新大陸の港町
大西洋を越えた蒸気船は、霧の中からゆっくりと姿を現した。
ニューヨーク――新世界の玄関。
朝もやの向こうに、自由の女神の輪郭がかすかに見えた。
愚楽はデッキの手すりに身を乗り出し、目を細めた。
「……でけぇな。あの女は何を守ってるんだ?」
隣にいたイタリア人の少年が笑って言った。
「自由だよ、ミスター!」
「自由か。パンの名前かと思った」
汽笛が鳴り、船が埠頭に着いた。
甲板の上では、移民たちが歓声を上げ、手を振って泣いた。
愚楽は荷物代わりのパン包みを抱えて桟橋を渡る。
港には言葉の洪水があった。英語、イタリア語、ロシア語、ドイツ語――世界の雑音が入り混じって響く。
露天では焼いたソーセージと甘いピーナッツの匂いが漂い、馬車が通りを塞ぎ、新聞売りの少年が叫んでいた。
「Extra! Extra! チャーリー・チャップリン、新作映画大ヒット!」
愚楽の足が止まった。
「チャップリン?」
新聞の一面には、小さな帽子とステッキを持った男の写真が載っていた。
愚楽は目を凝らした。
――間違いない。あの小さな体、つぶらな目。
ロンドンの音楽ホールで出会った、あの“笑う男”だった。
新聞を買おうとして、小銭が足りないことに気づいた。
代わりに焼きソーセージの屋台でパンをちぎって差し出した。
「これと交換できるか?」
店主は苦笑しながらパンを受け取り、新聞を渡した。
「まぁいいさ、ミスター。食べ物は金より信用できる」
愚楽は嬉しそうに頷き、記事を眺めた。
――チャーリー・チャップリン、世界を笑わせる新星。
――悲しみとユーモアの共存。
――“リトル・トランプ”がアメリカを変える。
「世界を……笑わせてるのか」
愚楽は新聞を胸に抱いた。
その笑いが、遠いロンドンの霧の夜から続いていると思うと、胸の奥が熱くなった。
だが、すぐに腹が鳴った。
「……その前に、俺の腹も笑わせなきゃな」
愚楽は港を歩き回った。
イタリア移民の食堂ではスパゲッティが皿からこぼれ、アイルランド酒場ではビーフシチューの香りが漂っていた。
道端では黒人の青年がラグタイムを奏で、子どもたちが踊っていた。
誰もが忙しく、誰もが希望と不安を同時に抱えていた。
愚楽はその雑踏の中に立ち、ゆっくりと笑った。
「なるほど……この国は笑いの腹がでけぇな」
昼になると、彼は港近くの広場に腰を下ろし、パンをちぎって海鳥に投げた。
隣に腰かけた老人が声をかけた。
「新入りか?」
「ああ。腹と笑いを探しに来た」
「そりゃいい。ここじゃ笑いが金になる。だが金がなけりゃ笑えねぇ」
「ふーん……金で笑うのは難しそうだな」
「難しいさ。だがその坊主――チャップリンとか言ったか――あいつは違うらしい」
老人は新聞を指さした。
「何も持たない男が世界を笑わせる。金より強ぇ。お前もああなれりゃいい」
愚楽は海を見た。
霧の向こうに蒸気船の影が消えていく。
あの海を越えた笑いが、今ここで人々を動かしている。
それがなんだか嬉しくて、胸の奥がじんと温かくなった。
夕暮れ。
街の明かりが灯り、港の酒場からは陽気な歌声が聞こえてきた。
愚楽は古びたポスターを見つけた。
《ヴォードヴィル劇場――笑いと涙の夜をあなたに!》
その下には小さく、
《かつてロンドンで喝采を浴びたチャールズ・チャップリン》とあった。
「へえ……まだ舞台にも出てるのか」
愚楽は帽子を深くかぶり直した。
「だったら、もう一度笑いに行くか。あいつの笑いがどんな風に進化したか、見届けてやらなきゃな」
港のガス灯がともり、霧が薄く流れた。
人々のざわめきの向こう、アメリカの夜が始まる。
愚楽は笑った。
「さて――この国でも馬鹿をやってみるか」




