。これを実技用語で言い換えると、こうなる」


ロウエン先生は、まずクラッシュベインを指した。

「クラッシュベイン。衝撃強度のことだ。簡単に言えば、割れにくさだな」

そして、その横に澄魂と書き加える。

「心が澄み、恐れや怒りに揺れなければ、硝石晶は砕けにくくなる。つまり、澄魂はクラッシュベインに関わる」


次に、先生はグリントシールドを指した。

「グリントシールド。これは表面硬度。傷つきにくさのことだ」

その横に、精律と書く。

「感情を制御し、意識を一点に集中できれば、表面の揺らぎが少なくなる。結果として、傷に強い硝石晶になる。精律はグリントシールドに関わるわけだ」


最後に、先生はモールドウィーヴを指した。

「そして、モールドウィーヴ。加工性、つまり形の作りやすさだ」

その横に、融念と書き加える。

「柔軟に素材と調和できる心があれば、硝石晶は形を変えやすくなる。無理やり押し曲げるんじゃない。素材の流れを読んで、形を編むんだ」

ロウエン先生は黒板を軽く叩いた。

「まとめると、こうだ」


澄魂

心が濁らず、恐れや怒りに揺れない状態。

対応する物性は、クラッシュベイン。

衝撃強度、つまり割れにくさ。

精律

感情を制御し、意識を一点に集中する状態。

対応する物性は、グリントシールド。

表面硬度、つまり傷つきにくさ。

融念

柔軟に他者や状況、素材と調和できる状態。

対応する物性は、モールドウィーヴ。

加工性、つまり形の作りやすさ。


「この三つを理解せずにメルドを使えば、硝石晶はすぐに割れる。傷だらけになる。思った形にもならん」

ロウエン先生は、生徒たちを見渡した。

「逆に言えば、この三つを高めれば、同じ硝石晶でもまったく別物になる」

そこで先生は、にやりと笑う。

「だから、メルドは面白いんだ。ただの技術じゃない。心のあり方そのものが、形になるんだからな」


ロウエン先生は、黒板に書いた三つの物性用語を見ながら続けた。

「そして、これらのバランスを見て、硝石晶やグラセルの硬度・強度を評価する」

先生はチョークを握り直し、黒板に大きく数字を書いた。


硬度・強度評価 1〜10


「現状、硝石晶やグラセルの硬度・強度は、1から10の段階で評価される」

ロウエン先生は、まず中央に大きく7と書いた。

「正統な技術で到達できる限界は、基本的に7だ」

数人の生徒が、黒板の数字を見つめる。

「レベル7。これは、心の三原則――澄魂、精律、融念を高い次元で整えた者だけが届く領域だ。つまり、人間が正しくメルドを極めた先にある限界だな」

そこで先生は、少し声を低くした。


「だが、8以上は違う」

黒板に、今度は大きくこう書かれる。

禁忌領域 8以上

「レベル8以上は、通常の硝石晶加工では到達できない。正統なメルドだけでは、まず届かん」

教室の空気が、わずかに重くなる。

「そこに到達するには、赫灰、あるいは特殊な例外が必要になる」

ロウエン先生は、チョークを置き、生徒たちを見渡した。

「だからこそ、8以上は禁忌、あるいは奇跡の領域と呼ばれている」

それから先生は、黒板の端に目安を書き並べていく。


レベル1〜2

日用品や装飾品として扱われる程度。

壊れやすく、実戦には向かない。

レベル3〜4

家具や建築装飾に使える強度。

日常的な衝撃には耐えられる。

レベル5〜6

武器や盾として実用可能な領域。

騎士団や軍で扱われる装備にも使われる。

レベル7

正統技術の到達点。

心の三原則を高い次元で整えた者だけが届く、人間の限界。

レベル8以上

禁忌、または奇跡の領域。

通常の硝石晶加工では到達できない。

レベル10

理論上の最大値。

ただし、実在が確認されているかどうかは、研究者の間でも意見が分かれている。


「この評価は、単に硬いかどうかだけを見るものじゃない」

ロウエン先生は黒板を指で叩いた。

「クラッシュベイン、グリントシールド、モールドウィーヴ。この三つのバランスを総合して判断する」

先生は、作業台に置かれた硝石晶をひとつ持ち上げた。

