今度こそ
### 9-5 今度こそ
魔法実習の授業は、第三実習棟の広い実習室で行われていた。
三〇人あまりの生徒が、各自のスペースで魔法陣を展開している。今日の課題は「指定した空間座標に光点を固定する」——単純に見えて陣の精度が問われる中級課題だ。座標がずれると光点が流れ、複数展開した際に干渉を起こすことがある。
ミユキは自分の陣を展開しつつ、隣で作業していたセオドアが書いた術式の一部に目を止めた。
「その列の係数処理、少し非効率じゃない?」
「ん?」 セオドアが眉を上げる。
「展開の順序をここで入れ替えると、あとの計算の展開速度が上がると思う。効率がだいぶ改善されるはず。実際に試してみる?」
「……なるほど。確かに。やってみよう」
セオドアが式の修正を始めた。その横でミユキが補足の説明を加えようとした、その瞬間だった。
壁の一点が、揺れた。
光学的な揺らぎ——光が歪むような、目の錯覚のような現象が、みるみる範囲を広げていく。陽光の差し込む窓の向こうで軒先が歪んで見えるような、夏の日の陽炎——ではない。もっと密度が高い、空間そのものが歪んでいる。
次の瞬間、その「揺らぎ」が裂けた。
直径一・五メートルほどの暗い穴が空間に開き、そこから黒い霧状の魔力が溢れ出す。裂け目の縁が震えながら広がっている。
「なんだ——!?」
「歪み!? また歪みが——」
「先生——!」
教室が一気に騒然となった。生徒たちが後退し、椅子が倒れる音がした。展開していた魔法陣が途切れ、宙に浮いていた光点が散る。
ミユキは叫んでいた。
「みんな壁際へ! 歪みには近づかないで!」
声が通った。生徒たちが動く。
ミユキとセオドアは歪みの前に残った。
「規模が大きい」 セオドアが低く言った。「前の歪み以上だ。それに、埋め込み型の干渉装置の起動痕跡がある——誰かが意図的に設置したものか?」
「わかった。解析するから、数値を読み上げてくれる?」
「任せてくれ」
ミユキは手の中に魔力を集めながら、歪みの構造を読み始めた。裂け目の輪郭。内部の圧力。放出されている黒い霧の密度と方向性。
以前の歪みと構造は似ているが、規模が大きい。これは魔力消費も多くなる。
◇
カイルが異変に気づいたのは、ほとんど同時だった。
別棟から第三実習棟に向かっていた最中、壁越しに魔力の乱れを感じた。直後、棟の中から生徒の叫び声が聞こえた。
同行していた騎士団員を率いて実習棟に飛び込む。
「ミユキ殿! 状況を!」
開け放たれた扉の向こうで、ミユキが振り返った。
「カイル様! 歪みの中心部を確保してください。他の魔力が干渉すると縫合が難しくなります!」
「了解した!」
カイルが即座に騎士団員に指示を飛ばす。歪みへの接近封鎖、生徒の安全な避難誘導。短い時間で室内の秩序が整えられていく。
「計算を担当しよう」とセオドアがミユキの横に並んだ。「縫合式の係数を算出する。君が展開を担う形でいいか?」
「お願い」
ミユキはセオドアが読み上げる数値に合わせて、縫合魔法陣の組み立てを始めた。歪みの輪郭に沿って式の構造を合わせる。裂け目の深さ、圧力の向き、内部の干渉コードの位置——
「三段目の係数修正、完了」
「受け取った。展開開始」
二人の息が合っていた。
◇
廊下の窓の向こうで——ユリウスは、そのやり取りを見ていた。
今朝、指示書の設置ポイントを確認するついでに、昨夜設置を試みた場所に近づいた。穴は自分で埋め戻したはずだが——装置の一部が、土中に残っていた可能性に気づいたのは、歪みが発生してからだった。
昨夜、アデライーデが装置本体を持ち去った際、土中に埋まったまま先端部が折れて残っていた——それが想定外のタイミングで稼働したのだろう。回路はつながっていないはずだったが。
アデライーデが持ち去ってくれなければ、三か所全部に設置されていた。それでも——これは起きた。
俺が——これを起こした。
廊下に立ったまま、ユリウスは自分に言い聞かせた。
だが、今から飛び込んだところで何の役にも立たない。ミユキとセオドアが対処している。カイルが避難誘導している。余計な介入はかえって邪魔になる。
傍観するしかない——
歪みが一段階大きくなった瞬間、黒い霧が噴き出した。
人が弾き飛ばされた。
壁際に退いていた生徒の——クララが、床に転がる。噴き出した霧の圧力がちょうど彼女のいた方角に集中していた。衝撃でバランスを崩したのだ。
歪みの縁に向かって、勢いを殺せないまま滑っていく。
「クララ!」
誰かが叫んだ。
ユリウスは反射的に室内に入る。
何も考えていなかった。考える時間もなかった。
頭の中を一瞬だけ——何かが横切る。小さな手の感触。あの子の名前を呼ぶ声。間に合わなかった、あの瞬間。
それが消えると同時に、ユリウスの手がクララの腕を掴んでいた。
体ごと引き戻す。床に転がりながら、クララを歪みの縁から遠ざける。衝撃を自分が受け止める形で、二人とも壁際に倒れ込んだ。
「っ!」
クララが顔を上げた。
ユリウスと目が合う。
「え……? 転入生? ユリウス様……?」
クララの声は、まだ震えていた。
ユリウスはクララの腕を持ったまま、自分が何をしたかを認識する。
走り込んでいた。無意識に。
「……大丈夫か」
「う、うん……ありがとう……です」 クララが息を整えながら言った。「怖かった。あとちょっとで」
「もう一歩下がれ。まだ歪みが収束していない」
クララを安全な位置まで誘導しながら、ユリウスはもう一度室内を見た。
『俺は……今、彼女を助けたのか』
あの子を守れなかったときと——今は、違う。
『今度は——間に合った』
◇
ミユキが縫合魔法陣を完成させたのは、それから間もなくだった。
広げた陣が歪みの輪郭に沿って走り、裂け目が引き絞られるように縮んでいく。黒い霧が渦を巻いて後退した。白い光が閃き——歪みが閉じた。
しん、と静まり返った。
ミユキは膝をついた。肩が落ちて、呼吸が少し乱れている。規模が大きかった分だけ、魔力の消費も大きかった。
「……閉じた」
「完璧だ」セオドアが言った。「よくやった」
「ありがとう」
ミユキはゆっくりと立ち上がりながら、歪みが残した痕跡を確認した。
縫合の跡。空間に刻まれた残滓。その中に——記号が残っている。
見覚えのある記号。
ミユキは目を細めた。
「Ω……」
やっぱり。
やっぱりオメガの仕業だ。
そして——誰かが、この学園内に装置を設置した。
ミユキは視線を上げた。
入口の方に、ユリウスが立っていた。
クララを安全な位置まで移動させて、その場にとどまっている。こちらを見ていた。
ユリウスも——ミユキを見ていた。
一瞬だけ、目が合う。
お互い、何かを感じ取った。
だが、その場ではどちらも口を開かなかった。
また、室内の壁際に退避していた生徒の中に、アデライーデの姿があった。彼女だけが微かに眉を寄せ、揺れが収まった空間の中心と、クララとユリウスを見つめていた。




