消えていたはずの名前
### 9-2 消えていたはずの名前
週末の朝、廊下でクララに捕まった。
「ミユキ! ねえ、今日は街に出ない? 魔法薬の材料を補充したいんだけど、一人だと荷物が重くて。一緒に来てくれたらすごく助かるんだけど」
ミユキは手の中の本から顔を上げる。
廊下の曲がり角からひょこりと現れたクララが、期待に満ちた顔でこちらを向いている。後ろには小さな巾着袋を握って、もう片方の手にはメモ帳を抱えていた。
「ん、いいよ。私も探したい本があったし、ちょうどよかった」
「やった! じゃあ正門で集合ね。早めに出発してお昼は街で食べよう!」
クララはそれだけ言い終わるなり、廊下の向こうへ駆けていった。
◇
王都の商業区は、週末の昼前から活気が満ちていた。
市場の露店には色とりどりの品が並んでいる。角を曲がるたびに違う香りが漂い、広場の噴水が午前の陽光を反射してきらきらと光っていた。果物を売る老人が大声で客を呼んでいる。子どもが犬を追いかけて走っている。どこかから弦楽器の音が聞こえてきた。
「ここのお店が評判なんだよね」とクララが言いながら、魔法薬専門の小さな店の扉を押す。「ヴィレット草の乾燥品が良質なものが揃うって、エミーリアが教えてくれたの。先週も来たんだけど売り切れてて」
店内は予想より奥行きがあった。棚に沿って小瓶が並んでいる。乾燥草、粉末鉱物、魔力を安定させる溶媒。ラベルを読みながら棚の前を歩いていると、薬草特有の香りが空気に溶け込んでいた。
「……平和だな」
思わず口から出た。
「え、何?」とクララが振り返る。
「なんでもない。独り言」
クララは「ふうん」と言って棚に向き直った。
ミユキは小瓶の列を見ながら、心の中で考えた。
『ここ最近、ずっとオメガのことや歪みのことばかり考えていた』
学園で歪みが発生して、ユリウスへの疑念が増して、怪しい兆候を観察して——そういうことばかり続いていると、こうして街に出て普通の買い物をするだけで、妙にほっとする。
『もう、ただ生きる場所として受け入れたいんだけどな』
この世界が乙女ゲームの舞台だということ、自分が前世でそのゲームを開発していたということ——どちらの事実も変わらないが、それをいつも念頭に置いて生きるべきなのか、というのはまた別の話だ。
正直なところ、ミユキにはまだ答えが出ていなかった。
◇
クララが目当ての材料を見つけてさらにテンションを上げた頃、ミユキは店の外に出ていた。
路地をぼんやり眺めながら、クララを待つことにする。大通りから一本入った石畳の細い路地に、古めかしい宿屋が数軒並んでいる。観光客よりも行商人や旅の職人が使いそうな種類の宿だ。落ち着いた通りで、大通りほどの喧騒はない。
その路地の宿屋の前に、人影があった。
明るい栗色の髪を肩の辺りで束ねた、若い女性。白いエプロンを締めて、木製の看板を手拭いで丁寧に磨いている。二十歳前くらいだろうか。丸みのある顔立ちで、作業しながら鼻歌を歌っていた。
ミユキの目が、その人物に向いた。
足が——止まった。
『どこかで、見た顔だ』
学園で会ったことはない。街に出る機会が限られているから、知り合いというわけでもない。
なのに、なぜか。
見覚えがある。
「ミユキ? どうしたの? 青い顔してるよ」
クララが材料の袋を抱えて店から出てきた。ミユキの顔を見て、眉を寄せる。
「ああ、ごめん。なんでもない。ちょっと待ってて」
ミユキは自分の足を動かした。
心臓の奥が、じわりとざわついている。
見覚えがある——でもどこで? いつ?
近づくほどに、もやもやとした感覚が強くなる。女性は作業を続けていて、こちらに気づいていない。磨かれた看板の表面。その木目の上に、彫り込まれた文字が見えてきた。
銀の月亭——
その瞬間、頭の中で前世の記憶がよみがえった。
◇
深夜のオフィス。締め切り前の机。コーヒーの冷めた匂いと、積み重なった資料。
休憩の合間に落書きしていたノート——寄り道の設定メモ。「女主人公が旅先で一泊する宿」の設定を考えて、宿の看板を「銀の月亭」と名付けて、そこで働く看板娘の名前とラフまで描いた。
「エリーゼ」という名前まで書いた。
プロデューサー会議でそのアイデアを出したが、「サブキャラが増えすぎる」という判断で即座に没になった。最終的なゲーム企画には採用されなかった。
「——っ」
ミユキは立ち止まった。
女性がこちらを向いた。
「あら、お客様?」 宿の入口の前で、女性がにこりとした。「本日の空き部屋でしたら——」
「あの」 ミユキは声を絞り出した。「……失礼ですが、お名前を伺えますか?」
女性は少し驚いた様子で、それからほんわりとした笑顔を作った。
「エリーゼと申します。こちら、『銀の月亭』の娘でございます。何かご用でしょうか?」
ミユキは数秒、声が出なかった。
「……いえ、すみません。知り合いに似ていたもので。人違いでした。ありがとうございます」
頭を下げて、足を引いた。石畳の感触だけが奇妙にはっきりと足の裏に伝わってきた。体は動いていたが、頭の中は、まだ混乱していた。
名前が一致する。外見が一致する。宿の名前まで——完全に一致する。
息が——上手く吸えなかった。
公式の設定には存在しない。開発会議の記録にも出てこない。休憩室でノートの端に落書きした、それだけのはずの存在が——今、目の前で宿の看板を磨いて鼻歌を歌っていた。
◇
「ミユキ、本当に大丈夫? 急に表情が変わって、何があったの?」
クララが隣に来て、覗き込んでくる。
ミユキは一度、ゆっくりと息を吐いた。声が上手く出せるか、確かめるように。
「うん、大丈夫。少しだけ、夢中になって考え事をしてた」
ミユキは笑顔を作った。うまく作れていたかわからないが、クララは「いつものことだけど、変なミユキ」と言いながらも引き下がってくれた。
「本屋さんにも行くんでしょ? 早く行こうよ」
「そ、そうだね」
大通りに出て、クララと並んで歩きながら、ミユキは頭の中で考え続けた。
エリーゼだけではない。
幼馴染のエドワード。まだ小さかった彼と最初に彼と話したとき、どこかで見た顔だという感覚だけがあって、しばらく思い出せなかった。あれは——別の開発プロジェクトの打ち合わせで「書庫番の助手」として検討していた人物の外見と性格を、そのまま組み合わせたような。
そしてセシリア。「開発初期に考えた没悪役令嬢の妹キャラ」という設定が、外見も性格も——あまりにも一致する。
『以前から、違和感はあった』
たまたまオリジナルキャラが多い世界なんだ。と思っていた。実装されたキャラクター以外にも個性的な人物がいるのが、この世界のリアリティだと思っていた。
だが。
『違う』
私が仕事の合間に描いた落書き。会議で却下されたキャラクター。頭の中だけにあった設定。それらがこの世界に存在している。
ミユキは広場の石畳を踏みながら、視線を遠くに向けた。
クララが何か言っている。噴水が光を弾いている。子どもの声がどこかで聞こえる。
帰ったら、ちゃんと整理しなければならない。
「ミユキ? 聞いてる?」
「聞いてる。ごめん——本屋はどっちだったっけ」
「もう、ぼんやりしすぎ」
クララが苦笑しながら、少し先を指差した。
ミユキは歩き出しながら、まだ頭の中で考え続けていた。