「たとえば、割れにくいだけで、まったく加工できない硝石晶は扱いづらい。逆に、形は作りやすくても、すぐ割れるなら実用には向かん」

ロウエン先生は、にやりと笑った。

「大事なのは、何に使うかだ。装飾品なのか、道具なのか、武器なのか、グラセルなのか。それによって求められる性質は変わる」


ロウエン先生はそう言うと、作業台に置かれていた硝石晶を左手で持ち上げた。

「見てろ。実際にやってみせる」

生徒たちの視線が、先生の左手に集まる。

ロウエン先生は大きく息を吸い、硝石晶を握る左手に意識を集中させた。

そして、低く唱える。

「メルド!」

その瞬間、先生の手の中にある硝石晶が、美しく輝き始めた。

淡い光が硝石晶の内側から広がり、教室の壁や作業台をやわらかく照らす。

硬いはずの硝石晶は、まるで熱を帯びた水飴のようにしなやかに形を変えていった。

光の筋がくるりと回り、結晶の輪郭がほどけていく。

やがてそれは、細い首を持つ一輪挿しの花瓶へと姿を変えた。

透明な器の中に、淡い光が残っている。

曲線はなめらかで、硝子の肌には朝露のような輝きが宿っていた。

「……すごい」

隣で、ソフィアが小さくつぶやいた。

ロウエン先生は満足げに笑う。

「わっはっは! すごいだろう?」

そして、できあがった花瓶を作業台の上に置いた。

「だがな、これで完成じゃない」

「え?」

ソフィアが目を瞬かせる。

ロウエン先生は花瓶の縁を指で軽くなぞった。

「硬度だけなら、これは5くらいある。日用品としては十分な強度だ」

そう言ってから、先生は花瓶の口元を生徒たちに見せる。

よく見ると、縁の厚みにわずかなばらつきがあった。

胴の曲線も、美しく見えるが、完全な均一ではない。

「だが、形が悪い。力の流れが少し偏っている。このまま使えば、衝撃を受けた時に弱い部分から割れる」

ロウエン先生は、作業台に置かれた加工道具を手に取った。

「だから、ここからが職人の仕事だ」

先生は花瓶の表面を軽く叩く。

「メルドで一度形を作る。そこから工具で整える。余分な厚みを削り、歪みを直し、力の流れを整える」

そして、にやりと笑った。

「メルド一回で完璧に仕上げられれば、それが最高品質だ。だが、そんなことができる奴はそうそういない」

ロウエン先生は花瓶を持ち上げ、生徒たちへ見せた。

「大事なのは、硬度の数字だけじゃない。形、厚み、力の流れ、表面の揺らぎ。全部を整えて、初めて“使える硝石晶細工”になる」

リュドは、花瓶をじっと見つめていた。

美しい。

けれど、まだ完成ではない。

その言葉が、なぜか今の自分にも向けられているような気がした


「では、さっそくお前たちにもやってもらう」

ロウエン先生は花瓶を作業台に置くと、教室をぐるりと見渡した。

「ただし、全員がばらばらの物を作ると評価しにくいからな。今回は、全員に同じものを作ってもらう」

先生は黒板に大きく書いた。

課題:盾

「今日は盾を作れ」

生徒たちの間に、少し緊張が走る。

「作った盾は、俺のグラセルに攻撃させる。そこでクラッシュベイン、グリントシールド、モールドウィーヴのバランスを見る」

その時、ロウエン先生の背後から、がらがらと低い声がした。

「おうおう! 若造ども!」

作業場の奥から姿を現したのは、ツルハシの形をしたグラセルだった。

柄は太く、刃の部分はごつごつとした硝石晶でできている。

まるで鉱山の奥深くから掘り出された道具が、そのまま命を宿したような姿だった。

「手加減なんざ期待すんなよ!」

口の悪いそのグラセルを見て、何人かの生徒が思わず身を引いた。

ロウエン先生は豪快に笑う。

「こいつは俺のグラセル、ガンロだ」

「へっ。ロウエンにこき使われてる、かわいそうな相棒様だ」

「余計なこと言うな、ガンロ」

ロウエン先生は呆れたように言いながらも、どこか楽しそうだった。

「ちなみに、ガンロの硬度は7だ」

その言葉に、生徒たちがざわつく。

硬度7。

正統技術で到達できる、人間の限界とされる領域。

ロウエン先生は片手を上げ、教室を落ち着かせる。

