『キッド』
1921年の冬。
ロサンゼルスの街角には「チャールズ・チャップリン最新作『THE KID』」の大きなポスターが貼られていた。
片手に帽子、もう片手に小さな少年。
笑っているのか、泣いているのか分からないその顔を、愚楽はじっと見つめていた。
「……あいつ、また転んでるのかと思ったら、今度は子どもを抱えてるのか」
通りの角にある古びた映画館に、人々が列を作っていた。
愚楽は腹を鳴らしながら列の最後に並んだ。
ポケットの中には、ロンドンから渡るときに蓮英にもらった銀貨がまだ数枚だけ残っている。
パンよりも、今日はこれを笑いに使おう。
館内は暗く、ピアノの生演奏が響いていた。
白いスクリーンに映し出されたのは、あの小さな男――チャップリン。
そして孤児の少年。
貧しい部屋で、ふたりが手を取り合って生きる姿。
パンを分け合い、寝床を整え、笑って、泣いて、また笑って。
愚楽は息を詰めて見つめた。
孤児が連れ去られる場面。
チャップリンが必死に追いかける。
帽子が転がり、涙が光る。
愚楽の喉が詰まった。
スクリーンの中で、あの男は転びながら、泣いていた。
それでも笑いを絶やさない。
愚楽の目から、一筋の涙が落ちた。
「笑わせながら泣かせるなんて、あいつ、どんだけ馬鹿なんだ……」
誰も聞いていない暗闇の中で、そう呟いた。
上映が終わると、観客たちは拍手を送った。
愚楽は席を立てずにいた。
胸の奥がじんと温かく、痛い。
長い旅の中で、こんなふうに心が震えたことはなかった。
外に出ると、夕陽がオレンジ色に沈んでいた。
街のパンケーキ屋から甘い香りが漂ってくる。
愚楽はふらりと入った。
「パンケーキひとつ」
鉄板の上でバターがじゅうと鳴る。
焼き上がった生地にシロップがかかる。
湯気が立ちのぼり、彼は思わず笑った。
「こんな甘いもんを作るやつも、きっと馬鹿だな」
一口食べた瞬間、また目頭が熱くなった。
「……うまいな。泣けるほどうまい」
店主が首をかしげた。
「お客さん、泣くほどか?」
「うん、あの映画みたいだ」
食べ終えると、愚楽は通りに出て、帽子を深くかぶった。
行き交う人々の間で、チャップリンの真似をしてみた。
ステッキを拾うふり、つまずいて帽子を押さえる仕草、子どもを抱きしめる動作。
通りの子どもたちが笑った。
誰かが拍手した。
愚楽は少し照れながら、帽子を取ってお辞儀した。
パンケーキの甘い香りがまだ口の中に残っていた。
「笑いってのは、腹にも心にも効く薬だな。……甘いけど、沁みる」
彼はもう一度、空に向かって帽子を振った。
そこには、あの映画の中と同じように、少年と男の笑いが混ざったような夕暮れがあった。
その夜、愚楽は夢を見た。
チャップリンが少年を抱き上げて、こちらを振り返る。
そして笑う。
その笑いは、もう映画の中のものではなかった。
世界を包むような、あたたかい“馬鹿の笑い”だった。




