第一次潜行――境界侵入
### 10-5 第一次潜行――境界侵入
◆俯瞰|── ⋯
(越境当日)
「最終確認を行う」
クロノスの声が、時間の神殿の天井からではなく、空間そのものから落ちてきた。
隼人は腰の時流制御機を締め直し、手袋のベルトを一段階きつくする。掌に汗はない。呼吸は安定している。鼓動は少しだけ早いが、スターティンググリッドで精神集中を高めている時のそれに近い。緊張はしているが、恐怖はない。
「越境時間は長くない。帰還窓は一度きりだ。窓を逃せば、魂座標の固定は保証できない」
「了解」
「能力制限を再確認する。加速、遅延、局所停止は同時使用不可。局所停止は切り札だ」
「了解」
短い返答の後、隼人はノートのページを一瞥した。今日の日付。二つの名前。その下に昨夜書いた一行――「第一次潜行。目的は接触点の確保。生還優先」。
視線を前へ戻す。
「セラフィエルは?」
「この潜行には反対している。だが、止めるためには遅い」
クロノスは即答した。
「境界同期を開始する。オメガの転送実験に位相を合わせる」
光が床下から噴き上がる。隼人の視界を白が塗り潰す。耳鳴りのような低音が骨に直接響いた。
「同期完了。潜行」
◇ ◇ ◇
◆異界|隼人 ──
着地した瞬間、臭いが変わった。
鉄、煤、焦げた魔力の臭気。夜の冷気に混じって、乾いた血の気配まである。
異世界側の市街地外縁。石造りの建物が並ぶ通りの先で、魔導灯が明滅していた。オメガの下位エージェントが二体、荷馬車を追い詰めている。荷台には子どもと老人。御者席の男は片腕を押さえていた。
「間に合え……!」
隼人は地を蹴る。加速を選択。視界の端が流れ、景色が引き伸ばされる。二体のうち一体の背後に回り込み、膝裏へ低い蹴り。重心を崩したところへ肩を当て、路地の壁に叩きつける。
もう一体が槍を振るう。隼人は遅延に切り替え、穂先の軌道だけを鈍らせた。鼻先を掠めるはずの刃が、指一本分だけ遅れる。その隙で腕を取り、肘を極めて地面に沈める。
「走れ! 北門へ抜けろ!」
御者の男が目を見開く。
「あ、あんたは――」
「説明は後だ。子どもを伏せさせろ!」
遠くで魔導弾が炸裂した。屋根瓦が砕け、石片が雨のように降る。隼人は荷馬車の側面に体を寄せ、盾代わりになる。衝撃が背中を打つ。鈍痛。だが骨は無事。
ベルトが薄く熱を持ち始めた。まだ余裕はある。
ここで敵を殲滅しに行けば、出力を使い過ぎる。
「――撤退誘導を優先だ」
隼人は自分に言い聞かせるように呟いた。
勝つために踏む時と、残すために引く時を間違えない。
隼人は路地に転がる樽を蹴り、簡易障害物を作る。追撃経路を狭め、荷馬車の退路を一本に絞る。混乱する敵の視線がこちらに集まる。
「こっちだ」
挑発に乗った二体を引きつけ、隼人はわざと後退した。狭い通路へ誘い込み、遅延を短く連打して足を止める。討伐ではなく、時間稼ぎ。荷馬車の車輪音が離れていくのを確認して、ようやく隼人は息を吐いた。
ベルトの熱がさらに増した。意識の端で警告灯が赤く滲む。このまま踏み続ければ、すぐに危険域へ入る。
通信ノイズの中で、クロノスの声が届く。
「隼人。出力の落ちが早い。このまま安定域を割れば、次回窓の再計算に長時間を要する」
「どれくらい閉じる?」
「数日は閉じるだろう。最悪なら、次の同期時期は読めない」
隼人は舌打ちを飲み込んだ。次の干渉窓を失えば、美幸に近づく機会そのものが遠のく。
「了解。無駄撃ちはしない」
通路の先、倒れた敵端末が青い光を点滅させていた。通信中継に使う簡易ユニット。波形が通常より強い。街の西側に、より大型の中継端末があると示している。
隼人は一拍だけ迷う。
ここで帰還すべきか。あるいはもう一歩踏み込むか。
美幸の居場所はまだ掴めていない。だが、今見えている回線を追えば、敵の計画に届くかもしれない。
「クロノス。中継端末の大型機、位置が取れるか」
「取れる。西へ一・二キロ。旧水道塔跡地」
「目的を変更する。討伐は切る。データ奪取に向かう」
「帰還窓まで余裕がない」
「把握してる」
隼人は瓦礫を蹴って走り出した。背後で逃げ遅れの泣き声はもう聞こえない。守るべき者は守った。次は、戻るための情報を掴む番だ。
夜気を裂いて、銀の装甲が西へ消える。




