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悪役令嬢はデバッグしたい ~転生したら作りかけの乙女ゲームの悪役令嬢だったので、前世の知識で世界をデバッグすることにしました~  作者: 神楽坂らせん
第五章:成長の二年間

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十四歳の夏——初めての魔物討伐

### 5-3 十四歳の夏——初めての魔物討伐


 夏の夕暮れ時、ヴェルナー侯爵家の食堂。


 西日が長く伸びて、テーブルクロスに深い影を落としている。銀のカトラリーが夕日を反射し、まるで小さな炎のように輝いていた。空気には、厨房から漂う香草の香りと、開け放たれた窓から入る夏草の匂いが混じり合っている。


 いつもならば和やかに進む夕食の席が、この日は違っていた。


「最近、領地のダンジョン周辺で魔物の活動が活発化しているようだ」


 エルヴィンの声は、穏やかな夕べの空気を切り裂いた。


 ナイフを持つ手が止まる。フォークが皿に触れる音が、やけに大きく響いた。家族全員の視線が、一斉に領主へと向けられる。


「騎士団で対処しているが、魔物の数が明らかに増えている。領地防衛の負担が……正直なところ、限界に近づきつつある」


 エルヴィンの額には、薄く汗が浮かんでいた。いつもは冷静沈着な父が、わずかに疲労の色を見せている。それだけ状況が深刻だということだ。


「あなた……心配ですわ」


 カタリーナが、銀のフォークをそっと皿に置いた。その手が、かすかに震えている。母の青い瞳には、不安の影が宿っていた。


「お父様、私にできることは……」


 ミユキの声が、思わず震えた。胸の奥から湧き上がる焦燥感。領地が危機に瀕しているのに、自分は何もできないのか。魔法の研究ばかりしている場合ではないのではないか。


 エルヴィンは、ワイングラスを静かに置くと、末娘をまっすぐに見つめた。その瞳には、厳しさと、同時に温かさがあった。


「ミユキ、お前はいずれ領地を継ぐ者の一人として、領地防衛に関わることになる」


 言葉の一つ一つが、重みを持ってミユキの心に響いた。


「魔法の研究も大事だ。だが……実際の魔物がどういうものか、その脅威を肌で知っておく必要がある。書物の知識だけでは、いざという時に判断を誤る」


「あなた……ミユキはまだ十四歳ですのよ? そんな危険なことを……」


 カタリーナの声が、一段高くなった。母の指が、テーブルクロスをきつく握りしめている。


「だからこそだ、カタリーナ」


 エルヴィンの声は、穏やかだが確固たる信念に満ちていた。まるで揺るがない岩のような、重厚な響き。


「若いうちに、世界の現実を知るべきだ。温室の中で育てられた花は、外の風に耐えられない」


 彼の脳裏には、自分自身の若き日の記憶が蘇っていた。二十歳の頃、父に連れられて初めて領地を駆け回ったあの日。領民の暮らしぶり、街道の状況、辺境の厳しさ——それらを肌で学んだあの経験こそが、今の自分を作り上げた。


『あの時の経験があったからこそ、領地の細部まで把握できている』


『地図の上だけで領地を見ていたら、決して分からなかっただろう』


『ミユキには、特別な才能がある。その才能を、実戦で活かせるようになってほしい』


『過保護に育てて、いざという時に何もできない令嬢にするわけにはいかない』


 エルヴィンは、かつて父から受けた教育方針を、今、娘にも受け継がせようとしていた。辺境の侯爵家に生まれた以上、覚悟と実力が必要なのだ。


「俺も最近、騎士団の訓練で魔物討伐に参加している」


 フリードリヒが、重々しく口を開いた。兄の声には、実戦を経験した者だけが持つ、ある種の沈着さがあった。


「魔物は……本で読むのと、実際に対峙するのでは、まるで違う。恐怖も、緊迫感も、全てが違う」


 フリードリヒの手には、訓練で受けた小さな傷跡が残っていた。彼はそれを見つめながら続けた。


「ミユキも、そろそろ見ておいた方がいい。いや、見ておくべきだ」


「でも……お父様、危険では……ミユキがもし怪我でもしたら……」


 ソフィアの声が震えた。彼女の銀髪が、わずかに揺れる。姉の青紫色の瞳には、妹への心配が溢れていた。


「だから護衛をつける」


 エルヴィンは、きっぱりと言い切った。


「安全を確保した上で、経験を積ませる。これは無謀な賭けではない。計画された教育だ」


 彼は、娘たちを一人ずつ見渡した。ソフィア、フリードリヒ、そしてミユキ。三人それぞれに、異なる才能があり、異なる道がある。だが、全員に共通して必要なのは——現実を知る勇気だ。


