眠りと信任
刺客騒ぎから数日、咸陽宮の空気は重かった。
李仲の失脚は廷臣たちに衝撃を与え、「愚楽を敵に回すのは危うい」と皆が悟った。しかし同時に「なぜあの馬鹿がここまで生き延びているのか」と誰もが腑に落ちなかった。
そんなある日、始皇帝は大規模な御前会議を開いた。
天下の道路建設や兵の配置、巡幸の計画まで議題は山積みで、廷臣たちは列を成して難解な報告を繰り返した。
玉座の横に座す愚楽は、最初こそ目を輝かせていたが、すぐにまぶたが重くなってきた。
「えぇっと……南郡の……えぇ……粟……兵五千……」
延々と数字が続く声は子守歌のようで、愚楽はこくりこくりと舟を漕ぎ始めた。
ついに、ぐう、と大きないびきをかき、床に寝転んでしまった。
広間に冷気が走った。
「ば、馬鹿な! 御前で眠るとは!」
「これは死罪に……!」
廷臣たちは騒然とし、兵士まで慌てて動こうとした。
だが始皇帝は片手を上げて制した。鋭い眼差しが愚楽を見下ろし、しばし沈黙が流れる。誰もが「ついに首が飛ぶ」と思った。
しかし次の瞬間、帝はふっと笑った。
「よい。愚楽は眠るがよい」
廷臣たちは耳を疑った。
「陛下、なぜ……?」
始皇帝はゆるりと杯を掲げ、笑みを浮かべた。
「余の前で眠れる者など、他に誰がおる。誰もが余を恐れ、言葉を飾り、虚飾で余を飽かす。だが愚楽には余計な計算がない。眠る時は眠る。笑う時は笑う。それが、もっとも信じられる証よ」
広間はざわめき、廷臣たちは顔を伏せた。
一方で愚楽は寝言をもらした。
「……肉……もう一切れ……」
その瞬間、始皇帝は腹を抱えて笑い出した。
「はははは! 肉か! 良いぞ、起きたら与えてやれ!」
廷臣たちは青ざめたままだったが、誰も逆らえなかった。帝が笑っている以上、それは勅命に等しい。
やがて愚楽は目を覚まし、辺りを見回した。
「あれ? 俺、寝てました? ……夢の中で肉を食ってたんだけど……」
帝は杯を差し出し、にやりと笑った。
「夢ではなく現だ。肉を持て。愚楽、余の傍にあり続けよ。そなたは余の眠りと笑いを守る者だ」
その言葉に廷臣たちは絶句した。愚楽は従者にとどまらず、もはや始皇帝の信任厚き「傍近くの者」となったのである。
夜、愚楽は厨房で肉を頬張りながら呟いた。
「なんで俺が生き延びてんのか分かんねぇけど……飯がうまいから、まあいいか」
その呑気な声は、広大な宮廷に妙な温かさを残した。
こうして愚楽は命を狙われるどころか、ますます始皇帝に重用され、その立場を揺るぎないものにしていったのであった。




