謎の尼僧(5)
「それは、大変だったわねえ」
マーヤーから話を聞いたゼニーは、目を丸くしてそう言った。
「もしかして……、知ってた?」
マーヤーにそう訊かれ、彼女はぶんぶんと首を振った。
「知りませんよ、そんな、人間を食べるだなんて話。知ってたら、絶対にあんたを行かせたりなんかするもんですか」
たとえ噂だけだとしても。そうゼニーが力強く言う。
「非合法奴隷のことは噂になってましたけど、でも、まさか食用に……人間を食べてるだなんて!」
それだけじゃないよ。そうマーヤーが言う。
「あれは繰り返したら癖に……やみつきなる。やめられなくなるよ」
それほどまでに素晴らしい体験だった……少なくとも食事の最中は。しかし、食事を終え、薬水の効き目がなくなった後に残るのは、命を奪ったことへの罪悪感、それを楽しんでしまった自分への嫌悪感。
だから。
そんな思いを払拭し、そしてまたあの至高の時を味わうために、次の食事を求めるようになる。
「確かにそうねえ。繰り返すうちに、悔やむ気持ちが薄れていって、そして虜になってしまうんでしょうねえ」
それに、とゼニーが続ける。
「あんただったから、後になって嫌な思いをしたんでしょうけど、普通の人間だったら、悔やんだりしなかったのじゃないか、って気もするわ」
「え?」
だって、人間だよ? そういうマーヤーにゼニーが首を振る。
「侯爵がなんて言ったか覚えてない? 人間じゃない、って言ったんでしょ?」
その通りだった。公爵も、あの場にいた貴族達も、食べられている少女を人間と見なしていなかったのだ。であれば、あれは牛や豚を食べているのと同じ、ただの美味な肉料理でしかない。食べたところで何も気に病むことなどあるはずがない。
マーヤーの話の通りなら、それは薬水という名の魔薬の効果なのだ。薬水によって、考え方、感じ方が操作されていたなら、人間を人間と思うこともなく、只々美味な食事に舌鼓を打つだけだったに違いない。
「それで……どうするつもり?」
ゼニーに聞かれ、マーヤーが考え込む。
晩餐の席にあれだけの貴族が集まってきたということは、ジュドワイヤ侯爵の晩餐を楽しむ――彼に賛同する者は決して少数ではないということだ。しかも、事件が起きているのは彼の領地の中だけでだ。であれば、表だって侯爵に何かを働きかけることは難しい。
もし、できることがあるとしたら。
ジュドワイヤ侯爵に決闘を申し込むことはできる。マーヤーを……アートラー伯爵を生命の危険にさらしたことを理由に、その補償を要求して。
しかし、決闘の理由として食人の停止を要求するのは難しい。そもそもそんなことをしていると相手が認めなくては、要求自体が成立しない。マーヤーが食べられそうになったことにしても、それはマーヤーの言葉以外に証拠のないことで、知らぬ存ぜぬで通されればそれまでだ。要求の明確でない決闘は、決闘として成立しない。
身の危険に晒されたことの補償にしても、侯爵が補償に応じれば、それで決闘には至らない。
何を理由に決闘を申し込んでも、相手はそれを受け入れないだろう。そもそも彼はマーヤーがバイロン伯爵を破ったことを知っている。勝ち目のない戦いには応じないだろう。決闘を断られれば、その後の幕引きも面倒だ。黙って引き下がれば、マーヤーの方に非があることを――食人の晩餐など存在しなかったことを認めることになる。かといって、カイアン子爵のように戦争を企てるわけにもいかない。
「今は……何もできそうにない」
そうねえ、とゼニーが同意する。
「その方がいいと思うわ。よっぽど腰を据えてやるのでない限り、ねえ」
どのみち、あんたはここを出ていくつもりなんでしょ。そう言われてマーヤーは頷いた。
今ジュドワイヤ侯爵と事を構えれば、自分がいなくなった後の始末はゼニーが引き継ぐことになる。火種だけまいて、後を任せきりにするわけにはいかない。領主の地位に就きたくない――就くつもりのない以上、下手な――無責任な手出しはするわけに行かない。
