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永遠の馬鹿  作者: 火浦マリ
チャップリン編
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湖畔の再会

 スイスの空は、春の雪を溶かしきれずに白く霞んでいた。


 レマン湖の水面が光を反射し、ゆっくりと波紋を広げている。


 そのほとりに、一軒の屋敷があった。


 チャールズ・チャップリン――かつて世界を笑わせた男が、いまはそこに暮らしている。




 玄関前で愚楽は帽子を脱いだ。


 屋敷の前庭には、子どもたちの笑い声がかすかに響いていた。


 白髪になった執事が戸を開け、愚楽を中へ通した。




 暖炉の前、椅子に腰かけた老人がゆっくりと振り向く。


 チャップリンだった。


 その瞳は昔と同じように光を宿していたが、眼の奥には長い時の影があった。




「……君は、まるで歳を取らないな」


 チャップリンが微笑む。


 愚楽は照れくさそうに頭を掻いた。


「俺は馬鹿だからさ。賢くならないぶん、老けもしないんだよ」




 老人は小さく笑い、杖を膝に置いた。


「馬鹿は永遠か。羨ましいな。私はもう、笑いを作るより、笑いを思い出すほうが多くなった」


「思い出も、笑いの一部だろ?」


「そうだね。けれど思い出の中では、観客はもういない」




 沈黙が降りた。


 暖炉の薪がパチパチと音を立てた。


 執事がワゴンを押してきて、テーブルに鍋を置いた。


 ぐつぐつと煮える、黄金色の液体。


 チーズフォンデュだった。




 愚楽は目を輝かせた。


「おおっ、これは溶ける飯か?!」


 チャップリンが吹き出した。


「そうとも。溶ける飯だ。スイスでは寒さの薬だよ」




 長いフォークにパンを刺し、愚楽は鍋の中へ突っ込んだ。


 とろとろのチーズが糸を引く。


 湯気とともに、乳の香りとワインの香りが鼻をくすぐる。


 口に運ぶと、濃厚な塩気と甘みが舌を包んだ。


「……うまい! 世界は広いな。パンが溶けても、心は固まらねぇ!」


 チャップリンは笑いながら、同じようにパンを浸した。


「昔、君がパンを半分くれた夜を思い出すよ」


「俺も覚えてる。あれはうまいパンだった」


「君の方が、ずっといいパンを焼いてたんだろう」




 二人はチーズの糸を引き合いながら笑った。


 外では、湖に白鳥が浮かんでいる。


 時間が止まったような午後だった。




 やがてチャップリンが静かに言った。


「私は、もうすぐ行くよ」


「どこへ?」


「映画の向こう側さ。あっちでは、もう字幕もいらない」


 愚楽は黙って頷いた。


 老いたチャップリンの顔は穏やかで、どこか少年のようだった。




「なあ、兄弟」


 愚楽が言った。


「笑うって、永遠なのかな」


 老人は少し考えてから、答えた。


「笑いは、死なないよ。だって、人が悲しむ限り、誰かがまた笑わせようとする」


「……そりゃ、馬鹿の仕事だな」


「そして、馬鹿がいる限り、人間はまだ救われる」




 湖からの風がカーテンを揺らした。


 湯気の向こうで、二人の姿がぼやけて見えた。


 愚楽はフォークを置いて立ち上がった。


「また、どこかでな」


「きっと会えるさ。馬鹿と笑いは、どんな国境も越えるから」




 外に出ると、夕日がレマン湖に沈みかけていた。


 チーズの香りがまだ鼻に残っている。


 愚楽はパンの欠片を空に放った。


 風に乗って、湖面に落ちたそれを白鳥がついばむ。


 愚楽は静かに笑った。


「うまいもんは、分け合ってこそ、あったかいんだな」




 遠く、屋敷の窓からチャップリンの笑い声が聞こえた。


 それはもう、映画でも台詞でもない、ただの人間の笑いだった。



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