蒸気船と大西洋
小蓮商会ロンドン支店の窓の外では、春の雨が細く降っていた。
煉瓦の街並みの上を、黒い煙が低く漂っている。
暖炉の火の前で、老いた蓮英が椅子にもたれ、微笑んだ。
「兄さんは、歳を取らないね」
その声には驚きよりも、静かな確信があった。
「……まさか、本当にあるとは思いませんでした。不老不死って」
「俺はそんなつもりじゃねぇ。ただ、気づいたらみんな先に行っちまうだけだ」
愚楽は照れくさそうに頭をかいた。
その手には、今も焼きたてのパンと塩漬けの魚が握られていた。
蓮英は、しわだらけの指で机の上の手紙を整えた。
「兄さん。そろそろこの街を離れたほうがいい。最近は“歳を取らない東洋人”なんて噂が立っています。怖がる人もいる」
「……俺が怖いのか?」
「違いますよ。人は分からないものを怖がるだけです」
しばらく沈黙が流れた。暖炉の火が、ぱちぱちと弾ける音だけが響いた。
蓮英は封筒を差し出した。
「アメリカへ行きましょう。いま海の向こうでは、笑いが商売になる時代です。映画や劇場が人を集めている。兄さんなら、きっと居場所がある」
「笑いが……商売に?」
「ええ。金で笑いを買う時代です。けれど兄さんの笑いは、金では買えません。それがいいんです」
そう言って、蓮英は少しだけ寂しそうに笑った。
「兄さんは知識を積み重ねているわけではないけれど、形にはならない大切なものを積み重ねてきた。……人の心を、ですね」
愚楽は封筒を受け取り、首を傾げた。
「心って、腹よりややこしいな」
「でも、腹を満たすだけでは生きられないでしょう?」
「いや、腹が満ちれば笑える。それで十分だ」
その単純な答えに、蓮英は深くうなずいた。
――数日後。
テムズ川を下る列車の窓から、巨大な蒸気船が見えた。
白い船体に黒い煙突が四本。金属の巨人のようだった。
愚楽はパン包みを抱え、乗船券を握りしめた。
蓮英は桟橋で手を振った。
「兄さん、風邪をひかないで! それと……いつか、あなたの笑いが海を越えたら教えてください!」
愚楽は笑って答えた。
「笑いは風より速ぇぞ!」
汽笛が鳴り、船が動き出す。
デッキの上では移民たちが肩を寄せ合っていた。
イタリア人の少年がトマト煮のパスタを持っており、ユダヤの母親が黒いライ麦パンを切り分け、アイルランドの老人はポテトとミルクのスープをすすっていた。
愚楽は自分のパンと魚を取り出し、笑って言った。
「交換しようぜ。世界の味見だ!」
みんなが笑った。言葉は通じなくても、パンは分けられた。
舌の上に広がるのは塩気と油と、異国の匂い。
彼は思った。
「どこの国も、飯は似てる。違うのは皿の形ぐらいだ」
船はゆっくりと大西洋の真ん中へ進んでいった。
波が砕け、煙が空へと昇る。
夜になると、甲板の上から星が見えた。
愚楽はパンをかじりながら呟いた。
「海の向こうでも、人は笑ってるんだろうな」
その時、隣にいた少女が小さな英語で言った。
「ミスター、アメリカは夢の国よ」
「夢か……俺はまだ夢を見たことがねぇ」
「なら、これから見るのね」
愚楽は笑って頷いた。
遠くで汽笛が響く。
夜風が潮と煙の匂いを運んできた。
それは、彼が何度も別れを繰り返した歴史の匂いと同じだった。
だが、今回は違う――
海の向こうに、“笑いの国”が待っている気がした。




