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悪役令嬢はデバッグしたい ~転生したら作りかけの乙女ゲームの悪役令嬢だったので、前世の知識で世界をデバッグすることにしました~  作者: 神楽坂らせん
第十章:時界潜行

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偽情報作戦――計算外のファクター

### 10-3 偽情報作戦――計算外のファクター


 ◆俯瞰|── ⋯

(越境直前・オメガサイド)


 オメガ・プライムは、感情では動かない。


 感情は精度を下げる。精度の低い判断は損失を生む。損失は任務の失敗に直結する。だから感情を排除することは、プライムにとって戦術的な選択だった。哲学ではなく、最適化の結果だ。


 オメガ=ℕ・ロジスティクスの高位エージェントとしてプライムが担う役割は、正面戦闘ではない。データを集め、情報を選別し、相手の動きを予測して先手を打つ。実験体を観測し、有用なデータを回収する。それが任務の骨子だ。


 現在、地球側で一つの変数ファクターが活性化している。


 志藤隼人。プロライダー、休養中。妹の失踪を契機に転生管理局と接触し、現在は時流制御の訓練を受けている。能力の代償として記憶欠損が進行中。感情的判断による行動傾向が高い。


 プライムはそのデータを眺めた。


 感情的判断による行動傾向が高い対象は、誘導しやすい。正しい刺激を与えれば、予測可能な方向へ動く。それはむしろ、制御が容易という意味だ。

 ただし、罠と把握した上で踏み込む判断傾向については、計算域の外に置いた。

 加えて、学園側で観測された時間停止事象の発生源不明データは、信頼度の低いノイズとして後順位に送った。


「偽救難信号の送信準備を完了した」


 部下の一人が報告した。プライムは画面を一瞥した。信号の送信先は地球側の転生管理局との中継点。内容は、異世界の特定座標からの「緊急信号」に偽装してある。座標は美幸の推定位置から三十キロメートルほどずれているが、確認されることがないほどには近い。


「誤差は許容範囲か?」


「はい。地球側からの観測精度では、三十キロの誤差は検出不能です」


「発信タイミングは?」


「次の時空ノイズ増大期に合わせて。オメガの経路拡張と同期させることで、信号の出所が特定しにくくなります」


「実行しろ」


 プライムはそれだけ言った。


 目的は明確だ。志藤隼人を異世界に引き込む。限られた越境時間の中で行動させ、そのデータを収集する。実験体として観測する。何ができて、何ができないか。能力の上限と下限を実際の環境で計測する。研究所での模擬実験より、実戦データのほうが価値が高い。


 志藤隼人が罠だと気づいてもいい。むしろ気づいた上で来てくれるほうが、高いストレス下での能力発揮データが得られる。


 プライムは次のデータシートを開いた。


 感情は排除する。しかし、感情的な対象を動かすのは、感情だ。その逆説をプライムは利用することを知っている。


 一点だけ、計算の外に置かれた変数がある。地球側に、管理局とは独立した小規模の解析体制が存在する可能性と、対象が罠を承知で行動を選ぶ可能性、そして学園側の時間停止事象に第三の介入者がいる可能性だ。現状のデータではその確率域は低く、誤差範囲として処理してある。ただし、確認はまだできていない。


 ◇


 神界に、静かな亀裂が走っていた。


 転生管理局の議事の場では、保守派と改革派が対立している。その対立は、ここ数週間で急速に深まっていた。


 保守派の主張はシンプルだ。人間を神界の戦略に組み込むことは、先例がない。越境能力を持たせた隼人がもし敵に取り込まれた場合、その被害は計り知れない。今すぐ人間の関与を切り離し、管理局が独自に対応すべきだ。


 改革派は逆を言う。管理局の力だけでは、オメガの組織的な干渉を止められない。二年間の実績がそれを証明している。人間を含めた複数の接触点を確保しなければ、状況は悪化する一方だ。


 三ヶ月前まで、改革派は保守派に対して五票の差で劣勢だった。だが今、その差は二票にまで縮まっている。数で見れば、流れは変わりつつある。クロノスには、それは問題ではなかった。変わりゆく数ではなく、変わらないウィンドウの問題だ。


 セラフィエルは保守派に近い立場を取っていた。しかし、完全に賛同しているわけでもない。隼人が二年間誠実に協力してきたことは認めている。ただ、万が一の損失が大きすぎる。


 クロノスは、どちらとも明言しなかった。


 「中立」というのが表向きの立場だったが、その実態は異なる。クロノスは独断で、隼人の越境に向けた準備を静かに進めていた。時流制御機の最終調整、越境窓ウィンドウの計算、帰還経路の確保。これらは全て、議会の許可なしに進められた実務だった。


「あなたは中立ではないな」


 セラフィエルが言った。


「中立なら両方支援する。片方だけ準備するなら中立ではない」


「私は観察している」とクロノスは言った。「時間の神は、待つことの意味を知っている。だからこそ、待てない理由もわかる。あなた方が議論している間、外では状況が動いている。議論が終わった頃には、干渉できる窓が閉じているかもしれない」


「だからといって独断は……」


「保守派が正しいとしよう。では、誰が代わりに動く? あなたが越境するか? それとも傍観するか?」


 セラフィエルは答えなかった。


 答えを持っていないのではなかった。人間が欠けることに、セラフィエルは慣れることができない。それは感情であり論理ではない。管理神は感情を口にすべきではない。


 クロノスはそれ以上を言わなかった。


 神界の会議室に沈黙が落ちた。時間の流れを司る神には、時間の無駄という概念が人一倍重くのしかかる。


 ◇ ◇


 地球側では、久しぶりに雨のない夜だった。雲が切れ、ビルの間から星が瞬いている。その静けさの中で、隼人のスマートフォンが鳴った。


 発信者は表示されていない。画面には、管理局との接触に使う暗号化された通知アプリが起動していた。テキストが一行だけ流れている。


「異世界座標から緊急信号を受信。発信源は推定ミユキ・フォン・ヴェルナーの現在位置から南方三十キロ」


 隼人は文面を三回読んだ。


 信号が来た。美幸に近い座標から。


 しかし、同時に考えが走った。タイミングが良すぎる。クロノスとの訓練が次の段階に進むと聞いた直後に、信号が来る。セラフィエルから越境の話が出た翌日に。偶然にしては、整い過ぎている。


 罠の可能性がある。


 むしろ、罠である可能性が高い。


 隼人はノートに今の状況を書いた。信号の受信。タイミング。自分の判断。そして最後に、一行だけ付け加えた。「罠の可能性:高。ただし、美幸の座標に近い可能性もある」。書き終えた手を止めたまま、ページ上部の「志藤美幸」を指でなぞり、窓の外の夜を一度だけ見た。


 隼人は端末に返信した。宛先はクロノスとの接触チャンネルだ。


「信号を確認した。越境窓を開く準備を進めてくれ。実行は俺が決める」


 送信した後、しばらく画面を見た。クロノスからの返信は、十五分後に来た。


「了解。窓の計算を開始する」


 それだけだった。


「罠でも構わない」


 声に出してみた。誰もいない部屋に、言葉だけが残る。


「妹に近づけるなら進む」


 決意は揺らがなかった。揺らぐ余地もなかった。二年間積み上げてきたものが、この一行に向かって続いている。罠だとわかっていても進める理由は一つしかない。止まることのほうが、隼人には耐えられない。


 ペンを置き、部屋の灯りを一段落とした。


 越境の準備が始まる。



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