「それが、領主としての責任であり……父親としての教育だ」


 最後の言葉には、わずかに感情が滲んでいた。危険に晒したくない。だが、守られているだけでは成長できない。その矛盾に、エルヴィンもまた苦しんでいた。


 ミユキは、父の複雑な表情を見つめながら、深く頷いた。胸の中で、様々な感情が渦巻いていた。


『領地防衛……そうだ、私も領主家の一員として、責任がある』


『お父様は、私を一人前の領主として育てようとしてくれている』


『この期待に、応えなければ』


 そして、プログラマーとしての——いや、転生者としての、もう一つの思いがあった。


『プログラマブル魔法陣が、実戦でどう機能するか確認したい』


『理論だけでは意味がない。実際に動くコードこそが、本当のプログラムだ』


『デバッグは実環境でこそ、真価を発揮する』


 心の奥底で、前世の職業意識が目を覚ましていた。


 ◇


 翌日の午後、ミユキは愛車の魔動バイク、ジルバーヴィントに跨り、ヴァルフェルの町へと向かった。


 夏の日差しが容赦なく照りつける中、銀色の車体が風を切って進む。麦畑の脇を抜け、町の西門——シルバーゲートをくぐる。門番が、ミユキの姿を認めて敬礼した。


 冒険者ギルドの重厚な扉を開けると、いつもの喧騒が耳に飛び込んできた。剣を研ぐ音、仲間同士の笑い声、依頼書をめくる紙の音。冒険者たちが依頼内容を確認し、武器の手入れをし、次の仕事について議論している。


 受付カウンターでは、エリカが冒険者たちの対応に追われていた。彼女の明るい金髪のポニーテールが、忙しく揺れている。


「グスタフさん、少しお時間よろしいでしょうか」


 ミユキは、受付の奥、ギルドマスターの執務スペースに向かって声をかけた。


 グスタフは、書類の山から顔を上げた。黒髪に白髪が混じり、顔には歴戦の傷跡が刻まれている。だが、その灰色の瞳には親しみのある光が宿っていた。


「おう、お嬢ちゃん。珍しいな、こんな時間に」


 彼は、手にしていた羽根ペンを置き、こちらを向いた。


「ご相談したいことがありまして……」


 ミユキは、一歩前に進み出た。グスタフの視線が、彼女の真剣な表情を捉える。


「領地の魔物討伐に、私も参加したいんです」


 言葉を口にした瞬間、周囲の冒険者たちの動きが止まった。何人かが、こちらを振り向く。侯爵家の令嬢が、魔物討伐に参加したい——そんな話は、滅多に聞かない。


 グスタフの表情が、わずかに引き締まった。


「……ほう」


 彼は、腕を組んで、じっくりとミユキを見つめた。まるで、その瞳の奥にある決意の深さを測るように。


「領主家の令嬢として、領地の魔物がどういうものか知っておく必要があると……父からも言われました」


 ミユキは、言葉を続けた。グスタフの視線から目を逸らさずに。


「それに、私の魔法陣が実戦でどう機能するか、実際のデータを取りたいんです。理論だけでは、本当に役立つかどうか分かりませんから」


 プログラマーとしての言葉が、自然に出てきた。実装したコードは、必ず実環境でテストする。それが鉄則だ。魔法陣も同じはずだ。


 グスタフは、しばらく沈黙していた。その間、ギルド内の他の冒険者たちも、固唾を呑んで見守っている。


 やがて、ギルドマスターは深く息を吐いた。


「……なるほどな。領主家の令嬢が、領地の現状を肌で知ろうとする——それは正しい考えだ」


 彼の声には、称賛の響きがあった。


「だが、お嬢ちゃんはまだ十四歳。いくら才能があっても、危険な依頼は選べない。こっちにも責任がある」


 その時、ギルドの奥、暗がりに近いテーブルから、低い声が響いた。


「領地内の北の森、比較的安全なエリアでゴブリンの群れが出ている」


 黒髪のミディアムヘア、深い青色の瞳の男、レオンが椅子から立ち上がった。A級冒険者としての風格が、その立ち姿から滲み出ている。彼の剣には、複雑な魔法陣が刻まれていた——自作の付与魔法陣だ。


