月明かりの裏庭
### 9-4 月明かりの裏庭
月だけが光っていた。
深夜の学園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。廊下に人の気配はなく、教室棟の窓明かりも消えている。遠くの時計塔が、絶えず低く鳴っているような気がした——実際にはそんな音は聞こえないはずだが……。
ユリウスは裏庭に入った。
背後で石畳の通路が終わり、土の地面になる。月明かりが草の穂先を白く光らせている。
鞄の重みが、手の中に確かにある。
中庭の地盤——指示書の最初の設置ポイントへ向かいながら、ユリウスは段取りを頭の中で繰り返す。
深さ一〇センチで埋設。魔法回路の接続確認。自動起動の時刻設定。作業時間は一か所あたり一五分ほどで済むはずだ。
今夜中に三か所すべてを終えなくてはならない。明日は平静を保って授業に出て、何もなかったように振る舞う。
それだけのことだ。
◇
最初のポイント。
白い石を踏み分けた先の、少し地盤が柔らかくなっている場所だ。指示書通りの位置に間違いなかった。
鞄を降ろし、道具を取り出した。
小型のハイブリッド装置——魔法陣型の素子と機械部品を組み合わせたもの——を手に持つ。
なぜか、手が——震えている。
制御できると思っていた。任務遂行の際に感情が入り込む場面ではないはずなのに。
なのに、指先が微かに震えている。
感情など、意味がない。
「……」
ユリウスは膝をついた。小道具で地面を掘り始める。
『これを設置すれば、空間が歪み、亀裂が生じる』
起動タイミングは自動だ。昼間かもしれない。授業中かもしれない。休憩時間かもしれない。学園の敷地にいる生徒が巻き込まれる可能性がある。
クララが。リリアーナが。ミユキが。
『だが、従わなければ自分は「処分」される』
そして、代わりに——もっと迷いのない人間が送り込まれるだろう。躊躇のない誰かが。自分よりずっと効率的に任務を終える誰かが。
だから手を動かせ——と自分に命令した。
半分ほど掘ったところで、装置を穴に当てた。埋設角度を指示書通りに合わせて、接続確認を始める。
あと一手順。あとひとつ——
背後に、足音があった。
夜の静けさの中で、かすかな音だった。
ユリウスは即座に立ち上がり、振り返った。
◇
月明かりの中に、人影があった。
コートを羽織った、細身の少女の輪郭。三つ編みにした濃い茶色の髪。眼鏡のフレームが月光を反射していた。
アデライーデ・フォン・ノルトハイム。夜の庭であっても、昼間の教室と同じ真剣な表情をしている。
この時間に、なぜ一人で外に来ているのか——という疑問より先に、ユリウスの頭の中で別の判断が動いた。
声を上げさせてはならない。目撃者を残してはならない——
「待って」
アデライーデが手を上げた。
その静かな動作がユリウスを止めた。
「騒がないから」
「……なぜだ」
「あなたの顔を見れば、わかるわ」
アデライーデは動かなかった。距離を取ったまま、真っ直ぐにユリウスを見ている。
「好きでやってるわけじゃないのでしょう?」
ユリウスは答えられなかった。
◇
沈黙が続く。
アデライーデはゆっくりと歩いて、ユリウスが掘りかけた地面と、その傍らに置かれた装置に視線を落とした。
「それ——空間に歪みを作るものね」
「!!……それをどこで、知った?」
「先日、歪みの穴が収束した後で。セオドア様が話していたことから、少し推測したの」アデライーデは視線を装置からユリウスに戻した。「あの時の歪みと似た魔法の構造が、その装置に見えるわ」
ユリウスは否定しなかった。
「聡いな」
「委員長を続けるためには、観察力と情報収集が必要なのよ」
どこか棘を持った言い方だったが、誇示ではなく事実を述べているような口調だった。
「あなたの、ミユキさんを見る目も、気になっていたの」
ユリウスは目を細めた。
「他人を見る目じゃなくて。もっと複雑、もっと——何かに引っかかっているような目をしている。昼食の場面を外から見ていたとき、困ったような顔もしていた」
「……関係ない」
「そうね」
アデライーデは、あっさりと認めた。否定しないのが、かえって反論しにくかった。
「私は融通が利かない堅物だと思われている。その評価は間違っていないわ」
自己評価を平然と述べる口調がおかしかったが、ユリウスは笑う気にはなれなかった。
「でも——委員長として、クラスの生徒を観察することには慣れているの。あなたが転入してきた翌日から、ずっと気になっていたわ」
「今のあなたの顔は——苦しんでいる人間の顔よ」
「……君が知ることじゃない」
「そうね」
また認めた。
「ただ」アデライーデは少し間を置いた。「あなたには選択肢があるはずよ」
「やれと言われたことに従うのか、自分の心に従うのか」
「処分されるだけだ」
「それはわからないわ」
淡々とした否定だった。
「事情はわからない。あなたの背景も知らない。でも——」
アデライーデの目が、静かにユリウスを見た。
「友人を犠牲にしてまで守りたいものが、あなたには本当にあるの?」
ユリウスは返答できなかった。
声が出なかった。反論も肯定もできなかった。
アデライーデはそれ以上何も言わなかった。
静かに踵を返した。歩き出す前に、ふと空を仰いだ。
「眠れなくて外に出ただけよ。気になることがあると眠れないの——悪い癖ね」
一拍置いて、その視線が地面に落ちた。半分埋まったままの装置を、ほんの少しだけ見つめた。
「この機械——委員長の私が預かるわ」
「何!?」
アデライーデは迷わず手を伸ばした。
「校則違反。あなたに持たせておくわけにはいかない」
装置本体を掴んで引き抜こうとすると、土に埋まっていた先端部が小さな音を立てて折れる。
「あら、壊しちゃった?」
「いや、いいんだ。それでいい」
金属の断片が地中に残った。彼女は折れた本体部分を無造作に持ち上げ、夜着の袖で包んだ。
「この話は忘れるわ。おやすみなさい」
夜着の裾が月明かりの中に溶けていく。足音が遠くなって、消えた。
◇
ユリウスは、半分掘られた穴の前に残された。
手の中に——何もない。
地中には折れた先端の断片が残っている。回路はつながっていないはずだが、引き抜く手段がなかった。
『友人を犠牲にしてまで守りたいものが、あなたには本当にあるの?』 その言葉が、まだ消えなかった。
答えられなかった。反論の言葉がひとつも浮かばなかった。
無言で穴を埋め戻す。
その夜、ユリウスはほかの装置の設置をやめた。夜が明けるまで、ずっと裏庭に座っていた。




