最後の指示
### 9-6 最後の指示
消灯後の学生寮は、廊下も室内も静かだった。
ユリウスは机の前に座っている。
手元には開いたままの本がある。四半刻ほど前から同じページを眺めているが、文字が頭に入ってこない。ページをめくる気にもなれなかった。
昼間の出来事が——まだ頭の中にある。
歪みの発生。クララが床を滑っていくのが見えた瞬間。体が動いていたこと。
「今度は——間に合った」そう思ったこと。
脳裏に浮かんで消えた、小さな手の感触。
それが消えたあとに残った——奇妙な達成感。
◇
通信装置が起動したのは、夜が深まった頃だった。
ユリウスは本を閉じて、装置の前に向き直った。
「コードU」
ガンマの声が、夜の静けさの中に低く響く。
「本日、装置の稼働が不完全だったな。何故だ」
「……タイミングが合わず——」
「嘘をつくな」
遮られた。
「躊躇したのだろう。それとも意図的に遅らせたか。どちらだ?」
ユリウスは答えなかった。
「実験体01への感情移入は任務の障害になる」ガンマは続けた。「繰り返し言ってきたはずだ。断ち切れ」
「今後、感情を理由に任務を先延ばしした場合は処分とみなす。了解したか」
「……了解しました」
「よし」
一拍置いてから、ガンマは言った。
「次の段階の指示を与える」
「実験体01の友人——クララ・フォン・ヴィンターフェルトを拘束し、行動を制限せよ」
ユリウスは、目を上げた。
「……クララを?」
「彼女を人質として確保することで、実験体01の行動を制限し、精神的な圧力をかけることができるだろう」
「身近な人間を危険にさらされた際、実験体01は感情的な乱れを見せる。その弱点を利用する」
「精神的に追い詰められれば、彼女も最終的には崩壊する可能性がある。それが次の段階の目的だ」
「異存があるか?」
部屋の中が、しんと静まった。
ユリウスは一秒、二秒、時を置いた。
「……いえ」
絞り出すように答えた。
「以上だ」
通信が切れた。
◇
ユリウスは動けなかった。
暗い部屋の中で、椅子に座ったまま、しばらく身動きが取れなかった。
やがて——記憶が浮かびはじめた。
今日の昼間。歪みが閉じてから、クララが震える声でお礼を言っていた。
「ありがとう、ユリウス様。あと一歩で歪みに飲み込まれるところでした。助けてくれなきゃ、どうなってたかわからなかった」
笑っていた。まだ怖かっただろうに、震えながらも笑っていた。
学園の図書館でミユキを見かけることがある。書き物をしながら独り言をつぶやいている。「この係数、絶対に書き直せるはずなんだけど」とぼやきながら、目は楽しそうに式を追っている。
廊下でリリアーナが何かに驚いたように目を丸くして、それからクスクスと笑い出す場面。ミユキが「どうしたの?」と首を傾げて、リリアーナが「なんでもないわ!」と誤魔化して、また笑う場面。
そして——もっと古い記憶。
あの子の顔。
小さな手。笑い声。
守れなかった笑顔。
「クララを——人質に」
声が、かすれた。
「あの笑顔を、消せというのか」
机の上に、オメガの紋章バッジが置いてある。
制服の内ポケットに毎日入れているものだ。組織への帰属を証明する、小さな金属片。
ユリウスはそれを手に取った。
紋章の浮き彫りを指先でなぞる。この組織に入ったのには、理由があった。
あの子の件があってから——誰も守れないなら、力を持つ側に立てばいいと思った時期があった。組織の力を使えば、守れるものがある。そう信じていた時期があった。
「……俺は今、何を守っている」
声に出すと、虚しかった。
クララを人質に取る。ミユキを精神的に追い詰める。そのために、今日怖い思いをしながら笑っていたあの子を——道具として使う。
「それが俺の任務か」
答えは出ていた。
ずっと前から出ていたのかもしれない。ただ、認めることから逃げていた。
「……俺は、人が、彼女が傷つくことを許せない」
小さく、はっきりと言った。
ゆっくりと、バッジを机の上に置いた。
立ち上がった。
窓の外——学園の灯りが点在している。消灯後の時刻でも、図書館棟のいくつかの窓は光っていた。誰かが夜遅くまで残って勉強しているのかもしれない。
組織を裏切れば、どんな結果が待っているかはわかっている。
仲間だった人間が敵になる。逃げる場所はなくなる。最悪の場合、いや、おそらくは——生きていられないだろう。
あの夜の声が、静かに蘇った。
「友人を犠牲にしてまで守りたいものが、あなたには本当にあるの?」
アデライーデの問いに、あの時のユリウスは答えられなかった。答える言葉を、持っていなかった。
今なら——答えられる。
『友人と呼べる人たちを、道具にはできない』
ユリウスはバッジに背を向けた。
扉の向こうの廊下の静けさを確かめてから、また机の前に戻った。
明日——話をしなければならない。
ミユキ・フォン・ヴェルナーと。
この判断が正しいかどうかは、まだわからない。彼女が受け入れてくれるかどうかも、わからない。
それでも——告白しないまま彼女たちを危険にさらし続けることの方が、ずっと許せなかった。
ユリウスは椅子を引いて座り直した。
残りの夜を、覚悟を嚙みしめながら過ごした。言葉もなく、迷いを反芻しながら、それでも思いを確かめ続けた。




