チャップリンと再会(撮影所の夜)
ロサンゼルスの夜は、どこか作り物めいていた。
砂埃の舞う通りの向こうで、スタジオの照明だけが白く灯っている。
愚楽は門の隙間から中を覗き込み、ぼんやり呟いた。
「昼の方が眠そうだな、この街は……」
夜の撮影所は静かだった。
昼間の喧騒は消え、音を立てているのは風と、時折鳴るカメラの回転音だけ。
廃材の影に腰を下ろしてパンをかじっていると、遠くでひとりの男が歩いてきた。
小柄で、ステッキを持っている。
愚楽は目を凝らした。
――あの歩き方。
思わず立ち上がった。
「チャップリン!」
声をかけると、男は驚いたように振り向いた。
月明かりの下、帽子を外したその顔には疲れと輝きが混ざっていた。
「……君は……」
チャップリンの口元がゆるんだ。
「ロンドンの音楽ホールで、舞台の上で転がっていた……あの東洋の紳士だね?」
「そう。転んで、殴られて、笑われて……まだ生きてる」
二人は笑った。
チャップリンはベンチに腰を下ろし、ポケットから紙巻き煙草を取り出した。
マッチの火が、彼の頬を赤く照らした。
「久しぶりだね。君は……まったく変わらない」
「お前も帽子が似合うようになったな。昔は被られてるみたいだったのに」
「ははは、確かに。今は、世界中がこの帽子を覚えている」
チャップリンは少し誇らしげに言ったが、すぐに目を伏せた。
「でも、笑いが増えるほど、静けさも増えるんだ。
人々が笑っている時、僕は笑っていないことが多い」
愚楽はパンをちぎって差し出した。
「腹、減ってんだろ?」
「……ありがとう」
チャップリンは受け取り、ゆっくりかじった。
かすかに笑って言う。
「この味、ロンドンのパンより乾いてる」
「乾いてる方が、長持ちするんだ」
「そうか……それは人間も同じかもしれないね」
しばらく沈黙があった。
夜風が照明の布を揺らし、カメラの影が二人の足元に伸びた。
チャップリンが呟いた。
「君はどうしてここに?」
「笑いを探してたら、ここに来た」
「笑いを探す?」
「うん。昔は転んで笑ってた。
今は……機械の箱の中に笑いが閉じ込められてるって聞いた。
それを見たら、なんか、俺も入りたくなってな」
チャップリンは思わず吹き出した。
「君がフィルムに入ったら、きっと出てこられなくなるよ」
「構わん。笑われるなら本望だ」
その言葉に、チャップリンは目を細めた。
「……君みたいな人が、映画をやるべきなんだろうな。
僕は、悲しみを計算して笑いに変える。
でも君は、ただ笑って生きてる。
それが一番難しいことだ」
愚楽は首を傾げた。
「難しいのか? 腹が減ったら飯を食って、転んだら笑えばいいだけだろ」
「……そうだね」
チャップリンは小さく笑い、煙草を足元で踏み消した。
「それを忘れないようにしないと」
遠くでスタッフの声がした。
「チャーリー! 次の撮影準備できました!」
「すぐ行く!」
彼は帽子をかぶり直し、立ち上がった。
ステッキを軽く振りながら振り返る。
「ありがとう、君に会えてよかった」
「また転び合おうぜ」
チャップリンは微笑んで言った。
「そうだね、世界のどこかで」
照明が再び灯り、彼の背中が光に包まれる。
愚楽はその光景をじっと見ていた。
あの男はもう、世界の笑いを背負っている。
けれど、あの頃の少年の心はまだ残っていた。
風が吹き、パンくずが地面を転がった。
愚楽は拾い上げて、空を見上げながら呟いた。
「笑いって、風みたいなもんだな。掴めねぇけど、みんなの頬を撫でていく」
夜空の向こう、無数の星がまたたいていた。
その光を、フィルムのように心に焼き付けながら、愚楽はひとり、ゆっくり笑った。




