七百三十日目の夜
## 第十章:時界潜行
### 10-1 七百三十日目の夜
◆地球|隼人 ──
午後十一時五十分。環状七号線を北上して中野坂上に差しかかった頃、雨が降り始めた。
志藤隼人はヘルメットのシールドを閉じたまま、交差点で赤信号を待った。左後方からタクシーが来る。前を軽自動車が走っている。夜の道路には人の生活の匂いがある。タイヤが雨を切る音、街灯の白い光が路面で滲む様子。それを眺めながら、隼人は今日の記録を頭の中で整理していた。
午前は桐生との打ち合わせ。午後はトレーニングジムで体のメンテナンス。夕刻にチームの事務手続き。夜はチームマネージャーの榎並からの電話。
どれも、妹とは直接関係がない。
だがすべて、妹を取り戻すための準備だ。
信号が変わった。隼人はアクセルをかるく開けた。エンジンが太く応える。イタリア製のハイパーモタードは、雨の夜でも低回転域から力強く前に出る。サーキット専用車両にはかなうべくないが、これでも相当なパワーである。だが、今は都内の制限速度の中を走っている。そのスロットルの開き方も、全力からはほど遠い。
バイクを駐輪場に停め、マンションに入る。エレベーターで三階。ドアを開けると、静かな部屋が隼人を迎えた。
照明を点ける。机の上には、今日の記録用ノートが置かれている。
隼人は濡れたジャケットを干し、洗面所で手と顔を洗った。鏡の中の自分を見る。日焼けした肌、短い黒髪。目の下にうっすらとクマがある。三十分以上は眠れない夜が続いているせいだ。
それくらいは許容範囲だ、と隼人は判断した。クロノスから「体を維持する作業を怠るな」と言われているが、それはそれだ。台所でお湯を沸かしながら、スマートフォンを確認すると、桐生蓮からのメッセージが届いていた。
「今夜、顔出していいか? 新しいデータを得られた」
隼人は「来い」と返信した。
蓮が来るまでの間、隼人は台所に向かった。冷蔵庫を開けると、昨日の残りものが入っている。手が伸びかけて、止まった。今日は何も食う気になれないと気づき、扉を閉めた。
隼人は今日の日付の欄に、今日起きたことを記録する。榎並からの電話の内容、トレーニングの成果、気になった点。そして最後に、変わらずに書く二つの名前。
志藤隼人。
志藤美幸。
これだけは、どんなに疲れていても省略しない。気力が尽きかけても、この記録を見れば自分が何のために動いているかを確認できる。そういう仕組みを、隼人は自分自身に組み込んでいた。
◇
インターホンが鳴ったのは、日付が変わる十分前だった。
桐生蓮は黒いパーカー姿で、眼鏡の奥の目がいつもより鋭かった。
「入れ」
蓮を招き入れた。蓮はリュックからノートPCを取り出し、机の端に広げた。画面にはグラフが表示されている。折れ線が右肩上がりに急上昇しており、三日前を境に傾きが変わっていた。
「これが三日前から急増してる通信パターンだ。オメガのものだと断定はできないが、異世界との中継に使われているとみられるサーバー群が、同時期にトラフィックを大幅に増やしてる」
隼人はグラフを見た。急激な上昇カーブ。少なく見積もっても三倍以上の増加だ。
「どの座標に向けた信号だ?」
「そこまでは読めてない。ただ、ランダムなアクセスじゃなくて、特定のベクトル傾向がある。同じ宛先に向かって増加してる感がある」
「美幸の近くか」
「……可能性はある。だが、断定はできないな」
蓮は素直にそう言った。希望的な観測を押しつけてこない。それが蓮の誠実さだ。
「このデータ、神様たちに渡せるか?」
「既にUSBに落としておいた」
蓮はUSBメモリを一本、机に置いた。
「神様もUSBメモリなんて使うんだな」
「どんなPCに刺しているのか気になるところだが。ま、教えてはくれないだろうな」
隼人と連は顔を見合わせて笑う。そしてすぐに真面目な顔に戻った連は言う。
「正直なところを言うぞ」と蓮が続けた。「俺はお前の体が心配だ。顔色がひどいぞ」
「榎並にも言ったか?」
「言った。悪かったとは思ってない」
蓮はまっすぐに言う。
隼人は苦笑した。文句を言う気にはなれなかった。蓮のやり方が彼らしいし、隼人自身もそれを信頼している。
「体の疲弊はどのくらい溜まってるんだ? 眠れてるのか?」