 レオンは、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。革のブーツが、木の床を踏む音が静かに響いた。


「その討伐依頼なら、初心者でも十分対処できる。ゴブリンは確かに危険だが、数が少なければ問題ない」


 彼は、ミユキの前で立ち止まった。その視線には、冷静な評価の色があった。


「俺たちが護衛につく。万が一の事態にも対処できる」


「侯爵家の令嬢の護衛任務ね。それなら報酬もいいでしょうし、しっかりお守りするわ」


 明るい声と共に、レオンとパーティを組むマリアもテーブルから立ち上がった。赤みがかった茶髪をポニーテールにまとめ、背中には愛用の弓が背負われている。彼女の緑色の瞳には、親しみやすい笑顔が浮かんでいた。


 ミユキは、二人の姿を見て、少し安心した。レオンの実力は、以前の魔法陣修理の時に見ている。マリアの弓の腕も、ギルドで評判だ。


「侯爵様の許可は出ているのか?」


 グスタフが、現実的な質問を投げかけた。


「これから、正式に許可をいただきに参ります」


 ミユキは、背筋を伸ばして答えた。


「よし。許可が出たら、俺たちも全力でサポートしよう」


 グスタフは、拳でテーブルを軽く叩いた。


「お嬢ちゃん、気に入ったぜ。領主家の令嬢が、こうやって現場を知ろうとするのは、素晴らしいことだ」


 周囲の冒険者たちからも、賛同の声が上がった。


 ミユキは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、無事に依頼を完遂します」


 ◇


 その日の夕方、ミユキは父の書斎を訪ねた。


 重厚なオーク材の扉をノックする。木の質感が、手のひらに伝わってくる。


「入れ」


 父の声が、扉の向こうから聞こえた。


 ミユキは、静かに扉を開けた。書斎の中は、夕日が差し込んでいるにもかかわらず、どこか厳粛な雰囲気に包まれていた。壁一面の書棚には、領地経営に関する古文書や魔法理論書が並んでいる。


 エルヴィンは、大きな執務机の前に座り、領地の財政報告書に目を通していた。羽根ペンを持つ手が、数字を確認しながら動いている。部屋の隅には、いつものようにセバスチャンが控えていた。老執事の存在は、まるで影のように静かで、しかし確かだった。


