愚楽、イギリス初舞台
十九世紀の終わり、ロンドンの空はいつも灰色だった。
煙突の街は産業の誇りでもあり、貧民の嘆きでもあった。川には油が流れ、石畳には煤がこびりつき、霧と煙が混ざりあっていた。
それでも人は歩いた。働き、笑い、酔い、泣き、また働いた。
――この街に、愚楽がいた。
大陸の革命を越え、産業の煙をくぐり抜け、百年以上の歳月を経て、愚楽はいつのまにかロンドンの裏通りに住み着いていた。
商会の蓮英と別れてから、もう二十年は経った。彼は港で荷揚げの手伝いをしたり、夜は安酒場で歌ったりして暮らしていた。働くでもなく怠けるでもなく、ただ笑いながら生きていた。
街の人々は彼を“グラック”と呼んだ。どこの国の人間か誰も知らないが、パンを分け与える癖のある陽気な男として有名だった。
その夜、愚楽は偶然、路地の奥の音楽ホールに迷い込んだ。
壁にはポスターが貼られ、粗末なピアノが鳴り響く。観客はビールと笑いを求めて詰めかけていた。
舞台の袖では支配人が青ざめていた。次の出演者が酔って逃げ出したのだ。
「おい、そこの東洋の兄ちゃん! 帽子かぶってるの、あんたか? 舞台に出ろ!」
「えっ、俺が?」
「誰でもいい! 時間をつなげ!」
愚楽は腕を引かれ、舞台に放り出された。
眩しい照明。ざわめく観客。酒と煙草の匂い。
何をしていいか分からない。とりあえず帽子を取って頭を下げた――帽子が転がる。
拾おうとしたら、頭をぶつけた。
ドッと笑いが起こった。
愚楽は目をぱちくりさせた。「……痛いのに、笑われた?」
もう一度やってみる。拾って、転がして、ぶつかる。観客、爆笑。
愚楽は悟った。――なるほど、これが“仕事”か。
調子に乗った彼は、舞台に落ちていた杖を拾い、くるりと回してみた。
が、手を滑らせて照明を直撃。火花が散り、煙が上がる。観客が悲鳴を上げ、すぐに笑い声が追いかけた。
慌てて帽子であおぐ。火が広がる。
「おお、明るくなった!」
会場は爆笑の渦。支配人は頭を抱えた。
最後に愚楽はパンを取り出して、帽子の火を消した。
焦げた香りが広がる。
彼は何のためらいもなく、そのパンをちぎって口に入れた。
「……うん、焼けてる」
会場が静まり返る。
そして――大喝采が起こった。
その夜から、安い音楽ホールの片隅に“笑う東洋人”が現れると評判になった。
誰も名前を知らなかったが、彼の出る夜はいつも満席だった。
愚楽はただ、転び、拾い、笑い、食べるだけ。だがその笑いには、貧しい観客たちの心を温める何かがあった。
幕が下りたあと、客席の一角で、ひとりの少年がじっと見ていた。
まだ十二歳ほど。痩せた体に、澄んだ瞳。
その少年が――後に“チャールズ・チャップリン”と呼ばれることになるとは、誰も知らなかった。




