帰還の代償――欠落と執念
### 10-7 帰還の代償――欠落と執念
◆異界|隼人 ──
(越境当日・帰還直前)
路地を三つ折れた先、崩れた礼拝堂の前に淡い円環が浮かんでいた。
帰還窓。
光は弱い。縁が時々欠ける。安定しているとは言い難い。
背後からデルタ試験体が追ってくる気配。隼人は左腕を押さえたまま、最後の加速を使った。視界が狭まり、心臓の音だけがやけに大きい。
円環に飛び込む直前、刃が背中の装甲を掠める。火花が散る。痛みは遅れて来た。
「帰れ――!」
隼人はほとんど叫ぶように自分へ命じ、光の中へ体をねじ込んだ。
◇ ◇ ◇
◆地球|隼人 ──
帰還した隼人は、時間の神殿の床へ膝から落ちた。
胃が裏返るような吐き気。耳鳴り。視界の明滅。左腕の傷から血が滴り、透明な床に赤い点を作る。
「帰還確認」
クロノスの声が、いつもより近く聞こえた。
「潜行時間、二十九分五十四秒」
ぎりぎりだった。
隼人は荒い息を整えようとし、ふと違和感に襲われる。
何かが、抜けている。
大切なものの輪郭が、手の中で崩れていくような感覚。
「隼人、応答しろ」
「……してる」
「自己同一性の確認を行う。名を言え」
「志藤隼人」
「目的は」
「妹を……取り戻す」
そこまでは言えた。
しかし次の確認で、喉が詰まった。
「妹の名は」
「しど……」
言葉が霧散する。
顔は浮かぶ。笑った時に目尻が下がることも覚えている。怒った時、早口になることも。なのに、声だけが遠い。呼びかけられた音の高さ、語尾の癖、その記憶が濁っている。
『兄さん』
その一語だけ、割れたガラスの欠片みたいに残っていた。
隼人は唇を噛み、ノートを取り出す。震える手で書いた。
――帰還。左腕負傷。
――記憶欠落:美幸の声が曖昧。
書き終えるまで、指の震えは止まらなかった。
◇
痛みはある。恐怖もある。記憶が欠ける感覚は、正直に言って怖い。
『怖いから止まるのか?』
止まれば、何も届かない。
神々が口を開く前に、隼人は立ち上がった。左腕を押さえたまま、先に言う。
「第二次潜行を要求する。次の窓で行く」
セラフィエルが息を呑む気配がした。止めようとした言葉が、宣言に出し抜かれた形だった。
『止められないだろう。わかってるはずだ』
隼人は内心でそう思いながら、二柱を順番に見た。怒りではなく、静かな確認として。
「損耗は観測されている。しかし、窓を閉じれば敵に主導権を渡す」
クロノスが返す。セラフィエルは、しばらく沈黙した。
「あなたは、妹の声を失いかけている」
「だから取り戻す。顔も声も、全部」
今度の沈黙は長かった。
最初に口を開いたのはクロノスだった。
「準備だけは進めよう。最終判断は保留する」
「クロノス……」
「時間は待たない、セラフィエル」
セラフィエルは何も言わなかった。
隼人は静かにノートを閉じた。
◇ ◇ ◇
◆異界|ミユキ ──
同じ時刻。
王立学園の寮では、夜の巡回鐘が鳴っていた。
ミユキは机に向かい、魔法陣の演算式を清書していた。羽ペンの先に青いインクが溜まり、紙に小さな点を落とす。
その瞬間だった。
胸の奥が、誰かが掴んだように痛んだ。
「……っ」
ペンが指から滑り落ちる。呼吸が浅くなる。理由はわからない。どこかを打ったわけでも、魔力を暴発させたわけでもない。
ただ、喪失感だけが急に押し寄せた。
何を失ったのかはわからない。なのに、確かに「何かが減った」と体が知っている。
『今……』
ミユキは胸に手を当てた。
『今、兄さんが、何かを失った』
根拠はない。論理もない。プログラマーだった頃の自分なら、この感覚をバグ扱いして切り捨てただろう。
でも今は違う。
見えなくても、届くものがある。
ミユキは落とした羽ペンを拾い上げ、震える指でインク瓶の蓋を閉めた。小さな音が、静かな部屋にひどく大きく響く。
研究ノートの余白に、短く書く。
――欠落。原因不明。再発監視。
文字を書き終えても、胸の奥の空白だけは消えなかった。