「お父様、冒険者ギルドに相談してまいりました」


 ミユキは、まっすぐに父を見つめた。心臓が、ゆっくりと、しかし強く打っている。


「領地内の北の森で、比較的安全なゴブリンの群れの討伐依頼があるそうです」


 言葉を選びながら、慎重に説明する。


「A級冒険者のレオン・ブラックソーンさんと、B級冒険者のマリア・フェンリルさんが護衛についてくださるとのことで……」


 エルヴィンは、書類から顔を上げた。濃紺の髪が、夕日に照らされて深い色を放っている。その青紫色の瞳——ミユキと同じ色の瞳が、娘を見つめた。


「……ミユキ、お前は本気だな」


 問いかけは、単純だが、重い。


「はい」


 ミユキは、一瞬の躊躇もなく答えた。


「領主家の令嬢として、領地の魔物を知っておくべきだと思います」


 胸に手を当てて、自分の心に問いかける。本当に覚悟はできているのか。答えは——できている。


「それに、私の魔法陣が実戦でどう機能するか、実際のデータを取りたいんです。理論だけでは不十分です。実環境でのテストが必要なんです」


 プログラマーの言葉が、自然に出てきた。デバッグは、実際に動かしてこそ意味がある。


 エルヴィンは、娘の真剣な表情をじっと見つめた。その瞳の奥に、揺るがない決意を見て取った。


 しばしの沈黙。


 書斎の中には、時計の針が進む音だけが響いていた。カチカチと、規則正しく。


 やがて、エルヴィンは深く息を吐いた。まるで、長い間考え抜いた末の決断のように。


「……わかった。だが、条件がある」


 彼の声は、厳格だった。


「第一に、騎士団から護衛を二名つける。ベテランで、信頼できる者を選ぶ」


「第二に、フリードリヒも同行させる。兄として、お前を守らせる」


「第三に、危険を感じたら即座に撤退すること。無理をしてはならない」


 一つ一つの条件が、父の愛情と責任感の表れだった。


「はい、お父様。お約束します」


 ミユキは、深く頭を下げた。


 エルヴィンは、ゆっくりと立ち上がった。そして、娘の前に歩み寄り、その肩に手を置いた。


 温かく、しかし重い手のひら。


「お前は我が家の大切な娘だ。絶対に無茶はするな」


 声には、父親としての感情が滲んでいた。領主としての顔ではなく、一人の父親としての顔。


「はい」


 ミユキは、父の温かい手のひらを感じながら、深く頷いた。目頭が、わずかに熱くなった。


 セバスチャンが、静かに一歩前に出た。白髪混じりの銀髪、鋭い灰色の瞳。元王国騎士団副団長としての風格が、今もその姿勢に残っている。


「侯爵様、騎士団からの護衛につきましては、私が最適な者を選抜させていただきます」


 声は、穏やかだが確固たる信頼感があった。


「頼む、セバスチャン。娘の安全を最優先に。いかなる犠牲を払ってでも、守り抜いてくれ」


「かしこまりました」


 セバスチャンは、深く頭を下げた。


 そして、内心で思った。


『お嬢様、十四歳でこの決断をなさるとは……』


『あの、転生後の変化から——いや、それ以前から、お嬢様は特別でした』


『だが——私は何も問いません。ただ、影から支えるのみ』


 セバスチャンの脳裏には、護衛の配置がすでに組み上がっていた。


『騎士団から最も信頼できる者を。ヴァルター・シュタインとクラウス・フォーゲル——二人なら万全だ』


『万が一にも、お嬢様に危険が及ばないよう、全てを計算し尽くす』


 老執事の眼差しには、鋭い洞察力が宿っていた。


 ◇


「俺が絶対に守る。安心しろ」


 翌朝の訓練場で、フリードリヒはミユキにそう告げた。


 夏の朝日が、訓練場の砂地を照らしている。フリードリヒは、愛用の剣を手に、いつもより真剣な表情をしていた。その青色の瞳には、妹を守るという強い決意が宿っていた。


「お兄様……」


「お前の魔法は確かに優れている。だが、実戦は違う。理論通りにいかないことだらけだ」


 フリードリヒは、剣を鞘に収めながら続けた。


「俺が前衛を務める。お前は、俺の背中の後ろにいればいい。絶対に、前に出るな」


 その声には、命令というよりも、懇願に近い響きがあった。


「ありがとう、お兄様。私も、お兄様を信じています」


 ミユキは、兄の目をまっすぐに見つめて答えた。


 フリードリヒは、妹の肩に手を置いた。


『ミユキを守れるのは、今のうちかもしれない』


『妹はどんどん強くなっている。いずれ、俺の力など必要なくなるだろう』


『だが——それでも、兄として、今は全力で守りたい』


 複雑な感情が、胸の中で渦巻いていた。


 ◇


 そして、魔物討伐の当日が訪れた。


 ◇ ◇


 早朝、まだ朝露が草葉に残る時刻。森の入り口。


 空は澄み渡り、夏の朝の爽やかな空気が肺を満たす。鳥たちのさえずりが、静かな森に響いている。まるで、これから起こることを知らないかのように。


 集合場所には、すでにレオンとマリアが待機していた。二人とも、実戦用の装備を整えている。レオンの剣には、いつもの複雑な魔法陣が刻まれており、マリアの弓には新しい弦が張られていた。


 そして、ヴェルナー侯爵家の騎士団から、二名の護衛騎士が加わった。


「お嬢様、ヴァルター・シュタインと申します」


 三十歳ほどのベテラン騎士が、背筋を伸ばして敬礼した。がっしりとした体格、日焼けした顔には、数々の戦闘で得た傷跡が刻まれている。だが、その茶色の瞳には、優しさと誠実さが宿っていた。


