笑いが招く刃
愚楽の名は、巡幸のたびに広まり、民の間で知らぬ者はいないほどになった。
「鼻に草の愚楽だ!」
「粟三千石、大安売り!」
子どもたちが真似をすれば、大人たちも笑い、兵士ですら肩を震わせていた。
だが、宮廷に戻ると空気は一変した。廷臣たちの視線は冷たく、ひそひそと囁き合う声が広間に漂った。
「陛下が愚楽ばかりに目をかけるとは……」
「民にまで名が広まるなど、従者の分際を超えている」
「宮廷の威儀が崩れる」
その中心にいたのは李仲だった。以前、愚楽に笑いで面目を潰されたことを忘れていなかったのである。
「このまま放置すれば、陛下の耳目はあの馬鹿に奪われる……そうなる前に、排除せねば」
李仲は密かに刺客を手配した。宮廷の暗がりで働く者たちに命じ、夜の咸陽宮で愚楽を葬ろうと企んだのだ。
その夜。
愚楽は厨房の裏で、こっそり余り物の肉をつまんでいた。
「へへっ、やっぱり夜食は別腹だな……」
そのとき、背後に気配が迫った。
「……誰だ?」
振り向く間もなく、刃がきらりと光った。
「ひぃぃっ!」
愚楽は慌てて鍋をひっくり返し、煮汁が床に飛び散る。
刺客は足を滑らせ、盛大に転倒した。
「ぐわっ!」
愚楽は腰を抜かしながら、転んだ刺客の頭に鍋を落としてしまった。
「いってぇ……!」
あまりの間抜けな光景に、厨房の下働きたちが集まり、悲鳴と笑い声が入り混じった。
そこへ兵士たちが駆け込んできた。
「何事だ!」
「さ、刺客だ! 俺は何もしてねぇ! 鍋が勝手に……!」
愚楽の必死の叫びに、兵士たちは目を白黒させた。
翌朝、始皇帝の前に刺客は引きずり出された。李仲の差し金であることはすぐに露見した。
「李仲……余の宮廷で刃を使うか」
帝の声は氷のように冷たかった。李仲は震えながら言い訳を並べたが、誰も耳を貸さなかった。
彼は官職を剥奪され、咸陽から追放された。
一方の愚楽はといえば、玉座の前で頭を下げながらも、けろりとした顔で言った。
「いやぁ、俺はただ夜食を探してただけで……鍋の方が強くて助かりました!」
広間にどっと笑いが起こった。廷臣たちは呆れ果てたが、始皇帝だけは豪快に笑い、杯を掲げた。
「これぞ愚楽よ! 余の従者にふさわしい! 笑いは刃より強し、鍋より重し!」
こうして愚楽は命を狙われながらも、またしても笑いによって窮地を脱した。
だがその背後には、宮廷の暗い影が残り続けていた。愚楽の存在が大きくなるほど、彼を疎む者たちの刃も鋭さを増していくのだった。