「安心しろ。全力で叩かせるわけじゃない。今回は7割程度の力でやってもらう」

「7割でも十分ぶっ壊せるけどな!」

ガンロが楽しそうに笑う。

ロウエン先生はにやりと口角を上げた。

「だからこそ訓練になる。盾は見た目だけ整っていても意味がない。受け止めて、耐えて、壊れずに役目を果たしてこそ盾だ」

先生は生徒たちへ向き直る。

「いいか。今回は硬度の高さだけを見ているんじゃない。衝撃をどう逃がすか。表面をどう整えるか。どれだけ無理なく形を保てるか。それを見る」

リュドは、作業台に置かれた硝石晶を見下ろした。

盾。

攻撃を受け止めるための形。

誰かを守るための形。

生徒たちは、順番に盾を作っていった。

一人目の生徒が作業台の前に立ち、硝石晶を左手で持つ。

深く息を吸い、集中するように目を閉じた。

「メルド!」

硝石晶が淡く光り、少しずつ盾の形へ変わっていく。

そこへさらに加工道具を使い、縁や表面を整えていった。

「よし、できました」

生徒が緊張した顔で盾を差し出す。

ロウエン先生は頷き、ガンロへ視線を向けた。

「ガンロ」

「おうよ!」

ガンロが勢いよく前へ出る。

ツルハシの刃が、ぎらりと光った。

「うりゃあああ!」

容赦のない一撃。

次の瞬間、盾は大きな音を立てて砕け散った。

「うわっ……!」

生徒が思わず肩をすくめる。

ガンロは楽しそうに笑った。

「はい! つぎぃいい!」

そこからも、同じような光景が続いた。

生徒たちはそれぞれ盾を作る。

丸盾、角盾、厚みを持たせた盾、装飾を入れた盾。

だが、ガンロの一撃を受けるたび、盾はひび割れ、砕け、床に破片を散らしていった。

「おらおら! そんな薄っぺらい覚悟じゃ受け止められねぇぞ!」

「ガンロ、少し口を慎め」

「事実だろうが!」

ロウエン先生は呆れたようにため息をつく。

けれど、止めはしなかった。

やがて、ソフィアの番になった。

ソフィアは静かに作業台の前へ立つ。

栗色の髪を軽く耳にかけ、左手で硝石晶を持った。

騒がしかった空気の中で、彼女だけが落ち着いていた。

一度、ゆっくりと呼吸を整える。

そして、まっすぐ硝石晶を見つめた。

「メルド」

その声は小さかったが、はっきりとしていた。

硝石晶が澄んだ光を放つ。

光は乱れることなく、円を描くように広がっていった。

やがて現れたのは、円形の盾だった。

中心には、剣を模した装飾が刻まれている。

派手さはない。

けれど無駄のない、整った形だった。

ソフィアは加工道具を手に取り、盾の縁を少しだけ整える。

表面をなぞる手つきは丁寧で、迷いが少なかった。

「お願いします」

ソフィアは完成した盾を差し出した。

ガンロが、にやりと笑う。

「へぇ。今までのよりはマシそうじゃねぇか」

そして、勢いよく振りかぶった。

「うりゃあああ!」

ツルハシの一撃が、盾へ叩き込まれる。

大きな衝撃音が教室に響いた。

しかし――盾は割れなかった。

「……!」

生徒たちが息を呑む。

ソフィアの表情にも、かすかな安堵が浮かんだ。

「よかっ――」

その瞬間。

ぴしり、と小さな音がした。

盾の中心から、細いひびが走る。

次の瞬間、パリン、と乾いた音を立てて、盾は割れてしまった。

「嘘……」

ソフィアは目を見開く。

砕け落ちた盾の破片が、作業台の上でかすかに光っていた。

ロウエン先生は破片をひとつ手に取り、じっと眺める。

「惜しかったな」

その声は、責めるものではなかった。

「メルド直後の硬度は、おそらく5はあった。形も悪くない。今までの中ではかなり良い出来だ」

ソフィアは黙って先生を見る。

「ただ、加工を入れた時に少しだけ流れが崩れたな。表面は整っているが、内側の力の通り道がずれている」

ロウエン先生は、盾の割れた断面を生徒たちに見せた。

「見た目は綺麗でも、衝撃は正直だ。弱い場所があれば、そこから割れる」

そして、ソフィアへ向き直る。

「メルド後の硬度を維持するか、加工を入れても遜色のない状態まで整えられれば、次は耐えられるはずだ」

ソフィアは少し悔しそうに唇を引き結んだ。