「おばさんは?」
「あたし? いえいえ、あの侯爵と関わるつもりなんてありませんよ。自分の仕事で手一杯ですからねえ」
魔法使いギルドに冒険者ギルド。それにシルシェ騎士爵領の政務の補佐。その上今度はアートラー領の管理。とてもそんな余裕なんてないわ。きっぱりとゼニーはそう言った。
逆に、ジュドワイヤ侯爵の側も、マーヤーに対して何かしかけてくるとは思えない。下手をすれば、食人の事実が明るみに出て、不利な立場に立たされることになるのは侯爵の方だ。それを防ごうとしたからこそ、侯爵はマーヤーを帰さずに、食べて――殺そうとしたのだから。
それに、マーヤーを助け出してくれた、あの尼僧のこともある。ジュドワイヤ侯爵達は、彼女に全く手が出せなかったし、彼女を知っているようでもなかった。そんな正体の知れない相手と、あえて事を構えたがるとも思えない。そのことを考えても、侯爵がこれ以上マーヤーに接触してくるとは思えなかった。
「……でも、侯爵は一体どこから奴隷を手に入れてるんだと思う?」
まさか、領主が領民を無理矢理奴隷にしているとは思えない。それは明確な帝国法違反だ。いかに契約を交わすからと言って、領主自らが、食用目的に奴隷狩りに手を染めるとは考えられなかった。
「多分、シュタイナー商会あたりでしょうねえ」
シュタイナー商会。その言葉を聞いてマーヤーも頷いた。実際、これまでに奴隷狩りの現場に出会ったこともあるし、奴隷を運ぶ船も見ている。商会が奴隷を扱っているのは間違いのないことだ。
「機会があれば話をしてみる」
ぽつり、とマーヤーはそう言った。
マーヤーの力では、シュタイナー商会に奴隷取引をやめさせたりはできない。たとえそれが非合法とわかっていても。ゼルフィア公爵の親族という地位があっても、だ。それはわかっている。だが、今回の事案は食用の人間の取り扱い。彼等はそこまで承知してやっているのだろうか。その一線だけは越えていてほしくない。そう期待しての言葉だった。
ただ、マーヤーの知る商会幹部は、ナルヌデュラックにはいない。帝国本土に戻らなければどうしようもないことだ。
「それにしても、何だってジュドワイヤ侯爵はあんたを晩餐に誘ったのかしらねえ」
ああ、それは、とマーヤーが答えた。
おそらくは、と考えていることがある。当てずっぽうではない。侯爵に食べられたとき、彼と感覚を共有したときにかすかに感じたものだ。あのとき、侯爵は目の前のマーヤーのことを考えていて、だから流れて混んできただろう彼の思考だ。思い出すのもおぞましいが、しかし、唯一の手がかりだ。
侯爵は、マーヤーがあの晩餐の虜になると思っていたのだ。一度あの食事を味わえば、もうやめることなどできなくなるだろう、と。そして、晩餐会のメンバーに引き込むつもりだったのだ。侯爵の口ぶりから、あの晩餐は定期的に繰り返し行われているのは間違いないようだったから。
そうなれば、マーヤーは侯爵達と秘密を共有する盟友となる。それが彼等の目的だったのだろう。
マーヤーを味方に付ければ、それは、マーヤーの後ろ盾となっているゼルフィア公爵や皇帝を味方に付けることになる。少なくとも、他の貴族にはそう思わせることができるようになる。それは、誰かが、何かの疑惑を持つことが――例えば晩餐会の秘密に感づくようなことが――あったとしても、うかつには侯爵達に手を出せない、ということだ。
「なるほどねえ。あいにく、それが裏目に出ちゃったわけだけど」
裏目、とゼニーは言うが、だからといって、完全な失敗、というわけでもない。マーヤーに秘密を知られて、それですぐにどうなるというものでもないわけだから。いくらマーヤーでも、彼女の証言だけで、ジュドワイヤ侯爵をどうにかできるわけではない。ゼルフィア公爵に訴えたところで、証拠なしには彼も動きようがないだろうし、本土から離れたナルヌデュラックでは、調査を行うことも容易なるまい。
