日常の裏の暗流――料理部・研究、そして内通者
### 11-3 日常の裏の暗流――料理部・研究、そして内通者
◆異界|ミユキ ──
料理部の調理室は、いつ来ても香ばしい匂いがする。
スパイスと焼き立てのパンの匂い。魔導コンロが発する薄い熱気。木製の作業台に並ぶ食材の、生き生きとした色。ミユキが学園で一番気に入っている空間を挙げるなら、実はここかもしれない。研究室より居心地がいいかもと感じることすらある。自分でも意外だった。
魔動研究会の工房は、成果と失敗が剥き出しになる場所だ。嫌いではない。むしろ好きだ。けれど、考えることが多くて、気を緩める暇がない気がする。
その点、この料理部の調理室には、肩の力を抜ける空気がある。食べた誰かが「おいしい」と笑って、味をすぐ言葉にできる。理論を積み上げるだけだった魔法陣の知識が、ここでは人の体温に触れたまま役に立つ。
魔動研究会が「前へ進む場所」なら、料理部は「戻ってこれる場所」だった。だから気づけば、ここはミユキにとって落ち着く空間になっていた。
「あ、来た来た!」
料理部部長のエミーリアが振り返る。金髪を後ろで束ねて、エプロンの裾に小麦粉をつけている。十五歳とは思えない堂々とした立ち姿は、この厨房の絶対的な支配者だ。
「ミユキさん、ちょうどよかった。試作品、さっきできたんです。食べてみてください」
「何を作ったんですか?」
「乾燥豆と燻製肉のペースト。ミユキさんが先週話してた、長期保存できる栄養源ってやつです。私なりにアレンジしてみました」
エミーリアが陶器の小皿をミユキの前に出した。平たく伸ばしたクラッカーの上に、茶色のペーストが塗られている。
ミユキは一口食べた。
「……わ、おいしい」
「本当に? 豆の風味がきつすぎないか心配なんですけれど」
「全然きつくないです。むしろバランスがいいかも? 燻製の煙香で豆臭さが消えてますね。これ、常温でどれくらい保つか確認しましたか?」
「三日は確認済みよ。多分一週間はいけると思いますけど、それはまだ実験中かな」
「一週間保てばかなり使えますね。魔道冷蔵庫が使えない状況でも運べるし」
一緒に来ていたクララが隣でクラッカーを一枚つまんで、「え? ちょっと待って、これすごく普通に美味しくない?」と口を挟む。
「保存食の話ですよ?」とエミーリアが笑った。
「でも美味しいのは正義じゃないですか! 補給食でも美味しいほうがいいでしょう!」
クララの明るい声に、「その通りです!」とミユキがさらに食いつき気味に言った。
「非常時でも食べ物が美味しければ、精神的な余裕が出るし! 体力だけじゃなくて、士気の問題でもあるんですよ!」
「さすが、視点が違いますね」
エミーリアが嬉しそうに手帳にメモを取り始めた。「ミユキさんの話は料理だけにとどまりませんよね。いつも」
「まぁ。否定はしませんけど」
ミユキは苦笑いしながら、次の食材を確認した。今日の目標は三種類の保存食の試作を記録すること。そのデータをもとにレシピを確定させて、量産計画を立てる。料理部の活動がいつの間にかこういう方向へ進んだことを、エミーリアはまったく嫌がっていなかった。むしろ「役に立つものを作りたかった」と言って喜んだ。それがエミーリアのいいところだとミユキは思っていた。
◇
調理が一段落したタイミングで、マルコが顔を出してくる。
料理部の部室に商人が来るのは珍しい。だがマルコ・ロッシーニはその点、全く躊躇がない男で、「いい匂いがしたもので」と言いながら調理台の脇に立つ。
「ミユキお嬢様、少し話してもいいですか? 補給計画の件で」
「ん、手が離せないんだけれど、今でいい?」
「ええ、簡単な話です。ロッシーニ商会の流通網を活用して、各地の物資集積ポイントをいくつか設けたいと思いまして」
マルコは懐から地図を取り出した。学園から王都までの街道、いくつかの交差点に印がついている。
「ここは街道の中継宿場がある。ここは御用商人の倉庫が使える。万が一学園から避難が必要になった場合、これらのポイントに事前に物資を置いておけば、最低五日分の補給が確保できます」
ミユキは地図を見た。
「全部のポイントにどれだけのコストがかかる?」
「ロッシーニ商会持ちでやります。これは商売じゃなくて、おつきあいというやつで」
