帰郷
## 第八章:暗躍する影——世界の歪みと真実
### 8-1 帰郷
学期末試験最終日——答案用紙を提出した瞬間、ミユキは小さくため息をついた。
隣の席のクララが振り返って、こっそり声をかけてくる。
「ミユキ、マナー試験どうだった?」
「……まあ、なんとかかんとか」
「私も~! 難しかったよね~。お辞儀の角度の決めごととかおかしくない? 細かいこといろいろ暗記しなきゃいけないし……」
クララは大げさに肩を落とした。
『同士よ……』
ミユキは苦笑する。魔法理論や魔導工学の試験は、正直なところ全く苦にならなかった。前世の知識を総動員すれば、どの問題も解けた。むしろ「この魔法陣の設計は非効率すぎる」と余白にメモを書きたい衝動を抑えるのが大変だったくらいだ。
問題は——宮廷マナーと礼法の試験だった。
『なぜ食事中のカトラリーの使いかたに、あんなに細かい規則があるんだ……』
前世でも後世でも、マナーというものはミユキの天敵だった。理屈ではなく慣習で、「こういうものだ」という暗黙の了解で成り立つ世界は、プログラマー的思考回路とどうしても相性が悪い。
結果的に、魔法理論と魔導工学は学年トップ。宮廷マナーと礼法はほどほど……という、見事なまでにアンバランスな成績になりそうだった。
◇
翌日、成績表が配られた。
「ミユキ・フォン・ヴェルナー。魔法理論、満点。魔導工学、学年一位」
担任の先生が読み上げた瞬間、クラスがどよめいた。
ミユキは、なんとも言えない顔をした。
『目立っちゃうよね……まあ、しかたない』
「なんだ、ヴェルナー嬢。また一位か」
後ろの席のクラスメートが、感心したような声を出す。
「礼法はどうだったんです?」
「……中位、かな?」
「え? ヴェルナー嬢が満点でない? ちょっと意外ですね」
目を丸くされて、ミユキは苦笑した。
「マナーの才能というものは、魔法の才能とは全く別のものですから」
と答えると、なぜか周りにくすくすと笑いが起きた。
廊下の窓からのぞき込んでいたセオドアが、教室に顔を出してくる。彼は授業が終わるとよくここを通りかかるのだ。
「魔法理論は無論学年トップだったようだね、ミユキ君。素晴らしい」
「ありがとうございます。でも、マナーの授業は失敗ばかりで……」
「プログラマブル魔法陣の理論を構築できる人物が、宮廷マナーで苦戦する。それはそれで興味深いな」
セオドアは少し楽しそうに言った。
「全然興味深くないです」
「大丈夫よ! ミユキは理系が得意なんだから」
クララが勢いよくフォローに入る。
「次学期は私と一緒に練習しよう! 二人でがんばれば絶対なんとかなるって!」
「……よろしくお願いします」
ミユキは素直に頷いた。苦手分野でも明るく克服しようとするクララの申し出は、心からありがたかった。
教卓前に座っているクラス委員のアデライーデ・フォン・クロイツベルクが、穏やかな表情で室内を見渡す。
「皆さん、バランスよく努力されていましたね。よく頑張られました」
短いが、心のこもった言葉だった。クラスに落ち着いた空気が流れる。この人は本当に、ちょうどいいタイミングで場を引き締めるのが上手い、とミユキは思った。
◇
休暇前、最後のホームルームが始まった。
担任が黒板に「長期休暇について」と書きながら、諸注意を読み上げていく。その間も、教室のあちこちでこっそりした会話が弾んでいた。
「ミユキ、お休みは領地に戻るんだよね?」
クララが振り返って聞く。
「うん。家族に会いたいし、領地の様子も見ないと」
「いいなあ。私は王都でしばらく過ごす予定。ちょっとつまんないな」
「クララ、王都にいるなら王立図書館に行くのもいいんじゃないかな」
「それ、勉強しろってこと?!」
クララが大げさに半泣きの顔になる。ミユキは笑って「冗談ですって」とごまかした。
少し離れた席で、リリアーナが静かに手帳を閉じているのが見えた。ミユキは声をかける。
「リリアーナさんは、お休みは?」
「私も王都に残るんです。平民特待生だから、休暇中も勉強しないと」
リリアーナは柔らかく微笑んだが、その言葉には少し重さがあった。
『特待生は大変だな……』
「リリアーナ、無理しないでね」
