移民と食
ロンドンのテムズ川沿いは、いつも煤煙にかすみ、港から上がる潮の匂いと工場の煙の匂いが入り混じっていた。そんな中でも市場は人々の活気に満ちていた。行き交う顔は多様だった。アイルランドから流れてきた労働者、ポーランドやロシアから避難してきたユダヤ人、遠く地中海からの商人。産業革命の都は、食卓までもが国境を越えて膨らんでいた。
愚楽は、今日も市場の片隅で腹を鳴らしていた。鼻をひくつかせると、どこからともなく香ばしい油の匂いが漂ってくる。鼻先を追って歩くと、揚げ鍋を前にした移民の屋台に行き当たった。
「ほう、揚げ魚か!」
店主のユダヤ人は、白身魚を衣にくぐらせ、熱した油に落とした。じゅわ、と音が立つ。隣ではアイルランドの老婆が、薄切りにした芋を油で揚げていた。二つの屋台が並んでいる光景は、まるで偶然が仕組んだ縁のようだった。
「兄ちゃん、食ってみるかい?」
ユダヤの店主が差し出す揚げ魚に、愚楽は目を輝かせた。衣の中からはほくほくとした白身が顔を出し、熱気と一緒に油の香りが立ち上る。
「うまい! 魚が空を飛んで腹に突っ込んできたみたいだ!」
愚楽は一口でかぶりつき、火傷しそうになりながら大声を上げた。周囲の人々が笑う。
次にアイルランドの老婆が紙に包んだ芋を差し出す。
「こっちは芋だよ。貧しい国の味さね」
愚楽はほくほくした芋をつまみ、油と塩の加減に思わずうなった。
「魚と芋、二つで一つじゃないか! こいつを一緒に食べれば、腹も心も満たされるぞ!」
彼は魚を片手に、芋をもう片手に掲げて叫んだ。市場の人々が笑いながら真似をする。魚と芋を同時にかぶりつき、「こりゃいける!」と声を上げる者が続出した。
それを見ていた蓮承――小蓮商会ロンドン支店の若き責任者――が苦笑しながら近づいた。
「愚楽さん、また妙なものを広めてますね。おかげで魚と芋が一緒に売れるようになりそうです」
「馬鹿にするなよ! 旨いもんは国を超えるんだ!」
愚楽は口いっぱいに魚と芋を詰め込みながら言った。その姿に、移民の子供たちが笑い転げる。
ある紳士風の客が「これは新しい料理だ」と目を丸くした。だが愚楽は胸を張って言う。
「新しい? いや、腹が減った者が集まれば、いつでもこうなるさ! 魚も芋も、国の違いなんて関係ない!」
その言葉に、ユダヤの店主とアイルランドの老婆は顔を見合わせ、思わず笑った。彼らは互いに競うように店を構えていたのに、愚楽の馬鹿げた発想ひとつで、並べて売ればいいと気づいたのだ。
「そうだねえ、こっちが魚、そっちが芋。一緒に食べたら最高さ」
「まったく、あんたみたいな馬鹿が時代を変えるのかもしれないよ」
蓮承がにやりと笑ってつぶやく。
「馬鹿だけど、心は豊かですからね」
愚楽は耳に入らなかったのか、魚と芋を交互に頬張りながら叫んだ。
「これだ! これで腹が満ちれば、笑いが広がる! 飯の力は戦より強い!」
市場のざわめきの中で、魚と芋の組み合わせは笑いとともに広がり始めていた。