「クラウス・フォーゲルです」


 二十五歳ほどの若手騎士も、丁寧に頭を下げた。真面目そうな顔立ち、茶色の髪はきちんと整えられている。彼の剣の柄には、丁寧に手入れされた痕跡があった。


「お嬢様の安全は、我々の命に代えてもお守りいたします」


 ヴァルターの言葉には、重みがあった。それは、単なる社交辞令ではなく、騎士としての誓いだった。


「よろしくお願いします」


 ミユキは、二人に丁寧に頭を下げた。


 その時、遠くから足音が聞こえてきた。


「ミユキ、待ってくれ!」


 幼馴染のエドワードが、息を切らして駆けてきた。明るい茶髪が風に揺れ、緑色の瞳には焦りの色が浮かんでいた。


「遅れた! 俺も一緒に行かせてくれ!」


「エドワード……わざわざ来てくれたの?」


「当たり前だろ? 幼馴染だろ? ミユキが危険なことするなら、俺も行く」


 エドワードは、腰に下げた剣の柄を叩いた。


「お前を守るのは、俺の役目だって決めてるんだ」


 ミユキは、幼馴染の真剣な表情を見て、胸が温かくなった。


「ありがとう、エドワード」


 最終的なパーティ構成は七人。ミユキ、フリードリヒ、レオン、マリア、エドワード、ヴァルター、クラウス。


「それでは、作戦を確認する」


 レオンが、全員を見渡しながら説明を始めた。彼の声は、低く、しかし明瞭だった。


「目標は、北の森の奥に出没するゴブリンの群れを討伐することだ」


 彼は、持参した地図を広げた。森の地形が、詳細に描かれている。


「ゴブリンは個体としては弱い魔物だが、群れで行動すると危険度が跳ね上がる。油断は禁物だ」


「前衛は俺とフリードリヒ若様、それにヴァルターとクラウス。四人で壁を作る」


「ミユキとマリアが後衛。魔法と弓で援護射撃を行う」


「エドワードは遊撃。状況に応じて、前衛の支援または後衛の防御に回る」


 全員が、真剣な表情で頷いた。


「わかりました」


 ミユキは、自分の役割を確認した。後衛として、前衛を支援する。魔法の精度と、タイミングが全てだ。


「ミユキ、絶対に俺の後ろにいろ」


 フリードリヒが、もう一度念を押した。その声には、妹を守るという強い意志が込められていた。


「我々も全力でお嬢様をお守りします」


 ヴァルターの言葉に、クラウスも力強く頷いた。


「行くぞ」


 レオンの合図で、一行は森の中へと進んでいった。


 ◇


 森は、静かだった。


 木々の間から差し込む朝日が、葉の隙間を照らし、光と影の有機的な幾何学模様を地面に描いている。森の匂いが鼻をくすぐり、耳には鳥のさえずりが聞こえ、時折、小動物が草むらを駆け抜けていく音がする。風が木の葉を揺らし、さわさわと優しい音を立てている。


 一見、穏やかな森だ。だが——。


 ミユキの心臓は、早鐘を打っていた。手のひらに、じっとりと汗が滲む。


『これが、実戦……』


『本当に、魔物が出てくるんだ』


 前世でゲームを作っていた時、モンスターは単なるデータだった。数値の集合体。グラフィックと、スクリプト。それだけだった。


 だが、これから対峙するのは——本物だ。


「気配がする」


 レオンの低い声が、静寂を破った。


 一同の動きが、一瞬で変わった。レオンの手が剣の柄に伸び、マリアが弓を構える。ヴァルターとクラウスが、即座にミユキを守る位置に移動した。フリードリヒは、妹の前に立ち塞がるように剣を抜いた。


