謎の尼僧(4)
「抗議します。このような食事など人として許されることではありません」
「人として?」
不思議そうに侯爵が言う。
「アートラー伯爵、奴隷は主人の所有物なのだ、と知っているだろう? それは帝国の法で定められたことだ」
「たしかにそうです。でも、命まで奪う権利はありません。奴隷の命を保証することは主人の勤めです」
「そういう契約を結ぶことが多いのは認める。だが、どのような契約を結ぶかは、話し合いで決めることだ。違うかね?」
「契約?」
「そうだ。奴隷となるには、主人と契約を結ぶ必要がある。契約内容によって、奴隷の境遇が決まるのだ」
それに、と侯爵が言う。
「わしは、奴隷を苦しめるつもりはない。アートラー伯爵、貴女も感じたはずだ。死に臨んだあの少女の、至福の思いを。彼女は幸福の中で最期を迎えたのだ。奴隷の身で、これ以上に素晴らしい人生が得られると思うかね」
少女が最初に抱いていたわずかな恐怖は、歓喜の思いに消され、最期の時に何の苦しみも感じていなかった。それは事実だ。
「そして、貴女も感じたはずだ。命を捧げられることの喜びを」
それも否定のできないことだ。なぜかはわからないが、しかし、感じてしまったのだ。命をかけた奉仕を受けることの喜びを。
「誰か苦しんだ者があるだろうか? つらい思いをした者がいるのだろうか?」
「それは……」
いる。マーヤーはきっぱりとそう言った。
「わたしは、後悔しています。あの娘の命を貪ったことを。そして、それを喜びと感じてしまったことを」
歓喜が去った後、残ったのは悔いと、恐れ、そして自分に対する嫌悪だ。
「最初はそういうこともある。だが、慣れればそんなことはなくなる」
そうなのか。
こみ上げる嫌悪の中でマーヤーは知った。
侯爵も、そして同席する貴族達も、命を奪い、その喜びを感じることに慣れて、それが当たり前のことになっている。だから、誰も嫌悪感も、後悔も感じないのだ。……これは麻薬だ。虜になれば、もう逃れることのできないものだ。
「慣れる? そんなつもりもありませんし、次の機会もないでしょう」
ああ、と侯爵が言って微笑む。
「確かにそうだろう。貴女に次の機会は……食べる機会はない。なぜなら」
そう言って、彼はマーヤーの目を見つめた。
「この次、貴女は、捧げる側になるのだから」
「なんですって?」
それはどういう意味……、そう言いかけたとき、強い眠気をマーヤーは感じていた。めまいに似た衝撃に見舞われ、そして意識が遠のいていく。
「さて、諸君、今日の二皿目だ」
薄れる意識の中で、そんなジュドワイヤ侯爵の言葉をマーヤーは聞いていた。
「我々の考えを理解できる人物であれば、このようなことにならずに済んだのだが……極めて遺憾であると言わねばならん。このまま帰せば我々に仇なす者となろうからな」
そう言って、侯爵が椅子からマーヤーの身体を抱き上げる。
「苦しみの中での死を与えるのは本意ではない。至福の内の死をこそ与えよう」
侯爵の言葉ははっきりと聞こえている。自分が感じているのは眠気ではない、とマーヤーは気付いていた。眠りに落ちた、と思ったのは錯覚で、実際には身体の自由がなくなっているだけなのだ、と。
「晩餐の前に飲んだ薬水。あれが、至福を与え、そしてそれを共有させてくれる。効き目はまだ消えておらんよ」
テーブルの上から皿が取りのけられ、侯爵は、その後にマーヤーの身体を横たえた。そして夫人に目配せをする。
「畏まりました」
そう言ってテーブルの前に立った夫人が、マーヤーの肩に手を掛ける。
「何をするつもり……」
マーヤーはそう言ったつもりだが、声は出てこない。それどころか、口を開くこともできない。
そんなマーヤーを愛おしそうに見つめながら、夫人はマーヤーの服を脱がせに掛かった。
されるがままにドレスを脱がされ、コルセットやペチコートを取り去られる。
最後のアクセサリーが外されると、マーヤーは何一つ身につけていない、生まれたままの姿でテーブルの上に寝かされていた。
両手は左右に身体から離すように伸ばされ、脚が少しだけ開かれて、全身がくまなく貴族達の目にさらされる。
