隼人の夢——魂の共鳴
### 8-6 隼人の夢——魂の共鳴
その夜は、珍しく早くに眠気が来た。
夕食を済ませた後、ミユキは自室の窓際で頭の中を整理しようとしていた。森の結界のこと。外部干渉のこと。学園での既視感とその照合——片付いた問題は一つもなく、むしろ「分かったことで分からないことが増えた」という状況だ。前世のプログラマーとしての習性が、部分的に把握できた情報を体系化しようと動き続けている。眠ろうとするには少々、頭が騒がしすぎた……。のだが、ベッドに横になった途端に意識が沈んでいくのを感じた。
焦りも、考え途中の問題も、その全部が、水底に静かに沈んでいくように遠ざかっていく。
窓から差し込む大月と小月の光が、薄いカーテンを白く染めていた。
◇ ◇
気がつくと——夢の中にいた。
暗いところだった。しかし、今回は、すぐに視界が開く。
灰色のコンクリート。せり出したビルの壁。地面には白線が引かれた車道——見間違いようのない、前世の景色だ。密集した建物の間を縫う、狭い路地。深夜なのか人の姿はなく、遠くにだけ信号機の光が見えた。
バイクが走っていた。
黒い車体。流線型だが装甲のように硬質な外装を持ち、いわゆる市販車とはまるで形が違う。エンジン音ではない——低い電子音を引きながら、疾走している。前輪が路面を切り、後輪が獰猛なパワーを大地へ、えぐるように注ぎ込む。コーナーで重心を落とし、イン側をぎりぎりに刻む乗り方——ミユキはそれを見た瞬間に確信した。
『……お兄ちゃん』
乗っているのは良く知った男だった。乱れた黒髪。鋭い横顔。背中の広さ。アクセルを握る手つきの確かさ——見間違えるわけがなかった。
隼人はバイクを走らせながら、ちらと後方を振り返る。何かを確認している。そしてまた前を向く——人通りのない路地をさらに奥へと進む。
追われている。
直感的にそれが分かった次の瞬間、前後から黒い車が路地に折れ込んできた。一台ではない。二台、三台と続く。そしてその車の間から、ドアを開けるより早く黒いスーツの男たちが躍り出てきた。
動きが通常の人間のものではなかった。速い、正確すぎる。何かで強化されているような動きだ。
隼人はバイクを急停止させた。後輪をロックして車体を横滑りさせ、迫ってくる男の一人の足元を掠める。男が体勢を崩した隙に、バイクを切り返して距離を取る。
『すごい』
と思うと同時に、胸が痛かった。
子どものころ、コースの脇で兄の走りを見た時と同じ感触だ。圧倒的で、目が離せなくて、でも心配で仕方ない——そのごちゃ混ぜの、どう処理すればいいか分からない感情。
「確保しろ! 逃がすな!」
スーツの男の一人が叫んだ。
隼人は小さく息を吐いて、腰のホルスターに手を伸ばした。引き抜いたのは銃ではなかった。薄い板状のデバイスだ。黒い表面に光る文字が走っている。読めない言語だが、意味は直感的に分かった。
変身のためのデバイス。
『お兄ちゃん!』
ミユキは夢の中で叫んだ。
届かない——と思った瞬間。
隼人が、動きを止めた。
追跡者たちが距離を詰めてくるこの状況で、男は顔を上げた。路地の薄い空気を確かめるような仕草をした。何かを探している。
『お兄ちゃん、ここにいる! 聞こえる!?』
隼人の眉が、わずかに動いた。
『……美幸?』
声が届いた。
前の夢とは全く違う感触だった。今までは「引力」のような、ぼんやりとした何かが感じられるだけだった。でも今は——声だ。頭の中に直接響くような、それでも確かに声として届いている。
『聞こえてる!』
『ああ、聞こえる。かすかにだが、たしかにお前の声だ』
隼人は追跡者に向き直った。デバイスをベルトに装着する。
低い電子音が鳴った。
《Rider System Standby》
英語のアナウンスが路地に響く。
展開が始まった。
隼人の体を何かが包み込む。無形の力が輪郭を持ち、形を作っていく。腕、肩、胸、脚——それぞれを覆う硬質な防護装甲が次々と固まり、最後に頭部へバイザーが降りた。
もはやそこに立っているのは、ただの人間ではなかった。
銀と黒の装甲を纏った、仮面の騎士。
黒いスーツの男たちが一瞬、脚を止めた。
仮面の騎士は、静かに踏み込んだ。
最初の一人が飛びかかる。腕を流し、肘を鳩尾に落とす。次の一人、回し蹴りを受け流して足払い。三人目が側方から強烈な打撃を入れてきたが、隼人はそれを受けたまま体を回転させ、勢いを乗せて投げた。
炸裂音。金属が擦れる音。路地にくぐもった衝撃が続く。
ミユキは夢の中で立ち尽くして、その光景をただ見ていた。すごい、と思う。でも同時に——どれだけこういう場所をくぐり抜けてきたら、こんな動きができるようになるのか、とも思う。
男の一人が隼人の背後から飛びかかり、肩口を打った。隼人が膝を折る。
『お兄ちゃん!』
『大丈夫だ』
ゆっくりと立ち上がった。膝立ちから、ぐらつきなく。
『これくらいどうってことない』
軽く言い捨てて、残った敵を向く。
その声の静けさが、逆に怖かった。
何度も繰り返してきた人間の声だった。「これくらい」が本当に「これくらい」になるまでに、いったいどれだけのことがあったのだろう。
しばらくして——路地が静かになった。
黒いスーツの男たちは泡のように消えさり、その姿は、もうなかった。
◇