「せめてあの薬水が手に入れば、だけど、それだって侯爵が作ったことを証明できなくちゃだめだしね……」
シュタイナー商会の証言、食用となる契約を結んだ奴隷の存在の確認、魔法の効果を持った薬水の入手。そういったものを揃えなくてはジュドワイヤ侯爵は罪に問えない。そればかりか、奴隷契約については侯爵領だけの特例的な政策であり他からの干渉は無用、と居直られれば、司法の場での長い争いにもなりかねない。
マーヤーが手を出すには荷の重すぎる案件だ。
「それから、だけど」
そう言ってゼニーに訊いた。
「わたしを助けてくれた人」
「尼僧だ、って言ったわね?」
「そう。……一体誰だろう?」
おばさんじゃないよね? 念のためにそう尋ねたが、答はネガティブだった。魔法使いギルドでも冒険者ギルドでもない、と。
だから。
夢幻騎士団。気になっていたその名を出してみる。まあ! とゼニーが驚いた声を出す。
「夢幻騎士団があんたを助けに来た? そう思ってるの?」
わからない、とマーヤーは答えた。
「訊くこともできなかったし、ね」
あんな緊張感のある人は滅多にいない。その雰囲気に、マーヤーは完全に吞まれていたのだ。それに、そんな話のできる状況でもなかった。言われるままに衣服を身につけたら、すぐに転移させられ、そして彼女はもういなかったのだ。
知り合いの尼僧なんて、フィシスしかいないよ。肩をすくめて、そうマーヤーは言った。
なぜそんなことを口にしたのかはわからない。尼僧、という言葉からフィシスのことを連想したからだろうか。
「フィシスが? ……フィシスがマーヤを助けに行ったなんて、思ってる?」
目を丸くしてフィシスが言う。まさか、と笑いながらマーヤーは答えた。
「背格好が全然違うから。それに、フィシスは自分から何かしちゃいけないんだ、って、いつも言ってるじゃない」
それはそうだけど、とフィシスが口をとがらせる。
「でも、マーヤーを見捨てたりなんかはしないからね?」
わかってるでしょ? 頬を膨らませてフィシスが言う。
「ごめん、ごめん」
そう言ってマーヤーはフィシスの頭をなでた。
「そんなつもりで言ったんじゃないから」
ならいいよ。そう言ったフィシスに笑顔が戻る。一方ゼニーは不思議そうな面持ちだった。
「夢幻騎士団、って前にあんたを殺そうとしたんでしょ? ルメディアは、もうあんたの命は狙わない、って言ってたそうだけど、だからって、あんたを助けに来てくれるものかしら?」
ゼニーの言うとおりだった。
一体、なぜ? なぜ助けてくれた?
マーヤーを殺しかけたことへの贖罪?
マーヤーを何かに利用する意図があってのこと?
あるいは、フロイシェリーナがほのめかしたように夢幻騎士団が使徒の騎士団と同じものだとしたら、もしかしたら、使徒の意図?
いや、それ以前に夢幻騎士団は何をしている――どんな目的の集団なのか?
それにマーヤーが、どう絡んでいる?
……わからない。
情報がなさ過ぎる。
それに、とゼニーは言う。
「あんたの命が危ない、なんて、どうやってわかるものかしらねえ。まさか、ずっとそばにいて見てるわけでもないでしょうに」
確かにそうだ。あの尼僧の出現は、あまりにタイミングが良かった――良すぎた。
逆に、それだけマーヤーのことを注視している、ということなのだろうか。
あの尼僧が、夢幻騎士団の一員であろうがなかろうが、誰かが常にマーヤーを見ている。そういうことなのだろうか。……だとしたら。
「一体、なぜ?」
怖い。そして不愉快だ。
守られている、とも言えるかもしれないが、常に監視され、見張られているということでもある。
一体誰が? そして何のために?
それは解けない謎だった。




