表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永遠の馬鹿  作者: 火浦マリ
チャップリン編
PR
79/93

サーカス団への潜り込み

 ニューヨークの街を離れ、鉄道の汽笛が長く鳴った。


 車窓の外には、広がる草原と曇った空。


 愚楽は貨物列車の荷台に腰を下ろし、手にした新聞をぼんやり眺めていた。


 見出しにはこうある。




 ――チャーリー・チャップリン新作『担え銃(Shoulder Arms)』公開。


 ――笑いが戦争を風刺する。




 その隣の記事には、ヨーロッパの戦場の報告があった。


 泥の塹壕、瓦礫の街、帰らぬ兵士たち。


 愚楽は記事の行間を指でなぞった。


「戦って、笑うのか……」


 彼にはよく分からなかった。ただ、どんな時代でも笑いが生まれることだけは不思議でならなかった。




 列車が止まると、小さな町の広場にテントが見えた。


 色褪せた布の上に大きく《WONDER CIRCUS》と書かれている。


 看板の象がひとつ欠け、馬車の車輪は泥に埋まっていた。


 愚楽は吸い寄せられるように近づいた。




 受付の男が怪訝そうな顔をした。


「客か?」


「いや、笑いを見に来た」


「じゃあ客だ」


「違う、働く方だ」


「……何ができる?」


「飯を食える」


「……まあ、馬の世話でもしてみな」




 こうして愚楽はサーカス団に潜り込んだ。




 最初の仕事は、馬小屋の掃除だった。


 バケツの水をこぼし、馬に蹴られ、干し草に埋もれた。


 そのたびに団員たちは笑った。


 愚楽は真顔で言った。


「俺は真面目なんだが、真面目にやると笑われるんだ」


「それが芸になるかもな」


 ピエロが言った。白塗りの顔に赤い鼻。目尻には涙の跡が描かれている。




 夜、舞台袖で愚楽はじっと見ていた。


 ピエロは転び、殴られ、笑われ、最後には花を差し出して微笑む。


 観客は大笑いして拍手を送る。


 だが、舞台裏に戻ったピエロは、化粧を落としながら黙っていた。


 愚楽は声をかけた。


「なぁ、笑ってもらうのって楽しいか?」


 ピエロは鏡越しに答えた。


「……笑うために泣いてるんだよ。泣くのは楽じゃない」




 愚楽は言葉を失った。


 翌日、出番の途中でピエロが体調を崩した。


 代役が見つからず、団長は怒鳴った。


「おい、東洋の小僧! お前、昨日まで舞台袖にいたな。やれ!」


「俺が?」


「転ぶだけだ! 転んで、殴られて、笑わせろ!」




 照明が当たった。


 観客がざわめく。


 愚楽は帽子を脱ぎ、深くお辞儀した――途端に帽子が転がり、拾おうとして頭をぶつけた。


 笑いが起きた。


 彼は慌てて立ち上がり、杖を取ろうとして花瓶を倒し、水を浴びた。


 さらに笑い。


 愚楽の胸に何かが灯った。


「なるほど……これが、笑いの仕組みか」




 演目の終わり、観客が拍手を送った。


 舞台裏で団員が彼の背中を叩いた。


「おい、やるじゃねぇか。即興であんなに受けるとは」


「痛かったけど、気持ちよかった」


「それが芸人の業さ。命を換金して笑いを渡す」


「命の換金、か……」


 愚楽は繰り返した。


「笑わせるってのは、命の換金だな」




 夜、静かなテントの外で、愚楽は星を見上げた。


 遠い戦場の火のように、空に点々と光が瞬いている。


 新聞を広げると、チャップリンの顔がそこにあった。


 銃を抱えた浮浪者が、泥の中で笑っている。


「戦場でも、笑えるのか……」


 愚楽はパンをちぎり、夜空に向かって差し出した。


「なら、俺もまだ笑えるな」




 風がテントを揺らした。


 遠くの町では、誰かが映画館を出て笑っていた。


 愚楽は目を細め、微笑んだ。


 ――笑いは痛みのあとに咲く。


 それを、馬鹿な彼はようやく理解し始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