家族との再会
### 8-2 家族との再会
屋敷の灯りが見えてきた時、ミユキは思わず身を乗り出した。
黄昏に染まったヴェルナー侯爵家の屋敷——石造りの壁、アーチ型の大門、敷き詰められた砂利道。学園で過ごした日々の間に、少しばかり記憶の中で美化されていたかもしれない。実際に見ると、少し古びた感じもするし、威厳があるというよりはどこか温かみのある外観だった。しかし、夕暮れの橙色の光に照らされ、より温かく見える気がした。
馬車が大門をくぐる。砂利を踏む蹄の音が変わる。
「あ——」
玄関の扉が、勢いよく開き、走り出てくる人影。銀髪が夕風に揺れ、深紅のドレスの裾が翻る。
「ミユキ! おかえりなさい!」
馬車が完全に止まる前に、カタリーナが扉の前で両手を広げていた。
ミユキは馬車の扉が開いた瞬間に、そのまま母の腕の中に飛び込んでいた。
「ただいま、お母様っ!」
柔らかくて温かい。薔薇の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。こんなに細い腕なのに、ミユキをしっかりと包み込む力強さがある。
『帰ってきた……』
ミユキは目を閉じた。
「痩せていないかしら? ちゃんとご飯は食べていた? 睡眠はしっかりとってる? 無理していない?」
「お母様、落ち着いてください——」
「落ち着けとおっしゃいますけれど、お母様というのはね、ミユキ、いつでも——」
「カタリーナ」
穏やかだが、よく通る声。
カタリーナが顔を上げる。屋敷の入り口に、ヴェルナー侯爵が佇んでいた。いつもと変わらぬ落ち着いた表情で、腕を組んで娘の帰還を見守っている。
「落ち着いて出迎えなさい」
「でも、ミユキが——」
「ミユキは元気そうではないか」
父の視線が、ミユキに向いた。
「おかえり、ミユキ」
「……ただいま戻りました、お父様」
ミユキはカタリーナから離れ、侯爵に向かってお辞儀をした。侯爵は一歩前に出て、軽くミユキの頭に手を置く。短い仕草だったが、それだけで十分だった。
「よくやっている、と聞いているぞ」
その声には、かすかな誇りが滲んでいた。
◇
「ミユキ!!」
背後から降ってくる声に、ミユキは反射的に半歩横へ躱した。
空を切ったソフィアの両腕が、虚しく宙を掴んだ。
「あら」
「お姉様、助走をつけて飛びつこうとしないでください」
「だって久しぶりなんだもの!」
ソフィアが頬を膨らませる。蜂蜜色の光の中で、その銀髪が輝いていた。弾けるような笑顔は変わらない。
「学園での成績、お母様から聞いたわよ。魔法理論、学年トップなんですってね! さすがミユキ!」
「マナーのほうはいまひとつでしたけど……」
「いいの、いいの! 魔法の実力があれば、貴族として困ることなんてないわ! マナーなんて、また私が教えてあげる!」
ソフィアがミユキの手を取ってぶんぶんと振り回す。
『お姉様は変わらないな……』
ミユキは苦笑しつつも、内心ではほっとしていた。
「姉上」
今度は低めの声。フリードリヒが玄関の柱に肩をもたせかけ、腕を組んで立っていた。
「手を離せよ。ミユキが困っているじゃないか」
「困ってないわよね、ミユキ?」
「……少し」
「ミユキ!」
「正直に答えただけです」
フリードリヒが苦笑交じりに歩み寄ってくる。騎士団の訓練で日焼けしたのか、前より肌の色が濃くなっていた。背も、わずかに高くなった気がする。
「おかえり、ミユキ」
「ただいま、お兄様」
「学園での成績、父上から聞いた。よく頑張ったな」
そう言いながら、フリードリヒはミユキの頭にぽんと手を置いた。
「お兄様も騎士団の訓練は?」
「順調だ。少し鍛えた」
「鍛えたですって?」
ソフィアが割り込んだ。
「ミユキの報告より先の自慢話はなしね! ミユキ、お姉様にちゃんと学園の話を聞かせてちょうだい!」
「いいからまずは中に入れ」
父エルヴィンが、静かに二人をたしなめる。
セバスチャンが静かに咳払いをした。いつの間にか馬車の荷物を手配してある。さすがは老執事だ。
「お嬢様もお疲れでしょう。中へどうぞ」
「ありがとうございます、セバスチャン」
「おかえりなさいませ、お嬢様」
メイドたちも声を合わせる。
皆の顔に微笑みが浮かんだ。それだけで、ミユキの肩の力が抜けていく。
◇
夕食は、大きなテーブルを家族全員で囲んだ。
食卓の中央には、ヴェルナー家の料理人が腕を振るった料理が並んでいる。こんがりと焼けた鴨肉、クリームソースのポテト料理、色とりどりの野菜のマリネ。侯爵家の夕食にしては雅やかさより家庭らしさを感じる献立——カタリーナが給仕に指示を出したのだろう、とミユキは思った。ミユキの好みをよく知っている。