夢の時間が変わる。
路地の景色が薄れ、どこでもないような場所になった。色も形もあいまいな、グレーの空間。
隼人はまだ装甲を纏ったまま、そこに立っている。
ミユキは——今度は、近にいた。手を伸ばせば届くくらいの距離。前の夢では彼方にしか見えなかったのに、今は、はっきりとここにいる。
『美幸』
バイザーが上がった。
目元に疲れの影がある。しかし、眼の奥が強かった。追い詰められた人間の眼ではなく——何かに向かって進んでいる人間の眼だ。
「……お兄ちゃん」
声に出たかどうか分からなかったが、届いたようだった。
『無事か』
「大丈夫。この世界で色々あったけど……私は大丈夫」
『そうか』
隼人は短く言って、それから——わずかに眉尻を下げた。ほんの少し、兄らしい顔になった。
『よかった』
「お兄ちゃんの方こそ……さっきのは」
『問題ない』
「問題あるよ…! あんなに……」
『ああいう連中とはもう慣れた。心配するな』
慣れた、という言葉が刺さった。
心配するなとは言うが、慣れなければならないほど繰り返してきた、ということだ。兄がそういう場所で戦い続けてきた間、ミユキは異世界で学園生活を送っていた。そのことへの申し訳なさと、悔しさが混ざった。
「……私のせいで」
『違う』
すぐに返ってきた。
きっぱりとした声だった。
『お前がそっちに行ったのは、あいつらのせいだ。俺は最初から、それを正しに動いてる。お前が謝ることは何もない』
「……うん」
『俺は必ずそっちへ行く。絶対にお前を連れて帰る』
根拠が聞きたかった。どうやって来るのか、いつ来るのか、本当に可能なのか——前世の習性が、証拠と根拠を求めようとした。
でも、聞けなかった。
そういう声だった。諦めを知らない人間の声。根拠がなくても動く人間の声。ミユキが子どもの頃から幾百回も聞いてきた、お兄ちゃんのそれだ。
『もう少しだ。もう少しで会える』
「……うん」
グレーの空間が揺らぎ始めた。
夢が終わりに向かっている。
『お兄ちゃん』
『何だ』
『私も、こっちで頑張る。この世界に何かが起きてて、それを止めないといけない。だからお兄ちゃんが来た時に、ちゃんとした世界でいられるように』
隼人は少し黙った。
『……お前らしいな』
「お兄ちゃんも、無事でいて」
『わかってる』
世界が崩れていく。装甲の輪郭が光の粒に溶け、グレーが白へと変わっていく。
『——美幸』
最後に、名前だけが届いた。
それで十分だった。
◇ ◇
目が覚めた。
天井が見えた。屋敷の自室——大月の光が、窓枠の形を白く床に落としている。静かだ。鳥の声もまだしない。夜半過ぎだろうか。
ミユキは起き上がりながら、頬に触れた。
濡れていた。
「……お兄ちゃん」
口に出したら、また涙が出た。拭っても止まらなかった。
泣くつもりはなかった。夢の中では普通に喋っていた気がするのに、覚醒した途端に感情の処理が追いつかなくなり、起きた瞬間に後から全部がなだれ込んでくる。
『お兄ちゃんが戦ってた。ずっと、戦い続けてた』
映像が鮮明に残っていた。今まで見たどの夢よりもはっきりしている。路地の質感、バイクの電子音、黒いスーツの男たちの動き——そして、隼人がバイザーを上げた時の顔。
今度は、消えない。
ミユキはしばらく膝を抱えてベッドの端に座っていた。
夢の中で、声が届いた。互いの声が、はっきりと届いた。それは夢が鮮明になったというだけでなく、何か——つながりが強まっている証拠だとミユキには感じられた。異なる世界の間であっても、深いつながりは影響を及ぼし合えるのかもしれない。
それが起きているなら——お兄ちゃんは、本当にこちらへ来るつもりでいる。
そして、追われていたことも、本当だ。
黒いスーツの男たち——オメガの追跡部隊だ、とミユキは確信した。この世界への転生を人為的に引き起こせるなら、現実世界でも相応の力と組織を持っているはずだ。そしてその組織を追う側にも、対抗できるだけの何かが必要になる。隼人が持っているあの変身能力——「ライダーシステム」が、その一つなのだろう。
お兄ちゃんは一人で、それを背負っている。
ミユキは目を拭った。
胸の痛みは消えなかった。でも、その奥に別のものがある。
熱、と呼んでいいか分からない。でもそういうものが、腹の底から静かに上がってくる。
『この世界で、私にできることがある』
だとしたら。
学園に戻れば、魔法陣の異常についてもっと調べられる。ヴィクトール・シュヴァルツという人物に直接話を聞けるかもしれない。外部干渉のパターンを蓄積して、発生源を特定することもできるかもしれない。
そしていつか——この世界に侵食してこようとしているオメガの手を、止める。
でないと、お兄ちゃんが来られたとしても、この世界が崩れてしまう。
お兄ちゃんを迎えるために。この世界を守る。
当たり前のような結論だったが、それを自分の言葉として確かめると、何かが腑に落ちた。ふわふわ浮いていたものが、地に足をつけた感触。
ミユキは深呼吸をした。
窓の外では、大月と小月がまだ並んで輝いている。夜が終わるまで、まだ時間があった。
ミユキは静かに横になる。涙の跡が乾いていくのを感じながら、もう一度だけ目を閉じた。
『絶対に来てね、お兄ちゃん』
それから——穏やかな眠りが来た。




