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永遠の馬鹿  作者: 火浦マリ
チャップリン編
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85/93

赤狩りと亡命

 新聞の見出しが、まるで銃声のように街に響いていた。


 《チャップリン、共産主義の疑いで国外追放》


 《笑いの王、赤の烙印》


 《自由の国、笑いを拒む》




 ロサンゼルスの喫茶店。


 愚楽はパンをちぎりながら、その紙面をじっと見ていた。


 パンのかけらが新聞に落ち、ヒトラーを笑い飛ばしたあの男の写真を隠した。


「……追い出されたのか、あいつ」




 店の中はざわめいていた。


 「やっぱり危険だったんだ」


 「共産主義者め」


 「アメリカを裏切ったんだ」


 誰もが利口な顔で、正しい言葉を口にしていた。


 愚楽はスープをすすりながら、静かに思った。




「笑わせる人を追い出す国って、笑われて当然じゃないか?」




 彼には“赤”とか“思想”とか、そんなことはどうでもよかった。


 笑いが消えるほうが、よほど怖かった。


 チャップリンの映画が流れなくなったら、


 パンの味まで変わってしまう気がした。




 通りに出ると、冷たい風が吹いていた。


 張り紙には“非アメリカ的活動委員会”という文字が並び、


 誰かがそれを引きはがし、また別の誰かが貼り直していた。


 世界中が、正しさの縄で自分の首を締めているようだった。




 愚楽は空を見上げた。


 灰色の雲が、低く垂れ込めている。


「赤だの白だの黒だのって、みんな色で喧嘩して、肝心の笑いがどこかに落ちちまったな」


 独り言のように呟く。


 それは政治でも思想でもなく、空気の話だった。


 笑いを殺す、あの冷たい空気。




 街角のテレビ店では、ニュースが流れていた。


 《チャップリン氏、スイスへ向かう船上から声明を発表》


 白黒の画面の中、帽子を取って一礼するチャップリンの姿が映る。


 その背中が、どこか小さく見えた。




 愚楽は思わず画面に向かって言った。


「馬鹿を演じて、賢くなりすぎたんだな……」




 笑いとは、自由の形だった。


 誰にも従わず、誰も傷つけず、ただ人を笑わせる。


 だが、賢くなりすぎると、人は笑えなくなる。


 理屈が笑いの首を絞める。




 愚楽はパンをもう一口かじり、呟いた。


「馬鹿が笑うと、世界は丸くなる。


 利口が怒ると、世界は尖る。


 チャップリンを追い出したのは、怒った利口たちだ」




 誰にも聞こえない独白だった。


 けれどその声は、どこか遠くのスイスの湖にまで届いた気がした。




 夕暮れの街で、愚楽は帽子を脱ぎ、風に向かって言った。


「笑いを忘れた国に、神は長く居つかない。


 けど――馬鹿が笑う限り、どっかに楽園は残るさ」




 そう言って、愚楽はパンの欠片を鳥に投げた。


 スズメがそれをついばみ、空へ飛び立つ。


 その羽音が、小さな笑い声のように聞こえた。




 通りの向こうで、若者たちがデモの横断幕を掲げていた。


 “FREEDOM TO LAUGH”――笑う自由を。


 愚楽は小さく笑って、その群れに紛れた。




 旗の影に隠れても、彼の顔はどこか明るかった。


 赤でも白でもない、ただ馬鹿の色で輝いていた。



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