「さあ、ミユキ。学園の話を聞かせて」
カタリーナが、にこやかに身を乗り出した。
「どんな先生がいるの? クラスメートは? お食事はちゃんと食べられているの?」
「一つずつ聞いてあげなさい、カタリーナ」
侯爵が穏やかにたしなめる。
「ではミユキ、好きなところから話してください」
「……では、友人のことから」
ミユキは少し考えてから、話し始めた。
「クララっていうルームメイトがいて、すごく明るくて優しいんです」
「どんなお嬢さんなの?」
「伯爵家の令嬢で……えっと、いつも明るくて社交的で、魔法理論は少し苦手みたいですけど、一生懸命勉強していて。私のマナーの失敗も笑って許してくれる」
「あら、心の大きな子ね」
「私のために次学期は一緒に練習しようと言ってくれました。それと——」
ミユキはリリアーナのことも話した。特待生として残った彼女のこと、真面目で礼儀正しいこと、魔法理論で急成長しているほど聡明なこと。
「ローゼンベルク……って、あの、ミユキを悪役令嬢にしてしまう子なのでは?」
「はい、でも、大丈夫そうです。仲良くなっちゃいました」
ミユキは笑った。
「彼女、『聖女の再来』と噂されている特待生でしょ?」
ソフィアが身を乗り出した。
「はい。その人です」
「噂は聞いていたわ。まさかミユキと一緒に研究しているなんて」
「光の魔法と私の魔法陣では方向性が違いますけど、理論の話は通じることが多くて。一緒に勉強することも多いです」
「なるほどねえ……」
ソフィアがじっとミユキを見た。何か言いかけて、口をつぐむ。
「……出自を気にせず付き合っているのね」
カタリーナが穏やかに言葉を引き取った。
「それはミユキらしいわ。本当の意味で対等に接することができる人は、なかなかいないものよ」
「次はセオドア様のこと!」
ソフィアが口を挟んだ。
「手紙に書いてたでしょ、『グレイヴェンシュタイン公爵家の令息と共同研究をしている』って! どんな方なの?」
「……真剣に魔法の話ができる、数少ない人です」
「それだけ?」
「凄いと思いますよ。理論構築の厳密さは本物で、私の発想を理解してくださる。そういう人は、学園でも多くないです」
「なるほど……」
ソフィアが何か考え込んでいる。ミユキは少し嫌な予感がした。
「ふーん。王子の線は無しって言っていたし、それって、要するに——」
「姉上」
フリードリヒが静かに遮った。
「ミユキに余計なことは吹き込まなくていい」
「フリードリヒ! 意地悪しないで頂戴」
「俺は話を続けさせたいだけだ」
わずかに目が笑っていた。ミユキはこっそりと侯爵を見た。父は黙ってワインを傾けているが、口元に微笑みがある。
「魔導機関研究会にも入りました。魔動バイクの改良も、少しずつ進めていて。休み中にアグスさんと相談しようと思っています。それと——マルコさんも、近々に到着するとの連絡が来ているはずです」
「マルコ・ロッシーニか」
侯爵がグラスを置いた。
「商人を招いて、商売をはじめるのか」
「魔動バイクの商品化について、アグスさんと本格的に話し合ってもらおうと。私一人ではやれることに限界がありますから」
「なるほど」
侯爵は短く頷いた。否定はしなかった。
「魔動バイク!」
フリードリヒが急に身を乗り出した。
「アグスの工房か。俺も行きたい。改良後のジルバーヴィントはまだ見ていないんだ」
「お兄様は工房に来たことがないですよね。アグスさんにも紹介できますよ」
「ぜひ頼む。改良がどこまで進んでいるか、気になっていた」
「明日にでも、アグスの工房に行くつもりですから、一緒に行きます?」
「本当か?!」
フリードリヒが普段の落ち着きを忘れて前のめりになる。ソフィアが「わたしも! 姉様も見たいわ!」と便乗してくる。
わあわあと盛り上がる音の中、フリードリヒが一度だけテーブルの上座——父上のいる方へ——目を向ける。その一瞬だけ、父の表情が少しだけ険しくなったように見えた。
『それにしても、家族って、こんなに賑やかだったっけ』
ミユキは思った。
学園の静かな図書館も、研究会の熱気も、それぞれ好きだ。でも、この食卓の騒がしさには、何か別の種類の温かさがある。
◇
食事が一段落した頃、カタリーナが少し真剣な表情になった。
「ミユキ、少し聞いてもいいかしら」
「はい、何でしょう」
「学園での生活、——本当に大丈夫?」
ミユキは少しだけ戸惑った。カタリーナの声音が、いつもより低い。
