ユリウスの眼
### 8-12 ユリウスの眼
授業が終わると、廊下は一気に賑やかになった。
生徒たちが笑いながら出て行く。鞄を抱えて走る者、友人と連れ立って歩く者。夕方の学園は、昼とは別の種類の光で満たされる。
ユリウス・シュトラーゼは、それを教室の窓際から眺めていた。
立ち上がらなかった。帰る必要がなかった。
廊下の人影が減り、声が遠くなり、やがて静かになる。
夕日が教室の床に長く伸びて、それも少しずつ薄くなっていく。
ユリウスは窓の外を見た。学園の塔の影が、石畳の上に伸びている。空の端が橙色から藍色へ移ろい始めていた。
誰もいない。
ユリウスはようやく、椅子の背にもたれた。
◇
『ミユキ・フォン・ヴェルナー』
今日一日、観察していた。
事前の情報は把握していた——異例の魔法理論成績、独自技術「魔法デバッグ」、侯爵家令嬢という立場、そして昨日の歪み修復。
しかし、事前情報からだけではわからないこともある。
あえての接触。だが、あきらかに警戒されていた。
こちらが探っていると分かった上で、沈黙で返してきた。情報を渡さないという判断を、あの短い間に終わらせた。普通の令嬢の反応ではなかった。
『紋章を見たか、という問いへの沈黙——』
見た、とも見ていない、とも言わなかった。
情報の扱い方に長けている。それとも——本能か。
ユリウスは目を細める。
組織にも存在しない技術体系。外部からの干渉コードをリアルタイムで解析して隔離し、修復式を展開・適用する——あれは、魔法を「外側から操作するもの」として扱っている。
この世界の魔法師に、そういう発想の人間はいない。
魔法は世界に内在するものだ。使う者が世界の力を借りる。それがこの世界の魔法の根本概念だ。
なのに彼女は——世界とは関係の無い立ち位置で、まるで世界の外側に立って、世界の内部を書き換えるように動いていた。
『まるで……世界を書き替えるように』
世界を書き替える。その言葉が浮かんだとき、ユリウスは少し固まってしまった。
組織がミユキ・フォン・ヴェルナーを「危険な力の保有者」と分類した根拠は、魔法デバッグの技術だ。通常の魔法ではない汎用性。そして、魔法陣に印加した干渉を識別できる技術——つまり、組織が仕込んだ工作を検知できるということだ。
なので、なるべくして排除対象になった。
だが。
昨日の広場を思い出す。
市民が見守る中、裂け目の前に一人で立っていた。己の身長の倍はあろうかという三メートルの空間の裂け目、歪みを前にして、誰よりも先に前へ出た。魔法を展開し、構造を読み、修復した。
恐れていたはずだ。そうでないはずがない。でも、動いたのだ。
修復が終わったあと、立ち上がりながら、ただ縫合しただけだと、まだ根本的な解決ではないと言っていた。騎士に向かって、感謝でも謙遜でもなく、次の課題を口にした。
『あの娘は……世界の歪みに本当に関わろうとしている』
破壊する力を持っているのではない。この世界を、守ろうとしているのではないか。
組織の評価とはまったく別の結論が、ユリウスの中に浮かんでいた。
◇
昼休みの食堂を通りかかったとき、遠くの席でクララという女生徒と笑っているミユキの横顔が見えた。
手を大きく動かして何か説明している。向かいの二人が笑い返す。
放課後の廊下では、研究会の先輩——トビアスと名乗っていた——に何かを話しながら歩いていた。身振りで何かの構造を説明しているようだった。一緒に居た後輩が感心した顔で頷いている。
組織がリストアップした「危険な排除対象」の姿ではなかった。
たしかに普通の令嬢ではない。だが、彼女は、ただそこにいて、この世界の日常に根を下ろして、関わっているように見えた。
『情報が間違っているのか』
その問いが浮かんだ瞬間、ユリウスは思考を打ち切った。事前の情報にこだわらず、与えられた任務を遂行する。それだけでよい。余計な感情は邪魔になる。感情を廃し、任務に徹しろ——自分に言い聞かせる。
しかし、ユリウスは気づいていた。言い聞かせなければ揺れない。ということは、もう、すでに揺れているということに。
◇
外が完全に暗くなった頃、ユリウスは懐に手を入れる。
小さな箱形の装置を取り出す。表面に細かい紋様が刻まれたそれは、魔法と機械の複合型通信器だ——この世界の技術ではない。
手の中で少し重い。
ユリウスは数秒、それを見た。
親指が起動スイッチの上に置かれる。体温で温かくなった金属の感触がある。
——報告しなければならない。
「標的の動向を監視し、組織の計画に干渉する場合は排除の準備を整えよ」
任務の内容は明確だ。今日で一日の観察が完了した。報告義務がある。
ユリウスは装置を起動した。
低い振動音。接続が確立される。
「……標的の監視を開始した。異常なし」
短く言った。
通信を切る。
静かになった。
窓の外に、大きい月と小さい月が、今夜は並んでいた。ユリウスにはどちらがグローセモントでどちらがクラインモントなのか、いまだに覚えられていない。
どうでもいいことだった。任務のために必要な知識ではないから。
なのに今夜は、少し眺めてしまった。
この世界に来てから、夜空を見上げたことはなかった。必要がなかったから。二つ並んだ月は既知のデータだ——ただ、データとして知っていることと、実際に見上げることは、違う行為だった。
「異常なし」と報告した。
ただ——
「排除の準備」という言葉を、今日、声に出せなかった。
それだけは確かだった。
通信装置を懐に戻す。椅子から立ち上がる。教室の灯りは落とさないまま、ドアへ向かう。
廊下に出ると、夜の冷えた空気がある。石造りの学園の寒さだ。
ユリウスは歩き出した。足音だけが残る。
遠くで誰かが扉を閉める音がした。それ以外は静かな夜だった。
**あとがき**
これにて第八章終了でございます。
ラストシーンは短めですが、突然登場の新キャラ、ユリウス君の個人視点となってます。なかなかに意味深ですね。新キャラなのに。
さてさて次章では、ようやくお兄ちゃんの活躍がみれる・・・かも?
というところなのですが、ちょいとリアル世界で超多忙になっていまして、またしばらく更新お休みします。すいません><
年度末なんて大嫌いだだだ!><




