ユリウス――報復と岐路
### 11-4 ユリウス――報復と岐路
◆ログ|記録 ⋯ [改ざん確認中]
[DEFECT-CONFIRM: CODE-U]
判定:通信装置・強化確認連絡への着信無視継続(七十二時間経過)
※ 当初の自発的離脱意思は数日前に確認済み。本カウントは定期強化連絡開始時点からの計測。
状態:離脱確定
処理区分:標準処理C
備考:回収不可。証拠消去を優先
[OPERATION-EXECUTE]
発令者:プライム
指令先:近傍待機C班
目標座標:エルデリア大陸北部・王立魔法学園近傍
移動開始:即時
[NOTE]
DELTA-ENTRY計画との干渉を避けること
標的接触は学園外で行うこと
先遣エージェントを暴露しないこと
◆異界|ユリウス ──
窓の外、学園の白い尖塔が見えた。
ユリウスは宿舎の椅子に座り、通信装置を手の中で転がしていた。起動させていない。三日間、ずっとそうしている。画面が暗いまま。
着信は止まっていた。
止まったということは、向こうが次の段階へ進んだということだ。
ユリウスは静かに状況を整理する。感情ではなく計算として。
オメガは、離脱エージェントを生かしておかない。それは訓練で学んだことだ。組織の論理である。標準処理C——知っている言葉ではあるが実行されるのは初めて見る。いや、見ることになるかもしれない。
逃げることはできるだろう。
今夜にでも学園を離れ、国境を越え、別の国、別の都市、別の名前。そうすれば命の危険は下がる。追跡には時間がかかるだろう。訓練されたエージェントが消えれば、オメガも簡単には見つけられない。
ユリウスはゆっくりと目を閉じ、その可能性を静かに確認した。
理屈と感情を超えて、ある問いが心に浮かび上がる。「また逃げるのか」、と。ただそこにある問いとして。
頭の奥に、顔が浮かぶ。しかし輪郭だけだ。小さな手の感触が残っている。あの子の名前は、今でも思い出せる。でも、顔が見えない。見えなくなったのはいつからだろう。
「……あの子には、最後まで逃げたと思われたに違いない」
声に出すと、その言葉は想像より重かった。
ユリウスは通信装置を机に置いた。
逃げれば命は続くだろう。だが、続いた先に何がある。また別の名前で、別の場所で、また一人で、また誰かの隣で何も言わずに見ている。それを続けるために今夜逃げる、ということか。
もう一度、今度は逃げない選択をしてみる。
そう思ったのは、論理ではない。そんな気がした。
ユリウスは椅子から立ち上がり、外套を羽織る。
◇ ◇
◆異界|ミユキ ──
午後の日差しの中。中庭は人が少なかった。
ミユキが本を読んでいたベンチに、影が落ちる。
「少し話がしたい。時間はあるか」
声で誰かわかった。ユリウスだ。
顔を上げると、銀色がかった青い目がこちらを見ていた。いつも通り感情が読めない表情。でも今日は、何かが違う。緊張というより、腹を括った人間の顔だとミユキは思った。
「どうぞ」
ユリウスの他に、別の足音が近づく。
「ユリウス・シュトラーゼ」
カイルだった。
巡回中だったらしく、騎士の略式装備のままだ。目が鋭い。ミユキとユリウスの距離を確認して、ユリウスとミユキの間に立った。
「約束が違うぞ。君たちの接触には作戦部の許可が必要だ」
「カイル」とミユキは言った。「同席してくれていいわ。ここで話します」
カイルはミユキをかばうように並んだ。ユリウスが何かした場合すぐに腰に差した剣を振るえる位置取りである。ユリウスはその配置を気にした様子もなく、ミユキに向かって口を開いた。
「オメガが動いた。俺を探している。時間がない」
「……いつから?」
「今日、通信が途絶えた。三日間無視したことで、向こうは離脱と判断したのだろう。この段階で通信が止まるということは、交渉や再説得ではなく、標準的な処理に移行した、ということだ」
「標準的な処理? 学園に来る可能性は?」
「もちろん、対象の排除だ。近傍まで来ていると考えた方がいい。ただし、学園に直接踏み込んでは来ない。王城との関係が面倒になる。外で待って、一人になった時に動く」
「一人になるな、ということ?」
「そうだ」
ミユキは本を膝の上で閉じた。
カイルが低い声で言う。「一つ確認させてくれ。なぜお前は今、この学園に残っている? 逃げる方が合理的だろう」
ユリウスはカイルを見た。
「逃げると追われる。この学園にいる限り、王城の威信が盾になる。それと……」
ユリウスは戸惑うように間をあける。
「俺はもう一つ、伝えなければならないことがある」
