蒸気船の港にて
港の空気は、潮の匂いと石炭の煤煙とでごちゃまぜになっていた。波止場に並んだ木造の帆船たちの向こうに、ひときわ異様な姿が現れる。黒い鉄の腹を持ち、煙突からもくもくと煙を吐き出す怪物――蒸気船だった。
愚楽はぽかんと口を開けたまま、その姿を見上げていた。
「……でかい鍋か?」
隣に立っていた蓮英が苦笑する。
「兄さん、鍋じゃなくて船です。蒸気の力で帆なしでも海を渡れるんですよ」
「鍋みたいに煙が出てるだろ。中に肉や野菜を入れて煮込んだら、港じゅうに匂いが広がるぞ」
愚楽は真剣な顔で言う。
蓮英は吹き出した。
「ははっ、兄さんらしい。だが、この船が運ぶのは料理じゃない。人と物と……未来そのものです」
汽笛が鳴り響いた。低く腹の底を震わせるような音に、港の群衆が一斉に振り返る。石炭をくべる音、鉄の甲板を叩く足音、指揮官の叫び声。愚楽は胸を高鳴らせながら、鼻をひくひくさせた。
「でも、飯の匂いがしないなあ。船旅って言ったら、塩漬け肉と固いビスケットじゃないのか?」
「そこも変わっていきますよ」蓮英は目を細めて船を見つめる。
「冷蔵庫も缶詰も発達している。食べ物もまた、この鉄の船と一緒に世界を回るんです」
愚楽は顎をかいて、うーんと唸った。
「なるほど……つまり、腹いっぱいになれる船か」
「兄さんは、結局そこなんですね」蓮英は笑った。
「でも、確かにそうです。蒸気船は腹を満たす。人々を遠くへ運び、交易を広げ、食卓を豊かにする。だからこそ小蓮商会も、この港で投資をしているんです」
商会の若き後継者としての真剣な顔を見せる蓮英に、愚楽は目をぱちぱちさせる。
「お前、難しいことを言うなあ。でも……」
愚楽は港の群衆に目を向けた。労働者たちが石炭の袋を担ぎ、汗をぬぐいながらも笑い合っている。子どもたちが波止場で走り回り、漁師の女房が魚を売りさばきながら声を張り上げる。
「みんな腹が減ったら怒るけど、食えば笑う。俺は馬鹿だから、それしか分からん。でも、それが一番大事なんじゃないか?」
蓮英はその言葉に一瞬、言葉を失った。馬鹿にしてきた兄のような男が、真理の一端を突いたように思えたのだ。
「……兄さんは、やっぱりただの馬鹿じゃない」
「馬鹿だよ。俺は永遠の馬鹿だ」
愚楽は歯を見せて笑い、鉄の船を指差した。
「だけどいいな、あれ。鉄の腹に乗って、大きな鍋みたいに世界中を煮込みながら回れる。そうしたら、どんな奴でも一緒に食えるんだ」
汽笛がもう一度鳴り、群衆の歓声が重なった。蒸気船がゆっくりと岸を離れていく。
蓮英はその姿を目に焼きつけながら呟いた。
「この船が世界を変える……兄さん、未来はもう、目の前ですよ」
「未来か……」愚楽は腹をさすりながら言った。
「俺にとっちゃ、未来も過去も関係ない。ただ腹が鳴れば飯を食い、笑って眠る。それで十分さ。でも――」
煙の向こうに消えていく蒸気船を見つめ、少しだけ真顔になった。
「いつか俺も、あの鉄の腹に乗ってみたいな」
蓮英は黙って頷いた。兄のような存在が、どんな時代でも変わらずに夢を語る。その姿に、不思議な安堵を覚えるのだった。