それでも、すぐに背筋を伸ばす。

「ありがとうございました」

丁寧に頭を下げ、ソフィアは後ろへ下がった。

その表情には、悔しさと同時に、次こそはという強い意志が浮かんでいた。


そして、リュドの番が回ってきた。

教室の空気が、少しだけ変わる。

先ほどまで騒いでいた生徒たちも、自然と視線をリュドへ向けていた。

グラセルを持たない生徒。

けれど、メルドの技術だけなら誰よりも優れていると言われる少年。

リュドは作業台の前に立ち、硝石晶を左手に乗せた。

盾を作る。

攻撃を受け止めるための形。

誰かを守るための形。

その瞬間、リュドの胸の奥に、強い感情が湧き上がった。

守りたい。

ただの課題のはずなのに。

ただ盾を作るだけのはずなのに。

なぜか、リュドの心には絶対に守らなければならないという想いが、はっきりと浮かんでいた。

誰を。

何を。

それはわからない。

けれど、その想いだけは、不思議なくらい強かった。

リュドは目を閉じる。

そして、静かに唱えた。

「メルド」

その瞬間、左手の硝石晶が光を放った。

淡い輝きではない。

内側から澄み切った光があふれ、硝石晶の輪郭がほどけていく。

結晶は、まるで水のように滑らかに流れた。

けれど、それは柔らかいだけではなかった。

無駄がない。

迷いがない。

一つひとつの動きが、まるで最初からそうなることが決まっていたかのように、美しく形を結んでいく。

誰もが息を呑んだ。

硝石晶の光は美しかった。

けれど同時に、どこか恐ろしくもあった。

人の手で形作られているはずなのに、まるで硝石晶自身がリュドの心に応えているように見えたからだ。

「……すごいねぇ」

ロウエン先生が、ぽつりとつぶやいた。

いつもの豪快な声ではなかった。

思わず漏れたような、静かな声だった。

隣で見ていたソフィアも、目を奪われたように言う。

「綺麗……やっぱり、すごい」

やがて光が収まる。

リュドの左手の前に現れたのは、三角形の盾だった。

余計な装飾はない。

けれど、縁は美しく整えられ、曲線と角度が見事に調和している。

盾の中心には、小さな星の形が浮かんでいた。

リュドは加工道具に手を伸ばさなかった。

メルドだけで、形は完成していた。

教室の誰もが、それを理解した。

あれは、加工する必要がない。

誰が見ても、そう思わせる完成度だった。

「……お願いします」

リュドは静かに言い、盾を差し出した。

ロウエン先生はしばらく盾を見つめていた。

そして、にやりと笑う。

「ガンロ」

「ああ?」

「本気でいってみろ」

その言葉に、生徒たちがざわついた。

「本気って……」

「さっき7割って言ってたのに……」

ガンロは、ツルハシの刃をぎらりと光らせた。

「言われなくても!」

ガンロが大きく振りかぶる。

空気が張り詰めた。

リュドは盾を見つめたまま、動かない。

ただ、胸の奥にある“守りたい”という感情だけが、さらに強くなっていく。

次の瞬間。

ガンロの一撃が、盾へ叩き込まれた。

鋭い衝撃音。

教室の空気が、一瞬止まった。

誰も声を出さない。

盾は――砕けていなかった。

だが、その直後。

「いってええええええええっ!!」

ガンロの叫び声が、教室中に響き渡った。

見ると、ガンロのツルハシの先端が欠けていた。

硬度7を誇るグラセルの刃先が、わずかに砕けている。

だが、リュドの盾も無傷ではなかった。

盾の縁が、少し欠けていた。

ロウエン先生は、しばらく無言でその光景を見つめていた。

ガンロの先端。

リュドの盾。

どちらも、欠けている。

つまり――

相打ちだった。

教室の中に、重い沈黙が落ちる。

やがて、ロウエン先生がゆっくりと笑った。

「……わっはっは」

その笑い声は、いつもより低く、どこか楽しそうだった。

「とんでもねぇな、リュド」

リュドは、自分の作った盾を見つめたまま、息を呑んでいた。

自分でも、わからなかった。


「こ、こういう実戦みたいなことは初めてで……」

リュドは、自分の作った盾を見つめながら、戸惑ったように言った。