ミユキは待った。
「学園内には、俺とは別の先遣エージェントが潜入していると考えられる」
空気が変わった。
カイルが少し体を前に傾けた。ミユキは息を整えた。
「別の、エージェント……」
「ああ。俺が把握している限りでは最低一名。DELTA-ENTRY計画——デルタが本格潜入する前に、先に情報収集のために送り込まれた。俺への監視とは別ルートで動いている。俺もそいつの詳細は知らない。ただ、学園内に定点観測ポイントを持っていて、定期的に移動していると聞いていた」
「……移動パターンが規則的」とミユキが小さく言った。
カイルが振り向いた。「廊下の人物か?」
「ええ。毎朝、東棟から中央棟へ向かう渡り廊下を横切る。九時十分から二十分の間。三日連続で同じ時間帯に同じルートを通って」
ユリウスが目を細めた。
「見たのか」
「ええ」
「……おそらくそれだろう。定点観測の移動ルーティングだ」
カイルが「確認を急ごう」と言って手帳に書き始めた。
ミユキは自分の中で何かがつながる感触を確かめた。
『要確認段階から、要対処段階へ。それも、すでに来ている』
内通者の存在は「ほぼ確定」から「実在する脅威」へ変わった。
「ユリウス、どうして今更、私のところに来たの?」
ミユキは聞いた。言葉は柔らかくなかったが、拒絶でもなかった。純粋な問いだった。
ユリウスは少し間を置いた。
「……信じてくれたのが、お前だけだったから」
それだけだった。余計な言葉はなかった。
ミユキは視線を落とした。
ユリウスは信頼できるかどうかという話ではない。すでに信頼関係はこの状況開始前に成立している。問題はカイルをはじめとした仲間たちの中に、ユリウスがどう入るかということだった。
「カイル」とミユキは言った。「ユリウスをこのまま一人にしておくのは、情報管理の観点からも危ないわ。彼が知っていることは私が把握しているけれど、オメガに捕まったらそれが覆ってしまう」
「……行動を制限した上で、合流を認めるか」
「私はそう判断します。あなたの監視下でいい」
カイルはユリウスを見た。長い沈黙だった。
「俺はまだ、お前を信頼していない」
言い切ったあと、カイルは一瞬視線を逸らした。完全な不信なら、ここで言葉を選ぶ必要はないと自分でもわかっている顔だった。
「わかっている」とユリウスは静かに言った。「それで構わない」
カイルは一度ため息をついた。
「……ミユキの判断に従う。ただし、俺が見えないところで単独行動をした場合は、即座に保護対象から外すぞ」
「了解だ」
◇
日が傾き、中庭に夕方の風が来る。
カイルは証言内容の確認作業を始めるため、先に席を立った。足音が遠ざかる。
二人が残った。
ミユキはしばらく沈黙してから、ユリウスに聞いた。
「さっき、『先遣エージェント』の話をした時、詳細は知らないと言っていたけれど、なにか別に知っていることはあるの?」
「外見の特徴は聞いていない。だが、接触方法の指針は『友好関係を優先する』だった」
ミユキの背筋が少しだけ冷えた。
「笑顔で近づく、ということ?」
「そうだ。おそらく学園内に関係者として溶け込む方法を取っている。攻撃的な行動は後回しで、まず信頼を得ることを優先する」
「それは……」
ミユキは口を閉じた。
『廊下の人物は、ルーティンで動いていた。でも、「友好関係を優先」する指針で動く別の誰かが、すでに関係者として入り込んでいる可能性がある』
一人ではなく、複数の可能性。
パターンが見えている相手だけを警戒していたが、見えていない相手がまだいるかもしれない。
「わかったわ。ありがとう」
ミユキは立ち上がった。
ユリウスも立ち上がりかけて、一瞬止まった。
「……守れなかった子の話を、いつか話せる日が来るかもしれない」
唐突な言葉だった。
ミユキは振り返らなかった。でも、足は止まった。
「急がなくていいわ」とミユキは言った。「話せる気になったら、聞くから」
それだけ言って、中庭を歩き始めた。
◇
◆ログ|記録 ⋯ [改ざん確認中]
同時刻。
[OPERATION-EXECUTE: 近傍到達確認]
C班:エルデリア大陸北部 王都外郭区・宿場町に到着
標的の確認:学園内に在所を確認
接触予定:外出機会を待機
[SUSPEND]
別件処理を優先する
理由:DELTA-ENTRY計画との座標干渉を回避
再開時期:別途通知まで保留
C班は近傍に待機を継続
待機中。標的は生きている。
命令が再開されるまで、C班は宿場町に留まる。




