蓮の警告と記憶の瀬戸際
### 11-2 蓮の警告と記憶の瀬戸際
◆地球|隼人 ──
(越境から二日後・午後)
スマートフォンが鳴ったのは、午後の三時過ぎだった。
隼人は左腕の固定具を外したばかりで、洗面台の前に立っていた。骨に異常はなかった。外傷の回復は早い。それだけは、身体が期待に応えてくれている。
画面に「蓮」と出ている。出る前に、隼人の意識は一瞬別の電話を待っていた。
最初に必ず来る、あの一言。
意味は思い出せるのに、音だけが出てこない。
通話を取った瞬間、現実に引き戻すように声が来た。
「昨夜、端末に不審なアクセスがあった」
挨拶などはない。唐突な切り出しは蓮らしい。
意識を蓮の電話に向き変えて隼人は言う。
「アクセス? 内容は?」
「セッション自体は一分以内で切れてる。だが入り口まで来ている。うちのIPを使ってる自宅サーバーに、外から総当たりをかけてきた形跡がある」
「先回りされてるのか」
「そう判断せざるを得ないな。先週俺が言ったやつだ、本当に動きが早くなってる」
窓の外は曇っていた。昼間なのに光が薄い。隼人は洗面台から離れて机に向かい、ノートを引き寄せる。
「拠点を動かせるか?」
「ああ。バックアップも取ってある」
一拍の間があった。
「だが、動かすとなると、通信が四十八時間切れる」
隼人はペンを止めた。
「四十八時間か」
「設備の移設と再配線に一日、接続確認でもう半日。最低でもそれだけかかる。セキュリティの再構築バッファを含めたら、およそ四十八時間になる」
時間を示す数字はいつだってリアリティを持つ。静かな部屋の中に、カウントダウンタイマーのイメージが浮かび上がる。
四十八時間の断絶。神界との間で何かが起きても、蓮には届かない。蓮が何かを掴んでも、隼人には届かない。互いに孤立した状態で、二日間が過ぎることになる。
「動かさなかった場合は」
「次に探られたとき、中まで入られる可能性がある。今はまだ外側だけだが、向こうも手順を踏んでくるだろう。一週間以内に本格的な侵入を試みてくる可能性が高い」
選択肢は二つだ。四十八時間の通信断絶を受け入れるか、拠点の侵入リスクを抱えたままにするか。
隼人は答えを出す前に、窓の外を一度見た。
雲が低い。雨になるかもしれない。
「動かせ」
「……確認するが、本当にいいか」
「ああ。四十八時間は、こちらで何とかする」
蓮が少し黙った。了解、とは言わず、次の話題へ移る。それが蓮の了承の仕方だ。
「奪取ログの解析は昨日の分まで終わってる。残りのセクションは断絶前に転送しておく。ローカルに落として、繋がっていなくても読める状態にする」
「助かる」
「神界との通信は?」
「そっちは俺が直接やる。問題ない」
「……無理はするなよ」
言い方が少し違った。蓮が何かを言おうとして、一度飲み込んだような間があった。
「お前の顔色。昨日より悪くなってる気がした」
「昨日も会ってないだろ」
「声で分かるさ」
隼人は笑わなかった。
その沈黙の中で、何かを思い出そうとした。
美幸が電話をかけてきた時、最初に必ず言っていたあの言葉。
輪郭はある。
でも音がない。
「……なあ蓮」
「何だ」
「俺、妹の声、ちゃんと覚えてるか?」
電話の向こうで、蓮が黙った。
一秒。二秒。
「何言ってんだ」と蓮は言った。「覚えてるに決まってる」
声は静かだった。強がりでも励ましでもなかった。ただ、確定したことのように言った。
隼人はノートを引き寄せた。昨年の夏に書いた、美幸の口癖一覧。几帳面に箇条書きにしてある。目が滑って、目的のページに辿り着く。
そこに、あの言葉はあった。読んだ。内容はわかる。なのに、美幸の声が来なかった。
文字と記憶の間に、何かが薄れている。
隼人は静かにノートを閉じた。音を立てずに。
「失うって、こういうことなんだな」
つぶやくように言った。
「隼人」
「大丈夫だ。落ち込んでいるわけじゃない。ただ、事実を確認しただけだ」
電話の向こうの蓮は何も言わなかった。しばらくして、「お前は本当に変なやつだ」というつぶやきが聞こえてきた。