「前方、約五十メートル。複数の魔物」


 レオンの声は、冷静だった。だが、その目には警戒の色が浮かんでいた。


 ミユキは、後方で魔法陣の準備を始めた。両手を前に伸ばし、魔力を集中させる。空中に、淡い光の線が描かれ始めた——プログラマブル魔法陣の基礎構造。


 心臓の鼓動が、耳の中で響いている。


『落ち着け……理論通りにやれば大丈夫』


 前世のプログラマー思考が、自分を落ち着かせる。バグを修正する時のように、冷静に、手順通りに。一つ一つのステップを確認しながら進めば、必ず動く。


『魔法陣の構築、変数の設定、魔力の注入——全て、何度も練習した』


『実戦でも、同じことをすればいい』


 深呼吸。吸って、吐いて。


「来るぞ!」


 レオンの叫びと同時に——。


 森の奥から、醜悪な姿の魔物たちが現れた。


 ゴブリン。


 小柄で、緑色の肌。歪んだ顔には牙がむき出しになり、黄色い目が獲物を求めて光っている。粗末な武器——木の棒や、錆びた短剣——を持ち、威嚇するように叫んでいる。


「ギィィィィ!」


 耳障りな叫び声が、森に響き渡った。


 約十体。群れで襲いかかってくる。


 ミユキの背筋に、冷たいものが走った。


『これが……魔物……』


 データではない。生きている。そして、殺意を持っている。


「行くぞ!」


 レオンの号令で、前衛が動いた。


 レオン、フリードリヒ、ヴァルター、クラウスが、完璧な陣形を組む。四人がミユキを中心に半円形に展開し、魔物の進入を許さない壁を作る。騎士団の二人の動きは、訓練の賜物だった。


 ゴブリンたちが、一斉に襲いかかってくる。粗野な叫び声を上げながら、武器を振り回す。


 剣と剣がぶつかり合う音。金属の甲高い響き。魔物の叫び声。騎士たちの気合の声。全てが混ざり合い、戦場の喧騒が生まれた。


 ミユキは、後方から火魔法陣を展開した。空中に浮かぶ魔法陣——プログラマブル魔法陣の理論を応用した、実戦用の簡易版。赤い光の線が、幾何学的な模様を描いている。


 変数を設定する。威力、範囲、持続時間——全て、頭の中で計算する。


『威力は中程度。範囲は狭く。対象は一体』


『魔力消費を抑えつつ、確実に倒す』


 魔力を注入する。魔法陣が輝きを増し、その中心に火球が生成された。


 小さな太陽のような、赤い球体。


「発射!」


 心の中で号令をかけ、魔力を放出する。


 火球が、魔法陣から飛び出した。空気を切り裂きながら、一直線にゴブリンへ向かう。


 炎の球体が、ゴブリン一体の胸に命中した。


「ギギィィィ!!」


 魔物が悲鳴を上げて、後方に吹き飛んだ。体が地面を転がり、動かなくなる。


『当たった! 一体、撃破……』


 だが、安堵している暇はなかった。


『次が来る!』


 ミユキは、すぐに次の魔法陣を展開する。一度目よりも速く、正確に。手が、まるで自動的に動くかのように、魔法陣を構築していく。


 マリアが、隣で弓を引き絞っていた。


「いっくわよ!」


 弦を離す音。矢が、風を切って飛んでいく。ゴブリンの頭部に命中し、魔物が倒れる。


「ナイスショット!」


 エドワードが叫びながら、横から斬りかかる。彼の剣が、ゴブリンの武器を弾き飛ばした。


 前衛の四人は、完璧な連携で魔物を食い止めていた。レオンの剣が、炎の軌跡を描きながらゴブリンを薙ぎ払う。フリードリヒが、妹を守る位置を一歩も崩さずに戦っている。ヴァルターとクラウスが、左右から挟み込むように攻撃していた。