「大丈夫。ミユキさんみたいに優秀になりたいですから」
ミユキはなんと答えればいいかわからず、少し迷ってから言った。
「……リリアーナは、もう十分優秀だと思いますよ」
リリアーナが目を丸くする。それからクララが「そうそう!」と割り込んで、また笑いが起きた。
◇
廊下をトビアスが小走りでやってきた。
「ミユキさん! 少しよろしいですか?!」
魔導機関研究会の会長、先輩だ。いつも魔動バイクについての話題を持ち込んでくる。
「どうしたんですか、トビアス先輩」
「休み中も魔動バイクの開発、進めてくださいよ! アグス師匠と新型の話、してきてくださいね!」
「もちろん。アグスさんとも相談するつもり。それと、マルコさんも領地に来てくれるから——商品化の打ち合わせもします」
「おお! ということは、量産計画が本格的に動き出す……?!」
トビアスが目を輝かせた。こういう時の表情は、年齢より幼く見える。
「まだ何も決まっていないけど、できることを進めてくるよ」
「楽しみにしてます! ミユキさんなら、絶対すごいものにしてきてくれますよ!」
ミユキは苦笑した。
『プレッシャーかけないでください……』
◇
学園の正門前、馬車が静かに待っていた。
セバスチャンが扉を開けながら「お嬢様、お荷物の確認はよろしいでしょうか」と確認してくる。いつもながら、非の打ちどころのない執事ぶりだ。
「大丈夫です。では行きましょう」
ミユキは馬車に乗り込んだ。
荷台には荷物と、学園での研究ノートが何冊か入っていた。
馬車が動き出す。学園の門が遠ざかっていく。
ミユキは窓の外を眺めた。
『帰りは魔動バイク《ジルバーヴィンド》で学園に戻ろうかな。その方が早いし——調整も兼ねられる』
考えているうちに、馬車は王都を抜けて草原に入った。空には大月と小月が並んで輝いている。まだ夕暮れ前の柔らかい光の中、草原の風が馬車の小窓から入り込んでくる。
この世界に来て、もうすぐ四年になる。
『慣れたよなあ……』
ミユキは目を細める。前世の記憶はまだある。デスマーチだった最後の仕事の夜も、コンビニで買ったカップラーメンをデスクで食べた朝も。でも、この世界の記憶もどんどん積み重なっていく。研究の喜び、家族の温かさ、友人との笑い声——。
どちらの記憶も、自分のものだと思っている。
窓から草原の景色を見ながら、ミユキはうとうとしかけた。
——その時。
背筋を、冷たい感覚が走った。まただ、誰かに見られている感覚……。
『……こんなところでも……』
ミユキは反射的に窓の外を確認した。草原、遠くに見える林の端、空、馬車の後方——。何もいない。追ってくる馬影も、目立った人影もない。
学園でも何度かあった。廊下を歩いている時、図書館にいる時——首筋の毛が立つような感じ。振り返ると誰もおらず、でも確かに何かが通り過ぎたような残滓がある。
『……いったいなぜ……?』
ミユキは馬車の背もたれに深く沈み込んだ。
夢のことが頭をよぎる。幾度か見た、あの夢——。バイクに乗る男性の後ろ姿。爆発音。組織の黒い影。夢の中で聞こえた声のかけらが、耳の奥でぼんやりと甦る。
『……追ってくる。奴らが——』
見知らぬ出来事が、夢という形で流れ込んでくる。以前はぼんやりした印象しかなかったのに、最近はだんだんと鮮明になってきている気がする。
『まさか、私も監視されてる……?』
自分が転生させられた時、神様は組織的な犯行と言っていた。もしかして、それが?
『でも、なんのために……』
考えても答えは出ない。ミユキは自分の手を見下ろした。魔法陣を展開する時、この手で魔力の流れを操作する。前世のコードを書く感覚と、根本のところではよく似ている。
『この能力を利用したい……ってこと?』
わからない。わからないまま、草原は続く。
セバスチャンが座席の向かいで目を閉じている。長旅に慣れた人間の、無駄のない休息の取り方だ。鋭敏な感覚を持つ人なのだが、あの視線は感じていないのだろうか。
ミユキはそっとため息をついて、次第に眠りに落ちていく意識に身を任せた。
『お母様たちに会えたら、少し安心するかな……』
馬車が揺れる。草原の風が窓を叩く。
空の大月が、静かに二人を照らしていた。