◇
隼人はノートの新しいページを開いて言う。
「蓮。四十八時間を逆手に取れるか」
「……どういうことだ?」
「拠点移設の間は、向こうも俺たちを追えない。こちらが何をしているか、観測できないはずだ」
「そうだな。通信が切れている間は、俺たちの動きが見えなくなる」
「その間に」と隼人は言った。「情報を流す。俺が解析を諦めた。実験体01は価値を失った。そういう誤情報を、向こうが受け取れる経路に置く」
「逆手に取られたら、拠点ごと炙り出されるぞ」と蓮が低く言った。
それはただの失敗では済まない。四十八時間の断絶ごと、向こうに主導権を渡す賭けになる。
「その時はそこで手を打つ。今は、見誤る余地を向こうに押しつけたい」
電話の向こうで、蓮がキーボードを叩く音が聞こえた。
「……やれる、な。断絶前に準備して、移設の作業開始と同時に流す。俺が消えている間も、情報だけは動くだろう」
「そうなれば、四十八時間の間に向こうが判断を誤る」
「監視対象として優先度を下げるか、別の動きをするか。少なくとも、今の体制のまま全力で来る可能性は下がるか」
「ああ」
隼人は鉛筆を立てたまま、ページの端に書いた。
『蓮が消えている間が、俺たちにとって一番自由な四十八時間だ』
書いてから、その文を眺め、意味を反芻する。隼人は、これが正しい判断だと思った。
「移設の準備を始めよう。今夜から動いていいか」
「やってくれ。流す情報の中身は俺が草案を書く。断絶前に確認してくれ」
「オーケー。……隼人」
「何だ」
「美幸ちゃんの口癖は、俺も覚えてる。電話の最初に言う、あれだろ」
隼人は息を吸った。
「……ああ」
「お前が忘れても、俺が覚えてる」
それだけ言って、蓮は電話を切った。
◇
時間の神殿は、まるで夕方の光の中にあるようだった。
◆俯瞰|── ⋯
セラフィエルは静かに、しかし明確な言葉を選んで言う。
「第二次潜行は認められない。先の越境において人体への蓄積損耗が閾値を超えた。次に同様の強行を行えば、記憶欠落は加速するだけでなく、自己同一性の崩壊が起きる可能性がある」
光の柱が揺れた。
「禁じればオメガに主導権を渡すだろう」
クロノスが返した。
「次の潜行窓まで、神界は待機だけしていろと言うのか。その間に、敵は動く。学園の内側に入り込んでいる先遣エージェントも動く。特異点の周辺が侵食されていく。それを見ていろと?」
「危機があるから動くのではない。動き方を間違えるから、危機を招くのだ」
「その議論は何度でもできる。だが」
クロノスが言う。
「改革派の票差が変わりつつある。会議の空気が、前窓時期とは違う。セラフィエル、あなたもそれは感じているはずだ」
長い沈黙だった。
セラフィエルが「次の窓で判断する」と言ったのは、その沈黙が終わった後だった。明確な許可でも、明確な禁止でもない言葉を残して、光から離れた。
クロノスだけが残った。
次の窓まで、どれだけの時間があるか。それを静かに計算するように、光の中を見続けていた。
◆地球|隼人 ──
◇
電話を切ってから、隼人は外へ出た。
近所の定食屋で飯を食い、帰り道を遠回りした。夜になりかけの空が、いまだ少しだけ青い。信号待ちで立ち止まったとき、スマートフォンの画面に何となく視線が落ちた。
美幸の連絡先は、まだそのままある。
名前の下に、最後の通話日時が表示されている。もう二年以上前だ。電話してみても、繋がらないことはわかっている。でも、消せない。消す理由がない。
信号が変わった。隼人は顔を上げ、また歩き始めた。
今夜はノートの草案を書く。偽情報の文章は短く、しかし確実に信じさせるものでなければいけない。嘘は精密に作るほど、バレにくい。それは美幸が言っていたことでもある。
美幸の声で再生されなかった口癖を、今日の記録欄に書き足す。
「欠落が増えた。だが、まだある」
道路に点灯し始めた街灯を見上げながら、隼人は小さく息を吐いた。
妹の口癖が消える前に、本物を確かめに行く。
それだけは、変わらない。




