上流社会の対比
煤煙の街を抜け、馬車の車輪は石畳を鳴らしていった。愚楽はなぜか蓮英に引っ張られるようにして、立派な屋敷の玄関へと足を踏み入れていた。
「兄さん、今日は特別です。ヴィクトリア女王陛下の縁故を持つ貴族家から招かれました。商会の信用のためにも、粗相はなさらぬように」
真面目な顔で言う蓮英を横目に、愚楽は首を傾げた。
「粗相? 粗相って、あの……小便のことか?」
「違います! ……頼むから黙って座っていてください」
広間に入った瞬間、労働者の酒場とは別世界が広がった。巨大なシャンデリアが煌めき、長いテーブルの上には銀の燭台、煌びやかな陶磁器の皿が整然と並んでいる。列席する紳士淑女は絹やサテンの衣装をまとい、指先まで宝石で飾り立てていた。
愚楽は目を丸くして呟いた。
「おお……光ってる。まるで全部パンに塗ったバターみたいだな!」
貴婦人たちが小声で笑い、しかし眉をひそめる者もいた。
蓮英は冷や汗をかきながら隣の席に愚楽を座らせた。
やがて晩餐が始まった。皿の上に置かれたのは黄金色のローストビーフ。肉汁を閉じ込めた焼き加減で、皿の縁にはポテトや人参のグラッセが添えられている。続いて銀の蓋が外されると、アスパラガスのスープ、仔羊の香草焼き、そして色鮮やかなゼリー菓子――。
「うまそうだ……」愚楽は思わず身を乗り出した。
「でもなあ、これ一皿で工場の連中十人は腹いっぱいにできるぞ」
隣の伯爵がぎょっとした顔でフォークを止めた。
「なんと下品な。食卓で労働者の話をするとは」
愚楽は気にする様子もなく、にかにか笑って肉を頬張った。
「下品? いやいや、こいつは上品だぞ。だって肉が柔らかい! でも腹が満ちるのは、やっぱり塩気の効いたジャガイモの方だな!」
場に妙な沈黙が落ちた。誰もがマナーに縛られた食卓で、ただひとり愚楽だけが正直に口にしている。
女主人がとりなすように微笑んだ。
「まあ……お客人は随分と素朴なお考えを」
蓮英は青ざめて謝ろうとしたが、愚楽はそこでぽつりと呟いた。
「こんなご馳走は、すげえよ。でも……飯の味は笑いと一緒だ。分け合って食えば、どんな鍋でも美味い。俺は昨日、工場の連中とジャガイモのスープを分けて笑ったんだ。あれも負けないくらい旨かった」
再び沈黙。だが今度は誰もが否定できなかった。煌びやかな銀器の皿の上で、ローストビーフの匂いが漂うなか、愚楽の言葉が妙に重く響いていた。
老伯爵がワイングラスを掲げ、静かに言った。
「……確かに。我らは贅を知りすぎて、腹を満たす笑いを忘れていたのかもしれぬな」
その場に和やかな空気が戻り、グラス同士が軽く触れ合う音が響いた。蓮英はほっと胸をなで下ろし、愚楽を睨みながらもどこか誇らしげに微笑んだ。
晩餐の夜、屋敷を出た愚楽は大きな欠伸をして言った。
「なあ蓮英、上の連中も下の連中も、結局は腹が減るんだな」
「……兄さんは馬鹿ですが、それを言えるのは強さでもあります」
煤煙の街の上に、月が淡く浮かんでいた。