 激しい戦闘——だが、七人の連携は完璧だった。まるで、何度も一緒に戦ってきたかのような息の合い方。


 ミユキは、三発目の火魔法を放った。また一体のゴブリンが倒れる。


『魔法陣、正常に動作している』


『魔力消費も、計算通り』


『いける……このまま』


 その時。


 一体のゴブリンが、前衛の隙をついて突進してきた。


 小柄な体を活かして、ヴァルターとクラウスの間をすり抜ける。


 黄色い目が、ミユキを捉えた。


「ギィィィ!」


 叫びながら、粗末な短剣を振り上げる。


 ミユキの体が、一瞬、凍りついた。


『——来る!』


「させるか!」


 ヴァルターの怒号が響いた。


 ベテラン騎士が、瞬時に方向転換し、ゴブリンの前に割り込んだ。その動きは、まるで風のように速かった。


 剣の一閃。


 銀色の光が、空気を切り裂いた。


 ゴブリンの体が、横に吹き飛んだ。地面を転がり、動かなくなる。


「お嬢様、ご無事ですか!」


 ヴァルターが、振り返ってミユキを確認する。


「は、はい……ありがとうございます!」


 ミユキは、心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打っているのを感じた。


『騎士団の護衛……本当に、頼りになる』


『一瞬の判断で、私を守ってくれた』


 改めて、侯爵家の騎士団の実力を思い知った。


「集中しろ、ミユキ! まだ終わってない!」


 フリードリヒの声が飛んでくる。


「はい!」


 ミユキは、再び魔法陣の構築に集中した。


 戦闘は、さらに数分続いた。


 だが、七人の連携の前に、ゴブリンの群れは次々と倒れていった。


 やがて——。


「……終わったか」


 レオンが、最後のゴブリンを斬り伏せながら言った。


 森に、再び静寂が戻った。


 鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。まるで、何事もなかったかのように。


 地面には、ゴブリンの死骸が散乱していた。


 魔物十体、討伐完了。此方の被害、なし。


 ◇


 戦闘が終わり、一行は森の空き地で休憩を取った。


 ミユキは、太い木の幹に背を預けて座り込んだ。全身から、力が抜けていくのを感じた。


 手が、震えている。


 止めようとしても、止まらない。


『初めて……魔物を倒した』


『これが、実戦……』


 前世でゲームを作っていた時、モンスターは単なる数値だった。HPが0になれば消える。それだけのことだった。


 だが、今、目の前にあった魔物は——生きていた。呼吸し、叫び、襲いかかってきた。


 そして、今は——死んでいる。


『私の魔法で……倒した』


 胸の中に、複雑な感情が渦巻いていた。達成感と、同時に、言いようのない重さ。


「初めてにしては上出来だ」


 レオンが、こちらに歩いてきた。その顔には、称賛の色があった。


「冷静に魔法を使えてた。パニックにもならず、的確に狙いを定めていた。素質がある」


「お嬢様、見事な魔法でした」


 ヴァルターが、誇らしげに言った。その顔には、汗と土埃が付いていたが、満足そうな笑みが浮かんでいた。


「魔法の精度が高く、前衛も戦いやすかったです。魔力の無駄遣いもなく、計算された攻撃でした」


 クラウスも頷く。若手騎士の顔にも、尊敬の色があった。


「みんなのおかげです。特に、騎士団のお二人には……本当に、守っていただいて……」


 ミユキの声が、わずかに震えた。


「これが我々の務めです」


 ヴァルターは、胸を張った。その目には、騎士としての誇りが宿っていた。


「お嬢様を守ることこそ、我々騎士団の存在意義です」


 フリードリヒが、ミユキの隣に座った。彼も、剣を膝の上に置き、疲労の色を見せていた。


「ミユキ、怪我はないか?」


 心配そうに、妹の体を確認する。腕に傷はないか、足に痛みはないか。


「うん、大丈夫。お兄様が守ってくれたから」


「そうか……」


 フリードリヒは、深く息を吐いた。


 彼の内心では、複雑な感情が渦巻いていた。


『ミユキ……本当に強くなった』


『魔法の精度も、判断力も、以前とは比べ物にならない』


『あの冷静さ……まるで、戦場慣れしているかのようだった』


『だが……それでも、戦場は危険だ』


『妹が傷つくのを見るのは……絶対に耐えられない』


 フリードリヒは、妹の肩に手を置いた。その手は、温かく、そして保護するような優しさがあった。


「お前、よくやった。魔法の使い方、完璧だったぞ。あの状況で、パニックにならなかったのは素晴らしい」