「……マルコさんがそういうことを言う時は、後でちゃんと請求が来る気がするわ」
「人聞きが悪いですね。ただ、将来的に王城の調達の一部を回していただけたら嬉しいな、という程度のことは思ってますけど、それは別の話です」
クララが「やっぱり商人だ」と言ってクラッカーをかじった。
「構いませんよ」とミユキは言った。「その件は正式に話し合いましょう。流通網の提案自体は助かる。ただ、置く物資の中身は私が確認させてください。緊急時に必要なものと、保管が難しいものが混じると意味がなくなるので」
「もちろんです。一覧を作ってきます」
マルコが手帳に書き留めているのを見ながら、ミユキは頭の片隅で数字を組み立てた。五拠点、各五日分。人数はどう想定するか。学園の全校生徒を動かすシナリオは現実的ではないが、重要人物を守る少人数移動なら十分機能する。
前世でゲームのシナリオを組んでいた時、こういう「分岐ルートの生存コスト計算」をよくやっていた。今やっていることは、それとほぼ同じだ。ただ、命がかかっている分、失敗できない。
◇
アルベルトが来たのは昼過ぎだった。
第一王子が料理部に来るのは初めてだった。扉を開けた瞬間、エミーリアが固まり、クララが「えっ」と小声を出した。アルベルトは気にした様子もなく、静かな足取りで室内へ入ってきた。
「邪魔をするつもりはない。少しだけ時間をもらえるか、ミユキ」
「はい、かまいません」
ミユキは作業の手を止めずに答えた。アルベルトがミユキの隣に並ぶのを見て、エミーリアとクララが揃って調理台の反対側へ静かに移動する。
「王都の倉庫の件を確認した。三号倉庫と五号倉庫は、非常時の物資集積に使用できる。王城の名義で管理しているが、俺の裁量で短期間の転用は可能だ」
「ありがとうございます。容量はどのくらいになりますか?」
「三号は馬車二十台分。五号はその倍。ただし、五号は王城の防衛備蓄と共用しているため、使用する場合は事前に申請が必要だ」
「三号だけで十分です。ありがとうございます」
アルベルトの視線が、返事の途中で台の端に置かれた乾燥豆のペーストへ一瞬だけ滑った。
アルベルトは少し間を置いた。
「ミユキ。昨日の偵察痕の話は聞いた。学園内の警備体制は王城側でも強化するよう働きかけている。ただ、君が何かを独自に調べているなら、危険を冒す前に俺に話してほしい」
「何かを調べているなんて言っていませんよ」
「そうは見えないな」
ミユキはアルベルトを見た。青い目が真っ直ぐにこちらを見ている。怒っているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、心配している、という顔だった。
「……何かわかったら、話します」
「必ずだぞ」
「確認が取れたら、話します。それが今できる答えです」
アルベルトは一瞬だけ目を細めた。それから、「わかった」と言った。命令でなく、ただの了解として。
扉が閉まった後、エミーリアが「すごい……」と小声で言った。クララが「ミユキって、殿下にもあの調子なのよね」と返した。
「別に普通だけど?」
「普通じゃないよ!」と二人が同時に言った。
◇
ミユキは調理台を片付けると、さっきまでの話をノートに短く整理した。
情報を並べていくと、すべての物事が関連しているように思えてしまう。
『廊下の件も、商会搬入ルートの下見かもしれない』
そう仮置きして、ミユキは一度ペンを置く。
だが、その仮置きは、夕方の自由時間にあらわれたセオドアによって崩される。
中庭に面した休憩スペースで一息いれていたミユキにセオドアは「少しいいか」と声をかけてきた。
彼は手元に薄い冊子を持っていた。
「確認が取れた。報告のあった、名簿に存在しない人物の件だ」
「カイルから話が行ったの?」
「カイル経由で調べてもらった。学園側の職員名簿にも、王城の人事記録にも、該当する人物の登録がない。外部協力者として書類を提出した形跡もない」
ミユキは小さく息を吸った。
さっきまで立てていた「外からの下見」という仮置きは、ここで成立しなくなった。正規記録に痕跡がないなら、問題は侵入経路ではなく、内部で通っているルートだ。
『読み違えた。外じゃない。内側だ』
ミユキは廊下の先を見た。今日もその人物を見かけた。三日連続だ。今朝はメモを取った時刻が九時十七分、場所は東棟から中央棟へ向かう渡り廊下、移動方向は東から西。
