酒場と上流階級の落差
煤煙に包まれたロンドンの街を抜けると、そこには二つの顔があった。ひとつはレンガ造りの工場に勤める労働者たちが集まる酒場。もうひとつは馬車で遠出する上流階級が足を踏み入れるサロンや豪奢な邸宅。
愚楽は当然、前者に吸い寄せられていた。煮え立つシチューの鍋、泡立つ黒ビールのジョッキ。木のテーブルには塩漬け肉と固いパン。汗と笑いと煙草の煙が入り混じり、労働の疲れを忘れさせる場所だった。
「おい兄ちゃん、また来たのか!」
顔見知りの炭鉱夫が、泡をたっぷり抱いたビールを突き出した。愚楽はにかっと笑って一気にあおる。
「くはぁ! 煤の粉が全部流れた気がするぞ!」
酒場中に笑いが広がる。彼の底抜けの馬鹿さと食欲は、どこでも場を明るくする。
その頃、酒場の外には金ボタンのコートを着た若い貴族が数人、馬車を停めていた。彼らは産業視察の帰りに労働者街を冷やかしに来たのだ。鼻をつまみ、汚れた路地を見下すようにしている。
「見ろよ、まるで獣小屋じゃないか」
「働く連中は腹を満たすだけで幸せらしい」
彼らは皮肉を言い合いながら酒場をのぞいた。
その時、中から愚楽が大きな声を張り上げた。
「おい! ここのシチューは世界一だぞ! 肉が固くても、煮込めば柔らかくなるんだ!」
熱気で顔を赤くしながら大皿を抱え、パンをちぎってはスープをすくい口に運ぶ。労働者たちはそれを見て拍手喝采。
貴族のひとりが小馬鹿にした声で言った。
「君のような馬鹿に、金の価値がわかるのか?」
愚楽は一瞬きょとんとしたが、すぐに大声で答えた。
「わかるさ! 金があれば、飯が食えるだろう!」
労働者たちがどっと笑う。
「それ以外は?」
「それ以外? あるのか?」
愚楽が首をかしげると、また笑いが広がった。
それを聞いた貴族たちは顔をしかめる。彼らにとって金は地位や権力を示すものだった。しかし愚楽の答えは、あまりに単純で、逆に心を打つものがあった。
酒場の隅で見ていた蓮承が、静かに笑ってつぶやいた。
「馬鹿だけど、心は豊かだ……。だからこそ人は集まってくるのかもしれませんね」
やがて酒場の中と外でざわめきが起こった。貴族たちが帰ろうとした時、愚楽が慌てて外へ飛び出した。皿に残ったシチューを両手に持ち、にかっと笑う。
「腹が減ったら、これを食え! 金じゃなくて、飯で生きるんだ!」
労働者たちが喝采し、貴族たちは何も言えず馬車に乗り込んで去っていった。
煤煙の街で、笑いと飯の力が、ほんのひととき階級の壁を揺らしたのであった。