「美しい」
「これならば、味も……」
「そうだ、あの時の感覚もきっと……」
ささやくような声が聞こえる。貴族達の欲望が漏れ出した声だ。そんな者達に、美しい、と言われて、喜びを感じる。嫌悪でなく、おぞましさでもなく。
それを不思議とも思わず、違和感も感じない。
これから何をされるのか、はわかっている。あの少女と同じことをされるのだ。
恐怖はない。むしろ、この先起きることへの期待と、食べられることへの喜びが心の奥底からわいてくる。魔法による幻覚ではなく、食前に飲んだ薬水の効果だ。きっと、あの少女も同じものを飲まされていたに違いない、と思う。心の中に広がる歓喜が、思考を鈍らせ、感情の渦にマーヤーの心を引き込んで、理性が薄らいでいく。
魔法を使えば切り抜けられる。そうわかっていても、逃げよう、という意思が生じない。すべてを捧げる喜び、それが自らの願いとなり、早く食事が始まってほしいとさえ思う。
「では、わしから」
そう言って侯爵がカトラリーを手にしてマーヤーに近づいた。
裸の胸にそっとフォークが押し当てられ、その先が触れたところに、小さな血の粒がこぼれ出す。一番柔らかいところに――乳首のすぐ脇、膨らんだ胸の一番上のところにナイフが突き立てられる。
痛みはない。
恐れもない。
これから起こることへの期待、そして喜び。
命を奪われることへの恐れではなく、すべてを捧げる――捧げることのできる機会を得たことへの感謝。
ナイフがマーヤーの身体を切り裂いて胸の中に入ってくる。痛みはなくとも、その感覚だけはあった。そして身体の中でナイフがゆっくりと進み、何度も向きを変えてマーヤーの肉体を切り取る。角砂糖よりも少しだけ大きな肉塊が採られ、身体から離れたとき、至高の喜びをマーヤーは感じた。
おかしい。頭のどこかでそんな声がする。しかし、それはほんの一瞬のことだった。
侯爵が、肉片を――マーヤーの身体を咀嚼している。その味わい、歯触りが伝わってくる。最高の美味。生きた身体から取り出された命の一部。それを味わう感覚。薬水のおかげでそれが共有できている。捧げる者も受け取る者も、共に至高の時を共有する。
死ぬんだ。
このまま、みんなに食べられて。
そんな思いも怖れにはつながらない。
命のすべてを捧げ尽くし、最後の時の訪れるのを乞い願う。
あり得ないはずの、そんな思いをマーヤーは感じ、そしておそらくは侯爵も受け止めている。
そんな快楽、至福の中に、意識を手放そうとしたときだった。
「そこまでです」
部屋の中に冷たい声が響いたのだ。
部屋の中にいた誰もがぎょっとして声のした方を振り返った。身体を動かせないまま、マーヤーもその声を聞き、急激に感情が冷めていくのを感じていた。
相変わらず痛みはない。しかし、今置かれている状態がはっきりと把握できる。
これは、おかしい。そう明瞭に意識できる。
今までに起きたこと、そして今されていること。それをはっきりと自覚し、思考できる。
「誰だ!」
激怒して侯爵が叫ぶのが聞こえる。
「起きなさい、マーヤー」
声が呼びかけ、それを聞いた途端、マーヤーの身体に自由が戻ってくる。身体を起こして声のした方を見れば、そこには法衣を着た女性が立っていた。おそらくは聖職者――尼僧だろう。全身から、かすかに金色の光を放っているようにも見え、その手には、おそらく神の力を象徴するものであろうメダルがある。それを高々と掲げ、テーブルの周りの貴族達を睨み据えている。
彼女はゆっくりとテーブルの方へと歩を進めた。それを見て、侯爵が、夫人が、そして貴族達が立ち上がり、後ずさりする。まるで見えない何かに押しのけられるように、彼等がテーブルから遠ざかり、部屋の隅へと追いやられていく。
尼僧はまっすぐにテーブルの方へ近づいて来、マーヤーの身体に手を触れた。
「血は、それほど流れていませんね。太い血管は傷ついていないようです」
そして、先ほど侯爵にナイフを刺された傷口に右手を触れた。
暖かい。
そうマーヤーが思ったとき、かすかな光が放たれ、次の瞬間、マーヤーの胸から傷が消えた。
「服を着てください」