その表情には、喜びよりも驚きの方が強かった。

まさか自分の盾が、硬度7のグラセルと相打ちになるとは思っていなかったのだ。

「あっ!」

リュドは慌てて顔を上げる。

「ガンロは大丈夫ですか!?」

ロウエン先生は、ちらりと教室の隅を見る。

そこでは、ガンロが壁際でどんよりと沈んでいた。

欠けた先端を気にしながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。

「俺の刃が……若造の盾に……俺の刃が……」

「大丈夫だ。あとで直す」

ロウエン先生はあっさりと言った。

「……心の傷は直らねぇぞ」

ガンロが小さくぼやく。

ロウエン先生はそれを聞き流し、リュドへ向き直った。

「リュド」

「はい」

「さっきクロウス先生から聞いた。お前さん、グラセル・レガリアに出るんだってな」

リュドは少し背筋を伸ばす。

「はい。出ます」

ロウエン先生は、リュドの盾を手に取り、欠けた部分をじっと見た。

「今の技量なら、グラセルに対抗すること自体はできるだろう」

その言葉に、周囲の生徒たちが小さくざわつく。

ロウエン先生は続けた。

「だが、勘違いするな。今のはあくまで、正面から一撃を受けただけだ」

リュドは黙って頷いた。

「対抗試合では、相手は止まって待ってくれない。グラセルは動く。攻める。かわす。持ち主の指示に合わせて、次々に仕掛けてくる」

ロウエン先生は、軽く拳を握る。

「その中で、お前さんは自分で動きながら、メルドを行わなきゃならない」

リュドは自分の左手を見る。

メルドは、集中が必要な技術だ。

心を整え、硝石晶と向き合い、形を作る。

だが実戦では、その時間を相手が待ってくれるはずがない。

「一番気をつけるべきなのは、メルドを使うタイミングだ」

ロウエン先生の声が少し真剣になる。

「相手はグラセルを操りながら、お前さんが集中する隙を潰しにくる。メルドに入る瞬間を狙われれば、どれだけ技術があっても危ない」

リュドは息を呑んだ。

「お前さんなら、動きながらでもメルドはできるだろう」

ロウエン先生は、にやりと笑う。

「だが、できることと、試合で通用することは別だ」

その言葉は重かった。

「相手の動きを読む。距離を取る。必要な形を一瞬で決める。作るものを迷わない。これができなきゃ、試合では押し切られる」

ロウエン先生は、リュドの肩を軽く叩いた。

「うまいことやるんだぞ」

リュドは、強く頷いた。

「はい」

その返事に迷いはなかった。

けれど、リュドの胸の中には、新しい緊張が生まれていた。

自分のメルドは、グラセルに届くかもしれない。

でも、それだけでは勝てない。

グラセル・レガリアは、思っていた以上に厳しい戦いになる。

ロウエン先生の言葉を聞きながら、リュドは自分の左手を見つめた。

古びたメルドグローブ。

傷だらけで、何度も手入れされてきた革。

その手で、今までいくつもの硝子を形にしてきた。

リュドには、グラセルがいない。

それだけで、周りからは足りない者のように見られてきた。

どれだけ学んでも、どれだけ作っても、胸を張る資格がないように言われてきた。

でも、違う。

グラセルがいないから何もできないわけじゃない。

グラセルがいないから、誰かの隣に立てないわけじゃない。

この手で硝石晶を形にすることができる。

この心でメルドを扱うことができる。

守るための盾を作ることだってできる。

リュドは、静かに拳を握った。

一週間後。

卒業前最後の大舞台、グラセル・レガリア。

そこには、四大国の人々が集まる。

生徒たちも、先生たちも見ることになる。

怖くないわけじゃない。

不安がないわけでもない。

それでも、逃げたくはなかった。

証明したい。

グラセルがいなくても、できることがあるのだと。

グラセルがいなくても、自分はここに立っていいのだと。

リュドは、左手のメルドグローブを見つめた。

この手で、証明する。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