「ありがとう、お兄様」


 ミユキは、兄の温もりを感じながら、少し笑顔を見せた。


「だが……無理はするな。危険を感じたら、すぐに逃げろ。命より大事なものはない」


「わかってる。ちゃんと安全を最優先にするよ」


 フリードリヒは、内心で思った。


『いつまで守れるだろうか』


『ミユキは、もう一人で戦える力を持っている』


『いずれ、俺の保護など必要なくなる日が来るだろう』


『それでも……兄として、今は全力で守りたい』


『この矛盾した気持ち……』


 成長していく妹を誇りに思う一方で、自分の役割が終わることへの寂しさもあった。


 レオンが、フリードリヒに近づいてきた。黒髪に汗が滲み、呼吸も少し荒い。だが、その目には充実感があった。


「フリードリヒ様、貴族の若様も良い動きだった。妹を守りながら戦えるとは、相当な実力だ」


「当然だ。ミユキを守るのは、俺の務めだ」


 フリードリヒは、力強く答えた。


 マリアが、水筒を差し出してくれた。革製の水筒から、冷たい水の匂いがした。


「いい兄妹ね。羨ましいわ」


 彼女の緑色の瞳には、優しい笑みが浮かんでいた。


「そんなこと……」


 ミユキは、少し照れくさそうに笑った。水筒を受け取り、一口飲む。冷たい水が、喉の渇きを癒してくれた。


 エドワードも、嬉しそうに近づいてきた。顔には土埃が付き、額には汗が流れていた。


「ミユキ、お前の火魔法、威力が高いな。魔力制御も完璧だった。助かったぜ」


「エドワードの剣術も見事だったよ。あの遊撃、すごく効果的だった」


 幼馴染の二人は、互いの健闘を称え合った。


 ◇


 休憩を終え、一行はギルドへと戻った。


 午後の日差しが、町の石畳を照らしている。ギルドの扉を開けると、いつもの喧騒が戻ってきた。


「グスタフさん、討伐完了の報告に参りました」


 ミユキが、受付カウンターに向かって声をかけた。


 グスタフは、奥の執務スペースから顔を上げた。その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。


「よくやった、お嬢ちゃん」


 彼は、椅子から立ち上がり、こちらに歩いてきた。


「レオンから連絡を受けた。初陣にしては見事な働きだったそうだな」


「これで、領地の防衛に少しでも貢献できました」


 ミユキは、深く頭を下げた。


「侯爵家の令嬢が、こうやって現場を知ろうとする——素晴らしいことだ。領主家と冒険者ギルドの関係も、さらに深まるだろう」


 グスタフは、豪快に笑った。


 ヴァルターは、カウンターの端で、詳細な報告書をその場で作成し始めた。羽根ペンを握り、几帳面な字で戦闘の経緯を記録していく。魔物の数、戦闘時間、お嬢様の安全確保の状況——全てを丁寧に、正確に。


 クラウスも、隣で補足情報を書き加えていた。二人の騎士は、報告書作成にも熟練していた。


 ミユキは、騎士団の二人が丁寧に報告書を書く様子を見ながら、改めて感じた。


『ヴァルターさんたちは、本当にプロフェッショナルだ』


『護衛の位置取り、タイミング、判断——全てが完璧だった』


『あの瞬間、ゴブリンが突進してきた時、即座に対処してくれた』


『騎士団の訓練の賜物……そして、責任感の強さ』


 ミユキは、ギルドの木製の椅子に座りながら、今日の経験を反芻していた。


『実戦は、理論だけじゃダメだ』


『魔法陣の構築速度、魔力の制御、状況判断——全てが、一瞬の差で命運を分ける』


『でも……私にもできた。ちゃんと、役に立てた』


『もっと強くなれる。もっと精度を上げられる』


 プログラマーとしての思考が、改善点を列挙していく。


『魔法陣の構築時間を短縮する方法』


『変数設定を自動化できないか』


『連続発動時の魔力効率をさらに上げるには』


 だが、それと同時に、もう一つの思いが浮かんだ。


『騎士団の護衛、そしてフリードリヒ兄様がいてくれて、本当に良かった』


『一人では、絶対に無理だった』


『レオンさんやマリアさん、エドワードの協力も』


『誰かと協力すること。それも、実戦で学んだ大切なこと』


『チーム開発と同じだ。一人では作れないものも、チームなら作れる』


 窓の外では、夏の日差しが眩しく輝いていた。町の人々が、平和に暮らしている。その平和を守るために、騎士団がいて、冒険者がいる。


 そして今日、自分もその一員になれた。


 初めての実戦。そして——初めての、本当の成長。


 ミユキの心の中で、何かが変わり始めていた。


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