乱暴者1
「九時には、まだ少しありますね」
「支度に時間がかかるかと思ってな」
ニコルは既にコートを着ていた。肩には昨日の革鞄が掛かっている。アルベルトが開いた扉の向こうを見ると、寝台の上も片付いていた。
それならそれで都合がいい。住所変更を済ませて必要なものを買い、聞き込みへ向かう。長引かなければ、午後には局へ戻れるだろう。
「何か足りないものはあるか」
「着替えが足りないので、買い足せれば。下着など特に」
恥じらう様子もないニコルの言葉には反応せず、アルベルトは部屋を出た。ニコルが扉に鍵を掛けていると、隣の執務室から声がした。
「出るならこれも持ってって。検査結果を添えておいたから」
イングリッド・リンドベリが、住所変更の書類を持ってきた。手入れの行き届いたブロンドの髪は肩から先で柔らかく曲がり、すらりとした体に着た上着もよく似合っている。襟元の結び方が、前に見た時と違った。また流行が変わったのだろう。
彼女はアルベルトが入局した時の教育係で、今でも業務上のやりとりが多い。面接前からニコルが採用見込みであることを教えてくれたのも彼女だ。
「ニコルです。お世話になります」
「私はイングリッド。窓口で検査の話が出たら、添付の方を見せてね」
「助かる。頼んでいた酒場の確認は?」とアルベルト
「被害者が来たことまでは、店に確かめてもらった。誰と会ったかはまだ」
「それならそこは今日、俺が聞く」
「買い物の方は帰ったら使った額を出してね」
アルベルトはニコルへ向き直った。
「食事と部屋は当面こちらで用意する。今日買うものも、最低限のものなら局で払える。勤務の条件は、別に決める」
「聖痕者としての担当も、アルベルトさんと伺いましたが」
「ああ。そこは勤務とは別だ。現実的にはここで働く限りは、柔軟に対応できる」
ニコルは頷き、アルベルトの手元の書面を見た。
「最初の検査は教会で行いましたが、今はこちらの管理が正式な書類なんですよね」
「まあそうなるな」
「ではこれをちょっと書き換えてもらえれば」
「……出来るわけないだろう」
「ですよね。言ってみただけです。聖痕者として雇ってもらうわけですし」
イングリッドは物珍しそうにニコルを見てから「まあそういうことで」と言い残して、執務室へ戻っていった。
局を出ると、荷馬車の車輪が石畳を鳴らしていた。灰色の石を積んだ建物が通りの両側に並び、二階の窓の下からは鉄の看板が突き出している。
横道の先には河岸が見えた。幅の広い川に帆柱が重なり、岸壁には腹の平たい荷船が着いている。濡れた綱と、船に塗る油の匂いがした。
痕跡を残さず逃げるなら川だと、オリヴァーに教わった。門を調べている間に、舟は街を離れてしまう。アルベルトは木箱を避けて道の端へ寄り、ニコルがついてきているのを確認した。
船問屋の軒先には新聞が貼られ、隣国との通商交渉がまた中断したと大きく出ていた。彼女は横道の先を見ていた。荷揚げ機の鉄枠に赤茶色の錆が浮き、鎖がゆっくり巻き上げられている。
「あの機械は魔力で動くのですか」
「そうだ。魔力を足せば、上げ下ろしするのは機械に任せられる。川沿いでなければ見たことはないかもしれないな」
「小さな農村でしたし、機械があまりありませんでした。牧場の中で多少あったかもしれませんが」
ニコルは鎖の動きを見てから、アルベルトへ顔を戻した。あちこち見ている割に、こちらから離れることはない。
「あの灯は魔術でつくのですか」
「いや、オイルだ。まあ全部点くわけじゃないけどな」
「故障しやすい?」
「いやケチってるだけだ」
ニコルは街灯をもう一度見た。疑問は口にするが、アルベルトの答えに嚙みつくことも無い。自分なりに考えをまとめているのだろうか。表情が乏しいためいまいち考えが読めない。
「すみません、色々聞いて。なにぶん世間知らずなもので。これまで聞ける相手もいなかったものですから」
「忙しくなければ、まあ構わん」
もしかして楽しんでいるのだろうか。これもまた、表情からはわからない。
窓口へ向かう道は、聖堂の脇を通った。尖ったアーチの奥に重い扉が開き、柱の彫刻は下の方ほど角が丸くなっている。中から低い祈りの声が聞こえた。脇の戸口では修道服の女が、列に並ぶ人たちへパンの欠片を渡していた。アルベルトは籠を抱えた女を先に通し、ニコルと歩いた。
住所変更を受け付ける窓口には何人か先客がいた。アルベルトは局から持ってきた書類を確認しながら順番を待った。ニコルも隣で大人しく座っている。監察局とは管轄が違うので、別の登録が必要なのである。
窓口の職員は、修道院の住所が記された身分証と局の書面を見比べ、魔術能力の欄で手を止めた。アルベルトが添付の検査結果を示すと、確認を終えて住所の記入欄へ進んだ。
ニコルが署名すると、身分証が更新された。それをニコルへ渡し、窓口を離れる。
「まあこれでお前も正式にこの街の住人ということだ」
ニコルはゆっくりと頷くと、窓口を振り返った。
***
その後、衣類の店に入った。ニコルは選ぶのにほとんど時間を使わなかったが、寸法を合わせるのにはそれなりに掛かった。店を出る頃には昼を過ぎていた。
「局の方では、当面の調査協力者として届けてある。昨日も言ったが、雇用の条件は別に決める。それ、持てるか」
「はい」
ニコルは布包みを両手で持ち直した。大きくはないが、鞄には入らないらしい。アルベルトは近くの店で買った、焼いた肉を挟んだパンを口に放り込み、懐から折り畳んだ事件のメモを出した。それからニコルの荷物を引き受けて片手で担ぎ、もう一つをニコルに渡して、食事を済ませるよう促した。
「私が食べても?」
「手早く済ませてもらえると助かる」
「この緑のものは」
「酢漬けだが」
「やはり」
「何だ、苦手なのか」
「いえ、慣れていないだけです」
そう言って噛り付いたニコルが、身震いした。苦手そうである。アルベルトはそれ以上は続けず、もう一度メモを確認する。ここからなら遠くない。一度局へ戻って荷物を置く方がよほど手間だった。
「もう一か所寄る。現場に出るぞ」