そう言われ、あらためて自分が何も身につけていないことに気がつく。
テーブルから降り、言われたままに身なりを整え、アクセサリーを身につけると、尼僧はマーヤーの頬に右手を触れた。
「不注意でしたよ」
幼子を叱るような言葉。責める意図は感じられなくて、むしろ悲しんでいるようでもある。それに彼女から感じる、身近で、どこか覚えのある雰囲気。これは、もしかして……。そう思ったとき、マーヤーは別の場所に移動していた。
「サラリューザ様?!」
自分を呼ぶ声に振り返れば、びっくりして叫んだのはサンデューラだった。彼女のそばにはベルファデスやリックボランもいる。護衛の騎士達もだ。周りを見れば、ここがマーヤーの護衛達に割り当てられた客間であることがわかる。
「どうしたの、マーヤー?」
部屋の隅から駆け寄ってきたフィシスを見て、マーヤーは安堵の息を吐いた。助かった――あの人が助けてくれたのだ、と。そう思って辺りを見渡すが、既にその人の姿はない。
身体から力が抜けたようになり、弱々しい声がマーヤーの口から漏れる。
「もう少しで命を落とすところだったよ」
マーヤーの言葉に、えっ! と護衛達が叫ぶ。
「それは……どういうことでしょう?」
ベルファデスの質問に答える代わりに、マーヤーはサンデューラに言う。言葉が出るのと共に、力が戻っているのを感じる。
「すぐにここから離れなくちゃ。今すぐ、魔法で、全員をニースルミア城へ転移させて!」
「え、今すぐに、ですか」
乗ってきた馬車や騎士達の馬。そういったものはどうします? そう聞かれ、マーヤーは首を振った。
「それどころじゃないよ、急いで!」
自分が逃げたことを知ったジュドワイヤ侯爵が、フィシスや他の部下達を放っておくはずがない。すぐにここにも侯爵の手の者が来るに違いない。その前にここを離れなくてはならない。
「わ、わかりました」
マーヤーの剣幕に押され、サンデューラは全員に彼女のそばに集まるように言った。そして、彼女の魔法で、マーヤー達はニースルミア城に帰還したのだった。
「一体、何があったの?」
城のサロンに移動した後、そう聞いたのはフィシスだった。他の者達も、マーヤーの答を待っている。
「わたしは……」
そう言いかけて、晩餐の記憶がよみがえってくる。薬水の効果が消えた今、あれは耐えられない思い出だ。吐き気がこみ上げてくるのをこらえ、言葉を絞り出す。
「人間を食べた」
「え!」
フィシスの声が耳に突き刺さる。それを抑えこもうとするように言葉に力を込める。
「生きたままの、小さな女の子を、みんなで食べたの!」
なんですと。そんなことが……? 口々に声が上がる。
「なぜ?」
冷静なフィシスの声が、権威のあるもののようにベルファデス達を黙らせ、そしてマーヤーに次の言葉を言う力を与える。
「ジュドワイヤ侯爵は、奴隷を食用にしているの。食用に人間を飼っているの」
「食用!」
信じられない。誰もが口々に言う。
そしてマーヤーは自分の体験したことを、すべて話した。
少女を食べ……食べるだけでなく、一噛みごとに至福を感じたこと、そして食べられる側になった者の感じる最大級の幸福についても、心を励ましながら、包まず語った。
「ところで……」
話を聞いて誰もが押し黙ったとき、そう言ったのはリックボランだった。
「今、このようなことを口にするのは不躾かも知れませんが、サラリューザ様を救い出したというその尼僧、それは何者だったのでしょうか?」
そう言われ、マーヤーも首をかしげる。あれは一体誰だったのだろう、と。
法衣をまとい、神の力の象徴である聖印を持っていたのだから、聖職者には間違いない。だが、あのような尼僧に見覚えはない。しかし、あのとき感じた、どこか覚えのある雰囲気。懐かしいような、安堵するような優しい感覚。
夢幻騎士団。
不意にその名が心の中に浮かび上がる。どうしてそう思ったのか、はわからない。騎士団は、マーヤーの命を奪おうとしたこともある集団なのだ。それに彼女が騎士団の一員という確証があるわけでもない。しかし、なぜかその思いを切り捨てることはできなかった。




