ミユキ側断片──夢の感覚
### 10-4 ミユキ側断片──夢の感覚
◆異界|ミユキ ──
(越境当日・朝)
朝の光が、寮の窓から差し込んでくる。
ミユキ・フォン・ヴェルナーはベッドの上に座って、しばらくその光を見ていた。
でも今朝は、胸の奥に言葉にできない感覚があった。
夢を見た気がする。内容は覚えていない。ただ何かが光っていて、銀色で、大きくて、それが動いていた。動く方向に意志があった。それだけが残って、目が覚めた。
『また、あの夢……』
ミユキは首を振って、ベッドから降りた。
着替えて、鏡の前でリボンを結ぶ。貴族主体の学園のドレス風制服の着付けは今でもまだ少し手間取る。
食堂に向かう途中で、明るい声が飛んできた。
「ミユキ! おはよう!」
クララだった。学園で最初にできた友人で、今でも一番気が置けない相手だ。くるくると巻いた栗色の髪を揺らして、駆け足で近づいてくる。
「おはよう、クララ。今日も早いね」
「早起きは当然でしょ! 朝食に新しいメニューが出るって聞いたから、絶対一番に食べるって決めてたの」
「そういう動機なんだ……」
「おいしいものを真剣に追いかけるのは、貴族の嗜みだと思うわ」
クララはそう言って笑った。ミユキも笑った。食堂の新メニューに「ハチミツと洋梨のパイよ!」とクララが声を上げる。その喜びようが素直に癒しになった。こういう日常は、やはり良い。
◇
午前の授業は魔法理論の演習だった。
ミユキにとって、この授業は苦ではない。むしろ楽しい分類に入る。プログラマーの感覚で魔法陣を読み解く癖が染み付いており、教師の説明より先に構造を理解してしまうことも少なくない。それを表に出すのは控えているが。
演習の後半で、教師がランダムにペアを組んだ。ミユキの相手は……
「よろしく頼む」
カイルが、真面目な顔で言った。
騎士家の跡継ぎで、学園きっての実力者の一人。真面目で努力家で、余計なことを言わない相手だという印象しかミユキにはない。
「こちらこそ」
「ヴェルナー侯爵令嬢は魔法理論の演習が得意だと聞いていた。助かる」
「カイル様は剣が得意なので、魔法は少し苦手なのですか?」
「……少し、な。魔法陣の構造がどうにも直感的に理解できない」
カイルは小さく苦笑した。ミユキは少し考えてから、「直感というより、論理として捉えると整理しやすいと思います」と伝えた。「例えばこの陣は、条件分岐として読めます。こちらの節点が起点で、出力の方向が分かれているので……」
言いかけて、ミユキは手を止めた。節点の経路が一本多い。教科書の解法ではAを経由してからBに至るが、直接結べば処理が一段階省ける。魔力消費も下がる。
「……少し書き直します。この経路を省くと、同じ結果がより効率的に出ます」
説明しながら、ミユキは気づいた。
カイルが真剣に聞いている。頷きながら、手元の紙に書き留めながら。礼儀から聞いているのではなく、本当に理解しようとしている。それが伝わってきた。
「なるほど。そう見ると確かに整理できる」
「剣術の型と少し似ているかもしれません。順序があって、各動作に意味がある、という構造」
「……面白い見方をするな」
カイルは今度は素直に感心した様子だった。ミユキは少し照れながら、「前世がプログラマーですので」とは言えず、「魔法の勉強が好きなので」とだけ答えた。
演習は滞りなく終わった。
◇
夕方、ミユキは寮の自室に戻って一人になると、鞄を机に置いて椅子を引いた。
カーテン越しの光が机の角を橙に染めている。平和な夕暮れだ。
今日だけではない。ここ何週間か、夢の中の銀の輝きが続いている。輪郭はあるが顔がない何か。大きくて、速くて、こちらに向かってくる意志。目が覚めると内容は大半が消えているが、その感覚だけが残る。
『来る予感、みたいなもの?』
何が来るのか、いつ来るのか、どこから来るのか、全部わからない。ただ「何かが動いている」という直感だけがある。
ミユキは机に向かい、研究ノートに書こうとして、手が止まる。
そういえば、今朝の夢では。
銀の何かが、速く動いていた。その動きに、馴染みがある気がした。どこかで知っている動き方。前世の記憶を辿る。バイクのコーナリング。誰かがバイクで曲がるときの、あの重心移動のような……
『お兄ちゃん』
突然、そう思った。思った瞬間に、胸が痛いような、懐かしいような、何かがぎゅっとした。
前世での兄は、バイクで世界中を駆け回る人だった。心配性で、邪険にされても走り回っていた。それを嬉しかったと素直に思い出せるのは、今だからかもしれない。
志藤隼人は今頃、どうしているのだろう。
その問いに答えが出ないまま夕食の時間になり、食後の自習時間、ミユキは図書室に向かった。
魔法理論の参考文献を探す目的だったが、途中で学園の廊下を曲がったところで、見慣れない教師が生徒と立ち話をしているのを見かけた。
新しい教師だろうか。最近着任したという話を聞いた気がする。
ミユキはその横を通り過ぎた。教師は笑顔で生徒と話しており、特におかしなところは何もない。
――ない、はずなのに。
一歩通り過ぎたところで、何かが引っかかった。
『動き方が……変?』
笑顔の角度でも、声の大きさでもない。もっと細かい何か。生徒と話しているのに、視線が廊下の先を一瞬だけ流した。ほんの刹那のことだ。ミユキが気づいたのは、通り過ぎて三歩目に「あれ」と思ってからだった。
プログラマーとして長年バグを追ってきた経験が言う。正常な処理は、割り込みが入らない。でもあの教師の動作には、どこかに「余計な参照」があった。まるでバックグラウンドで別のプロセスが走っているような。
振り返ることはしなかった。
確信はない。ただの思い込みかもしれない。でも、プログラマーの感覚には根拠がある。「余計な参照」には必ず目的がある。バックグラウンドのプロセスは、何かを待っている。「誰を監視している?」という問いが、頭の中で静かに点灯した。
ミユキは図書室への廊下を歩きながら、胸の中にそっとメモを取った。あの先生の名前を、後で調べてみよう。それだけは確かに、やるべきことだ。
夕暮れの廊下に、二人分の足音が残っていた。
夕食後、自室に戻ったミユキは、しばらく机の前に座って何もしなかった。
廊下で引っかかった「あの感覚」が、まだ頭の隅にある。
バグの予感は、見つけるまで消えない。前世のデスマーチで身体に刷り込まれた感覚だ。
それに似ている。夢の感覚が。
内容は毎朝消える。なのに感覚だけが残る。そして繰り返す。内部の記憶想起なら、こうはならない。外から継続して送られてくるから、残り続ける。そう考えると、筋が通った。
ミユキは研究ノートに「夢の感覚=外部信号仮説」と見出しだけ書いた。数値も条件も、まだ揃っていない。
今日は普通の一日だった。クララとの朝食、カイルとの演習、夕食の談笑。学園生活はどこまでも穏やかで、でも心のどこかが「これで終わり」だとは言わせてくれない。
ミユキは目を閉じて、眠りに落ちた。銀の光は、また夢の中でだけ揺れる。




