読み書き修行(メニューを読みたい)
ロンドンの街は今日も煤けた空の下、煙突の影をのばしていた。
工場の労働者たちが汗まみれで帰る道を、愚楽は腹をさすりながら歩いていた。
「昨日の酒場のパンは硬かったなあ。あれなら工場の石炭より硬いぞ」
そうつぶやきながら、ふと目に入ったのは立派なレストランの看板だった。磨かれた窓からは、白いクロスを掛けたテーブルと煌びやかなシャンデリアが見える。そこには手書きの立札があり、細かい字で何やら書き連ねてある。
愚楽は鼻を押しつけるように覗き込み、唸った。
「むむむ……この紙に、旨そうなものが書いてあるに違いない。だけど、読めん! 腹は鳴るのに、目は鳴らん!」
その場に居合わせた通りすがりの紳士が、皮肉っぽく笑った。
「メニューくらい読めぬのか? 東洋の坊やは珍しいが、無学では困るぞ」
「むぐぐ……メニュー! それを読みたいんだ! 飯の名前が書いてあるんだろ!?」
愚楽の必死の形相に、紳士は思わず笑って去っていった。
そこへ小蓮商会ロンドン支店の蓮英が現れた。愚楽の様子を見て眉をひそめる。
「今度は何を騒いでいる」
「蓮英! 俺は決めた! 字を覚える! だって、飯の名前が読めなきゃ損だろ!」
蓮英は呆れ顔で天を仰いだ。
「……動機が馬鹿すぎる。だが、分かりやすいな」
その夜、商会の倉庫の片隅で即席の「読み書き修行」が始まった。
板切れにチョークで書かれた単語を、蓮英が指差す。
「BREAD。パンだ」
「ぶれっど! パン!」
「FISH。魚」
「ふぃっしゅ! 魚!」
「MEAT。肉」
「みーと! 肉!」
愚楽は声を張り上げて復唱した。だが次の瞬間、眉をひそめる。
「MEATとMEETは違うのか? 肉と会うって、どっちが旨い?」
「そこは気にするな!」と蓮英が頭を抱える。
数日後、愚楽は再びあのレストランの前に立った。立札をじっと見つめ、指でなぞりながら声に出す。
「ぶれっど……ふぃっしゅ……みーと……! おお、読めた! 旨そうだ!」
通りを歩く子供たちが笑いながら指差した。
「見ろよ、あの東洋の変なおじさん、字を読んで喜んでる!」
だが愚楽は得意げに胸を張った。
「ふふん、俺は馬鹿だが、馬鹿でも字を読める! しかも飯の名前ならなおさらだ!」
その姿に、近くの労働者の一人がぽつりと呟いた。
「馬鹿だが、心が豊かだな。……字を覚えるのに、飯のためでいいんだ。俺たちだって腹を満たすために働いてるんだからな」
愚楽は耳に届いたその言葉の意味を深くは理解できなかった。ただ、腹が減ったら笑えばいい、笑えば少し膨れる。字を覚えれば、次はもっと美味しい飯にありつける。それだけのことだった。
それでも彼の姿は、煤煙の街に妙な温もりを灯していた。




