幕間 世界を食べる夜
東京湾を見下ろすガラス張りのタワーホール。
シャンデリアが星のように輝き、スピーカーから軽やかなジャズが流れていた。
世界各国の国旗が天井を飾り、会場の中央には巨大なビュッフェテーブル。
香りだけで、世界一周できそうだった。
愚楽は、胸元に「小蓮商会・特別招待客」と刻まれた社員証をぶら下げて立っていた。
何百年も前に出会った“小蓮”の名が、まさかこんな形で生き続けているとは思いもしなかった。
制服姿のスタッフたちは笑顔で彼を迎えた。
「ようこそ、愚楽様。CEOの蓮香がお待ちしております」
会場の奥で、ひときわ輝くドレス姿の女性がこちらを振り向いた。
黒髪をゆるくまとめ、青いドレスをまとったその人――蓮香は、微笑んでグラスを掲げた。
「あなたが“伝説の特別顧問”ね。
小蓮商会には、代々“愚楽に助けられた祖先”の伝承が残っています。
まさか本当に会えるとは思わなかったわ」
愚楽は照れたように頭をかいた。
「俺は飯を食ってただけだが……飯は続くもんだな」
蓮香は笑った。
「ええ、世界が変わっても、人は食べて笑う。だから商売も続くのよ」
テーブルの上には、地球の縮図のような料理が並んでいた。
黄金色のパエリアの上には海老と貝が踊り、隣には香草が香るフォー、ナシゴレンの皿からは東南アジアの熱気が立ちのぼる。
日本料理のコーナーには、握り寿司と天ぷら、そして蒸気を立てる味噌汁。
インドのバターチキンカレーが香辛料の甘い匂いを放ち、
イタリアのラザニアがトロリとチーズをこぼしている。
そして中央の皿には、ダチョウの卵のスコッチエッグが鎮座していた。
「おおっ……これ、俺が昔、リスボンで――」
「ええ、伝説としてレシピが残っていたの。『愚楽の卵』って呼ばれてるのよ」
「馬鹿な卵だな」
「でも、みんな笑顔になるでしょう?」
二人は顔を見合わせて笑った。
愚楽は皿を取り、少しずつ世界を味わった。
パエリアの米は太陽の味、フォーは風の味、寿司は海の味――そしてスコッチエッグは、記憶の味だった。
食べながら、何百年分の人間の顔が脳裏を過ぎる。
笑っていた者、怒っていた者、泣いていた者。
けれど、どんな時代も、食べる瞬間だけは、みんな幸せだった。
「愚楽様」
蓮香がワインを注ぎながら言った。
「あなたは、ずっと生きてきて、何が一番変わったと思います?」
愚楽はグラスを持ち上げて考えた。
「飯の作り方も、稼ぎ方も変わった。けど、腹の減り方だけは変わらねぇな」
蓮香は目を細めて笑った。
「それ、いい言葉ね。小蓮商会の社訓にしてもいいかも」
「やめとけ、商売にならねぇ」
会場の片隅で、シェフたちが新しい料理を並べている。
トムヤムクンの酸っぱ辛い香りが鼻をくすぐり、タンドリーチキンの赤い焼き色が目を奪う。
蓮香がフォークを持ち上げた。
「あなたは不老不死でも、ちゃんと食べるんですね」
「食わなきゃ笑えねぇ」
「じゃあ、あなたは世界でいちばん健康な馬鹿ね」
愚楽は噴き出した。
「そうかもしれねぇ!」
会場のスクリーンには、創業から現在までの小蓮商会の映像が流れた。
シルクロードの商隊、帆船、蒸気船、飛行機、そして衛星ネットワーク。
すべての時代に「食と人をつなぐ商い」が映っていた。
愚楽は感慨深げに呟いた。
「食って、笑って、分け合う。……それだけで、世界は十分だな」
窓の外に、東京湾の夜景が広がっていた。
金色の光が水面に揺れ、空にはドローンが花火を描いている。
蓮香がグラスを掲げた。
「今夜は、世界のすべてに乾杯を」
愚楽も同じようにグラスを掲げた。
「……そして、馬鹿にも乾杯を」
二人の笑い声が、音楽と夜景に溶けていった。
そのとき、どこか遠くでチャップリンの古い映画のテーマが流れ出した。
愚楽は静かに目を閉じた。
世界は広く、時代は変わっても、笑いと飯の味だけは、永遠だった。




