蓮英との別れ
テムズ川に霧が流れていた。工場の煙突から吐き出された煤と、川面の水蒸気が混ざり合い、灰色の空がどこまでも続いている。
その岸辺に、一隻の巨大な蒸気船が停泊していた。真っ黒な煙突からは絶え間なく黒煙が立ち上り、甲板では出航の準備に忙しい水夫たちの掛け声が響いていた。帆船の時代を知る愚楽には、まるで鉄の怪物が川を呑み込もうとしているように見えた。
「すげえなあ……船なのに煙突が立ってる。海を煮立てて走るつもりか?」
口をあんぐり開けた愚楽の横で、蓮英は真剣な眼差しを向けていた。
「兄さん。これが新しい時代の船です。風任せの帆船ではなく、蒸気の力で大洋を越える。これに乗って、私はアメリカへ行きます」
「アメリカ?」
「そうです。新しい市場と、新しい人々が待っている。小蓮商会が未来へ生き延びるためには、この一歩を踏み出さなければなりません」
愚楽は首を傾げた。
「そんな遠くにまで行って、腹が減ったらどうするんだ?」
「兄さん……」蓮英は呆れたように、しかしどこか懐かしげに笑った。
「腹を満たすことばかり考えて……でも、それが兄さんらしい」
二人はしばし黙って川面を見つめた。水面をかき乱す蒸気船のパドルが、未来という言葉を刻むように波を打っていた。
「兄さん。私は小蓮の名を背負います。商会を大きくし、ただの商いではなく、人と人とを結ぶ縁にしたい。物も金も、そのために流すんです」
愚楽は目を丸くし、にやりと笑った。
「縁か……そういえば、小蓮が最後に言ってたっけな。『子や孫に会ったら笑っていてね』って」
蓮英の目が驚きに見開かれた。
「……兄さんはやっぱり、不思議な人だ。まるで本当に、何世代も前から見守ってきたみたいに」
愚楽は返事をせず、ただ鼻を鳴らして笑った。馬鹿に見せかけて、どこか奥底に届く言葉をぽつりと漏らす。その度に、蓮英は幼子のように心を揺さぶられるのだ。
やがて汽笛が鳴り響いた。低く、重い音が川面を震わせ、人々の胸に未来への不安と期待を刻み込む。
蓮英は帽子を取り、愚楽に深々と頭を下げた。
「兄さん。私は行きます。……だけど、忘れないでください。私は兄さんのことが大好きです。だからこそ、この別れを胸に抱いて未来へ進みます」
愚楽は一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間、豪快に笑い出した。
「おお、大好きだとよ! なら、腹いっぱい食って、笑って進めばいいさ! そしたらどんな海も越えられる!」
蓮英の目に涙がにじんだ。だが彼は強く頷き、蒸気船のタラップを登っていった。
甲板に立つ蓮英の背が次第に遠ざかっていく。愚楽は岸辺に立ち尽くし、煙を吐き出す鉄の船が川面を押し進む姿を、最後まで見送った。
船が霧の向こうへ消えたとき、愚楽はぽつりと呟いた。
「人は老いる。船も変わる。でも……馬鹿はいつまでも馬鹿のままだ。だから俺はここで、笑って待ってるさ」
テムズの風に混じり、まだ遠くで鳴り響く汽笛が、愚楽の胸に残った。
産業革命とヴィクトリア時代編完結です。