「ありがとう。一つ確認していい? 王城の人事記録というのは、臨時雇用や短期来訪者も含まれているの?」
「原則全員だ。城内に出入りする者の記録は一元管理している。外交使節の随行員にも記録がある」
「じゃあ、記録がないということは……」
「正規の手続きを経ていない、ということになる」
セオドアが静かに言った。言葉は短いが、意味は重かった。
「書類の登録日付も確認できた?」
「いや、そこまでは……なぜだ?」
「急に遡って登録されていたら、偽造の可能性があるでしょう。もし確認できるなら、その人物の登録日付が学園開始より後になっていないか見てほしいの」
セオドアは「なるほど」と言って手帳を出した。
「発想の組み立て方が、君は独特だな。書類の不備から逆引きするか」
「バグを探す時と同じ。動かない部分だけじゃなくて、そこに至る整合性のずれを探すんです」
「……そういう思考を、研究に活かしているんだな……」
「研究の話はまた今度」
ミユキは軽く返してから、セオドアに礼を言って廊下を戻った。
歩きながら、研究ノートに書き込む。
「廊下の人物――三日目確認。学園名簿・王城人事記録にも不在。要確認段階から要対処段階へ引き上げ検討」
◇
夜、寮の自室に戻ったミユキは、研究ノートを机に広げた。
今夜の目的は「外部信号仮説」の検証だ。夢が途切れた記録が、これで三日分になった。
一日目:途切れた時刻、夜中の二時頃。途切れ方は唐突。
二日目:途切れた時刻、夜中の一時半頃。前日より三十分早い。
三日目:途切れた時刻、夜中の一時十分頃。また少し早くなっている。
ミユキはペンの先を止めた。
途切れる時刻が、三日間で少しずつ前倒しになっている。ランダムではない。方向性がある。
これが単なる睡眠パターンの変化なら、方向性は一致しないはず。悪い夢が増えたのなら、時刻は前後にばらつく。でもこの記録は一方向へ動いている。
ミユキは次のページに図を描いた。横軸が日付、縦軸が途切れた時刻。三点が右肩下がりの直線を形成している。
『三点で直線は作れる。でも、この直線に意味があるとするなら』
『こんな仮説を真顔で書いている時点で十分おかしい。でも、おかしいで捨てるには揃い方がきれいすぎる』
外部から定期的な干渉が来ていて、その干渉の頻度か強度が少しずつ上がっている、ということになる。
ミユキはペンを止め、窓の外を見た。
夜の学園は静かだ。遠くで警備の足音がする。二つの月が雲に入って、庭が少し暗くなった。
『夢が途切れるのは、兄さんが何かをしているからじゃ……?』
根拠のない考えだ。でも、一度出てきた疑問は引っ込まない。
前世で作っていたゲームに、こんな設定があった。二つの世界が「同期」している場合、一方での大きな変動が、もう一方に「信号」として届く。振動の感知ではなく、位相のズレとして。
『兄さんが何かしている。何かが起きている。その「何か」が夢の途切れ方に影響している』
これはまだ「外部信号仮説」の骨格でしかない。証拠がない。でも、あの「――欠落。原因不明。再発監視。」の書き込みから始まって、今夜ここまで来た。
ミユキは仮説の結論欄に、小さく書いた。
「周期的干渉の確認。方向性あり。外部起因の可能性が高い」
それから少し迷って、もう一行書き足した。
「兄さんと、どこかで繋がっているかもしれない」
書き終えてから、その一行を見た。
科学的ではない。論理的でもない。でも、本当のことかもしれないとミユキは思った。
プログラマーだった頃の自分は、こういうことを書かなかった。でも今の自分は、書かずにはいられなかった。
ノートを閉じて、ミユキは机の前で背もたれにもたれた。
廊下の謎の人物が三日間で三回現れた。夢の途切れ方に周期性がある。学園外周への偵察が連日確認されている。それぞれは別の問いのように見えて、全部が「何かが近づいている」という一つの答えに向かっている気がした。
バグというのは最初、せいぜいログの一行に過ぎない。
でも放置すると、システム全体が落ちる。
今はまだログの段階だ。でも、それが続くとは限らない。
ミユキは椅子から立って、ベッドに向かう前にもう一度、窓の外の暗い庭を見た。
静かだった。静かすぎる気がした。




