出会いの夜
公演が終わり、観客が引けた音楽ホールには、ビールと汗と笑いの残り香が漂っていた。
愚楽は舞台の端に腰を下ろし、焦げたパンのかけらを齧っていた。
照明はもう落とされ、唯一の灯りは天井の裸電球。
舞台袖から、細い影がこちらを覗いていた。
「……あの、さっきの人」
愚楽は顔を上げた。
声の主は、まだ少年だった。破れた靴、擦り切れた上着。
だが瞳だけは、夜の中で光っていた。
「おまえ、客か?」
「うん。母さんと一緒に来るつもりだったけど、病気で来られなくて。だから、一人で来た」
少年は小さく笑った。「でも……笑ったの、久しぶりだった」
愚楽はパンを差し出した。
「食うか?」
「……ありがとう」
少年は躊躇してから手を伸ばし、小さくちぎって口に入れた。
「焦げてるけど、うまいね」
「だろ? 火事の味だ」
少年が吹き出した。
愚楽も笑った。二人の笑い声が、空っぽの客席に柔らかく響いた。
「あなた、すごかった」少年は言った。
「みんな、泣きたい夜だったと思うのに、あなたを見たら笑ってた」
「泣きたいのに笑うのが人間だ。笑いたいのに泣くのもな」
愚楽は天井を見上げた。煤の色をした電球が、微かに揺れている。
「俺は昔、戦の中でも笑った。王の前でも、断頭台の下でもな。笑うってのは、頭じゃなくて、腹でするもんだ」
「……ぼくも、笑わせたい」
少年の声は小さかったが、確かだった。
「みんなが笑ってくれたら、それだけで、ぼくは生きていける気がする」
愚楽は少年を見た。
その目は、どんな大人よりも真っ直ぐだった。
彼はゆっくりと頷いた。
「いいじゃねぇか。笑わせるってのは、飯を分けるより難しい。だけど、どっちも腹を満たすんだ」
少年は照れたように笑った。
「ねぇ、名前、聞いてもいい?」
「俺か? 愚楽だ」
「グラック?」
「そう呼ぶ奴もいる」
「ぼく、チャーリー」
愚楽はパンをもう一切れ差し出した。
「チャーリー、覚えとけ。馬鹿にできねぇのが“笑い”だ。馬鹿にされて笑える奴が、本物の“馬鹿”だ」
チャーリーはパンを噛みしめた。
その味は焦げていて、少し苦かったが、なぜか温かかった。
外では霧が深くなっていた。馬車の車輪が石畳を叩く音が遠ざかる。
ホールの扉を開けると、冷たい夜風が二人の間を通り抜けた。
愚楽がぼそりと言った。
「この街は泣いてばっかりだな。だから笑いが必要なんだ」
チャーリーは頷いた。
「うん。……ぼく、あなたみたいになりたい」
愚楽は少し黙って、それから穏やかに笑った。
「やめとけ。俺みたいなのは永遠に馬鹿のままだ」
だが、その顔はどこか誇らしげだった。
――のちに少年は世界を笑わせる男となり、
愚楽はその影の中で静かに見守り続ける。
この夜、二人の道はすれ違い、そして永遠に交わった。




