笑いの遺言
1977年の冬、世界は一枚の新聞記事に静まり返った。
《チャールズ・チャップリン逝去――スイスの自宅で》
愚楽は駅の売店で、その見出しを見つめていた。
紙面の片隅に載った白黒の写真。
老いた笑顔のまま、帽子をかぶり、手を振っている。
その姿が、遠い昔のままだった。
レマン湖へ向かう列車の窓から、雪が流れていく。
白い大地の向こうに、かつて二人がチーズフォンデュを分け合った屋敷の灯が見えた気がした。
だが、もうそこに彼はいない。
湖畔に立つと、冷たい風が頬を打った。
雪が舞い、空と湖の境がわからない。
愚楽は帽子を脱いで、静かに呟いた。
「……あいつ、やっと休めたんだな」
世界は笑いを失っていた。
戦争の記憶も、赤狩りの恐怖も過ぎたはずなのに、
人々の顔には相変わらず不安の影があった。
ニュースは経済の数字を数え、政治家はまた何かを誇っていた。
笑いは、どこへ行ったのか。
愚楽は雪を踏みしめながら、懐からパンを取り出した。
かじると、冷たくて硬かった。
それでも彼は笑った。
「冷たくても、噛めば味がある。……人間も同じだな」
少し先の丘に、黒い列が見えた。
チャップリンの葬列だった。
世界中の国旗が半旗に下げられ、花束が雪に埋もれている。
遠くから鐘の音が響いた。
愚楽は群衆に混じることなく、丘の影からその光景を見つめていた。
子どもたちが泣き、大人たちが帽子を脱いでいた。
愚楽はただ手を合わせ、静かに呟いた。
「笑うために生きて、泣かせるために死んだ……か。いい生き方だ」
風が吹いた。雪が舞い、空から一枚の新聞紙が落ちてきた。
愚楽が拾い上げると、そこにはこう書かれていた。
“He made the world laugh.”
(彼は世界を笑わせた)
愚楽はそれをじっと見つめ、ゆっくりと折り畳んだ。
「笑わせる奴は、世界の神様みたいなもんだな。
けど神様がいなくなっても、笑いは残る」
足元に積もった雪を払いながら、愚楽は微笑んだ。
「チャップリン。お前がいなくても、世界はまだ笑うぞ。
なぜなら馬鹿は死なねぇからな」
その言葉に、自分でも少し照れくさくなって笑った。
白い息が空へと消える。
遠くで鐘の音がまた鳴った。
雪の中で、人々のすすり泣きが風に溶けていく。
愚楽はポケットからもう一片のパンを取り出した。
それを小鳥に投げた。
鳥は雪の中をくぐり抜け、パン屑をついばんだ。
「ほら、分け合う笑いだ。寒くても、腹が減っても、これがあれば平和だろ」
湖面に夕日が沈みかけていた。
水面に映る光が、まるで古い映画のラストシーンのように揺れている。
愚楽はその光に向かって、小さく帽子を振った。
「なあ、チャップリン――
笑いは死ななかったぞ。
まだ、どこかで続いてる」
そう言って、愚楽は背を向けた。
雪道を歩き出す足跡が、やがて白に消えていく。
風の音が、まるでフィルムの回転音のように響いていた。
レマン湖のほとりで、永遠の馬鹿はひとり、静かに笑った。
チャップリン編完結です。




