労働者と笑い合う日常
煙突の林が街を覆い、空は煤煙に霞んでいた。工場の汽笛が鳴るたびに、男たちは重い足取りで石畳を渡り、女たちは洗濯物の山を背負いながら子どもを連れて歩く。疲労と汚れが染みついた日常――それが産業革命の街の風景だった。
だがその灰色の景色の一角で、ひときわ明るい笑い声が響いていた。
「兄ちゃん、もう一口! 俺にもよこせ!」
「おう、順番だ順番だ。慌てるな、鍋は逃げやしねえ!」
愚楽が大鍋の前に腰を据え、工場帰りの労働者たちにスープをよそっていた。中身は肉の端切れとジャガイモ、麦の粒を煮込んだだけの質素な料理だ。だが、愚楽がふうふう吹きながら味見して「熱い! でも旨い!」と叫ぶと、誰もが笑いながら食器を差し出した。
「兄ちゃん、何者なんだ。毎日ここで飯を分けてくれるが、金も取らん」
「馬鹿だからな」愚楽は胸を張って答えた。
「腹が減った顔を見ると、俺の腹まで鳴っちまうんだ。だったら一緒に食う方が早いだろ?」
工場労働者たちは顔を見合わせ、声を立てて笑った。
「確かに、馬鹿だ!」
「でも、こんな馬鹿はありがたい!」
笑いの渦が広がり、煤に曇った頬に笑顔が灯る。
やがて愚楽は、子どもたちを呼び寄せて一緒に遊び始めた。石炭の欠片を並べて「石炭サイコロ」と称し、出た目で歌を作る遊びだ。
「いちが出たら『いちごのパイ』! 二が出たら『にくまん』! 三が出たら――ええと、三日寝太郎!」
子どもたちはげらげら笑い、労働者たちの固い表情も次第に和らいでいく。
蓮英がその光景を少し離れた場所から見ていた。商会の帳簿を片手に、ため息まじりに呟く。
「……兄さんは相変わらずだな。お金を稼ぐどころか、ただ飯を配ってどうするんですか」
愚楽は顔を上げ、にかっと笑った。
「蓮英、お前は帳簿の数字を追え。俺は笑いを追う。それでいいじゃないか」
「でも……」蓮英は口ごもった。
商会を広げるには金が要る。未来を切り開くには信用が要る。そのすべてに重みがあるのだ。
だが、愚楽の前ではその理屈が空しく響いた。労働者たちがスープをすすりながら肩を叩き合い、子どもたちが馬鹿な歌を合唱し、笑いが煙突の街を一瞬だけ晴らしていた。
「なあ、蓮英」愚楽が真顔で言った。
「金は腹を満たすのにいるんだろ? けど笑いは、腹が空いてても満たしてくれるんだ。だから俺は、こっちを選ぶ」
その言葉に、蓮英は何も言えなくなった。ただ、兄のような存在の背中を見つめながら、自分には到底できない「馬鹿の強さ」を感じ取っていた。
夜。工場の灯が消える頃、労働者の誰かが小さな歌を口ずさんだ。
「♪煤まみれでも飯が旨い、馬鹿な兄ちゃんが笑わせる……」
その歌はまたたく間に広がり、労働者たちの間で「笑う兄ちゃんの歌」として口ずさまれるようになった。
愚楽は鼻の頭をかきながら、照れくさそうに笑った。
「俺はただの馬鹿だぞ。だが……まあ、笑ってもらえるなら、それで十分だ」
煤煙に覆われた街の空に、笑い声が溶けていった。