「はい。勉強も、友人関係も——」
「そうじゃなくて」
カタリーナが、穏やかだが真剣な目でミユキを見た。
「ミユキ、最近手紙に書いてることが少し……どこか遠い気がするの。言葉がきちんとしているのに、どこか別の場所から書いているよう」
ミユキは黙った。
前世のことを思い出す。心配をかけたくなくて「元気です」とだけ書いていたあの感覚——今もどこかでそれと同じことをしているのかもしれなかった。
「気のせいかもしれないわ。でも、お母様はね、ミユキの変化には気がついてしまうのよ。小さな頃から」
フリードリヒがそっとグラスを置いた。ソフィアも静かになっている。
「何か——抱え込んでいることは、ない?」
『……さすがお母様、看破されてる』
ミユキは少しの間、考えた。
あの監視の感覚、夢の話——今すぐ全部を話すことはできない。証拠もなく、何より家族を不必要に心配させたくない。
でも、嘘をつくことも、できなかった。
「……少し、気になっていることはあります」
正直に、ミユキは言った。
「でも今はまだ、はっきりとした話ができる段階じゃなくて。もう少し自分で整理したいんです」
カタリーナが、じっとミユキを見た。
長い沈黙があった。
「……わかったわ」
カタリーナは微笑んだ。追求しない選択をしたのが伝わってくる。
「でも、いつでも話せるようになったら話して。お母様、聞くわ」
「はい」
「ソフィアも、フリードリヒも、お父様も——みんな、ミユキの味方なんだから」
フリードリヒが、腕を組みながら言った。
「当然だろ」
ソフィアが立ち上がり、ミユキの隣にやってきて、やさしく、それでもぎゅっと。肩を抱いてくれる。
「ミユキが心配事を一人で抱え込んでいるなんて、姉様は嫌よ。一人で全部やろうとしないで」
「……お姉様」
「でも——今すぐ話さなくていいからね。ちゃんと、言えるようになったらでいいから」
ソフィアの声は柔らかかった。
ミユキは自分でも気づかないうちに、目が滲んでいた。
涙が出るほどのことでもないのに——と思う。思うのに、止まらなかった。
「あ、あれ? す、すみません」
ミユキはそっと目元を押さえる。
「これは、その……」
「泣いたっていいのよ」
カタリーナが静かに言った。
「久しぶりに帰ってきたんだもの。この家でなら、泣いても大丈夫ですからね……」
◇
食後、ミユキは中庭に出た。
冷えた夜気が頬を撫でる。大月と小月が、今夜もよく見える。庭の端に咲いている白い花が、月光を受けてぼんやりと輝いていた。
「——お嬢様」
セバスチャンの静かな声が後ろからした。
「遅くまで、失礼いたします」
「いいえ。セバスチャン、少しいいですか」
「はい」
ミユキは月を見上げながら、言った。
「学園のこと、何かあったら教えてくれている人、います——よね?」
セバスチャンは短くも長くもない間を置いた。
「……お嬢様は鋭いですね」
「否定しないんですね」
「わたくしの職務上、嘘をつくことはできません」
ミユキは苦笑した。このあたりが、いかにもセバスチャンらしい。
「もちろん敵意を持った者ではありませんからご安心ください」
「わかっています」
「正確には、見守りと異常の通知を依頼しております」
「そう」
ミユキはそれ以上は聞かなかった。セバスチャンの監視が、家族の心配から来ていることはわかっていたし、何より彼の判断を信頼していた。
「一つだけ、いいですか」
「はい」
「実は、それとは別に、不審な視線を感じることがあるんです。学内でも、今日の帰りの馬車の中でも、冷たい視線を感じました。学園で何度か——後ろを振り返っても誰もいない、そんな感覚です」
夜風が吹き抜けた。月が、薄い雲の向こうに一瞬隠れる。
「ふむ、承知いたしました」
セバスチャンの声は、いつも通り静かだった。でも、わずかに——真剣味が増した気がする。
「学園周辺の不審な動向については、わたくしも以前より注意してございます」
「……ありがとうございます」
「おやすみなさいませ、お嬢様。今宵は、ゆっくりお休みください」
セバスチャンが静かに礼をして、屋敷へ戻っていく。
ミユキは一人、中庭に残った。
月を見上げる。
夢の中で聞こえた名前——オメガ——がまた頭をかすめる。
ミユキはそっと息を吐いた。
今夜は、本当に安心できる場所に帰ってきた。それだけでいい。
家族の笑い声がまだ耳に残っている。お母様の温かさも。お姉様の腕の感触も。
この世界は、守る価値がある。
改めてそう思いながら、ミユキは屋敷の灯りに向かって歩き出した。