「問題ない範囲だ。ノートで管理してる」
「そうか」
蓮はそれ以上は聞かなかった。曲がりなりにも隼人はプロのアスリートだ、体調管理は自分のほうが門外漢ということだろう。そして、一枚のメモを机に置いた。
「オメガのサーバーにアクセスしようとしたら、今週から防壁が強化されていた。向こうも何かを察知してる可能性がある。こっちの動きは極力悟られないようにしたほうがいい」
「わかった」
「あと、榎並さん、本当に心配してたぞ。来月の取材は最低限にまとめておくから、そっちで余計な消耗をするなよ」
蓮は荷物をまとめて立ち上がった。隼人は玄関まで見送りながら、「ありがとう」とだけ言った。
「礼はいらない。妹が帰ってきたら、飯でもおごれよ」
蓮が去ると、部屋に静寂が戻った。
隼人は机の前に戻り、蓮が残した情報の重量を頭の中で整理した。オメガの通信が三倍になったこと。防壁が強化されたこと。手元にUSBメモリがあること。
整理しながら、隼人は考える。
三日間で三倍。どの方向に向かう信号かは不明だが、増大している。美幸の周囲で何かが動きつつある。二年間、そういう気配が出てくるたびに、セラフィエルに確認を取ってきた。今夜も例外ではない。
◇ ◇
深夜一時を過ぎた頃、空気が変わった。
温度が一度ほど下がる。光の屈折が、ごくわずかにずれる。人間の感覚では気づきにくい変化だが、隼人の神経はもうその兆しを知っていた。二年間、何十回と繰り返してきた接触が、身体の反応を磨いてきた。
隼人は椅子に座ったまま、部屋の中央に向いた。
「セラフィエル」
「うむ」
声が部屋に満ちた。低く、どこか古めかしい響き。セラフィエルの姿は視認できない。神の存在は人間の目には映らないが、気配だけは確かに感じ取れる。長い時間の積み重ねがもたらしてくれた感覚だ。
「蓮のデータを見た。異世界側のノイズ、三倍になってる」
「把握している。三日前から観測値が急増した。クロノスは、オメガが干渉経路を新規に増設している可能性を示唆している」
隼人は机の上のUSBメモリを手で触れながら聞いた。
「目的は?」
「現段階では特定できていない。ただ……信号の向かう方向という点で、桐生の分析と一致している部分がある」
「なら今すぐ越境する」
はっきりと言った。
「今のあなたの越境可能時間は、最長で三十分だ」
セラフィエルの声は変わらない。穏やかだが、一本の芯が通っている。
「時間制限を超えれば、魂座標が散る。元の地球に戻れなくなる。二度と干渉できなくなる、ということは理解しているはずだ」
「理解してる」
「理解しているなら」
「それでも行く」
今度は、静寂が長かった。
隼人は続けた。声に感情を乗せるでもなく、ただ事実として積み上げるように言葉を置いた。
「美幸が消えた夜、俺はシンガポールにいた。向こうのチームとのミーティングを終えて、ホテルに戻った頃に電話が来た。妹が見つからない、と。最初は事故か何かだと思った。でも部屋を見てみたら、違った。何かが持っていった。今でも、あの夜に間に合わなかった自分のことは整理がついてない」
セラフィエルは何も言わなかった。
「……人間が欠けることに、私は慣れていない」
かすかな声だった。それ以上は続かなかった。
「その後の二年間でできたことは、データを集めて、訓練して、待つことだけだった。待つことしかできなかった。でも次の機会がくれば、俺は動く。三十分でできることをやる。クロノスが叩き込んできたのは、そのためのはずだ」
また、静寂。
今度はセラフィエルが、長い間を置いてから答えた。
「……クロノスに伝えよう。訓練を次の段階へ進める」
一拍あって、続けた。
「ただし、今夜はここまでだ。志藤隼人、あなたは今日も日付を書いたか?」
「書いた」
「名前も?」
「両方」
「……そうか」
それだけ言って、気配が薄れた。部屋にはまた静寂だけが残った。
隼人はペンを置いた。ページの角が少しだけ折れている。毎日の記録で、自然にそうなった。
窓の外では、雨の中の東京が光り続けている。妹がいなくなってから七百三十日。この街は変わらず光っていた。
隼人はカーテンを閉めた。
** あとがき **
やたらとお待たせしました。お待たせしたぶんまたガラッと雰囲気を変えて第10章開始です!




