酒場とお金の勘違い
石畳の路地に小さな酒場の灯りが漏れていた。煤けた看板にはかろうじて「ALE」と書かれているが、文字の読めない愚楽にはただの模様にしか見えない。だが、漂ってくる匂いがすべてを告げていた。焼いた肉の香ばしさ、ビールの泡立つ匂い、そして人々の笑い声。愚楽は迷わず戸を押し開けた。
中は、工場帰りの労働者たちでいっぱいだった。煤にまみれた顔、荒れた手、汗と煙草の混じった匂い。その中に愚楽が入ると、いくつかの視線が集まったが、彼の間抜けな笑顔にすぐ空気が緩んだ。
愚楽は懐から銀貨を取り出した。昼間、蓮英が渡してくれたものだ。手のひらで転がしながら、首をかしげる。
「金ってやつは昔から見てきたけど、やっぱりよくわからん。なんでパン一つと銀貨一枚が同じなんだ? 腹が減ったらパンの方が偉いに決まってるだろ」
その声に、近くの労働者が吹き出した。
「ははは! 兄ちゃん、確かにそうだ! だが世の中ってのはそう単純じゃねえんだよ」
「単純でいいじゃないか。腹が膨れれば、みんな幸せだろ?」
愚楽はそう言いながら銀貨を机に置いた。
「これでパン十個と魚五匹、頼む!」
店の女将が腰に手を当て、呆れ顔で近づいてきた。
「そんなに頼めるわけないだろう! その銀貨じゃパン二つとビール一杯がせいぜいさ」
「ええっ!? こんなに丸くて重いのに、それだけか!?」
愚楽の大声に、酒場中がどっと笑い声に包まれた。
「兄ちゃん、金の重さは腹の重さじゃねえ!」
「ははは、面白えこと言うな!」
愚楽は仕方なくビールとパン二つを受け取り、がぶりと頬張った。だが、口いっぱいにパンを押し込みながら振り返る。
「やっぱり金よりパンの方が偉い! 金を食っても腹は膨れないが、パンを食えば笑いが膨れる!」
その馬鹿げた理屈に、また笑いが起こった。怒鳴る者は一人もいない。むしろ、愚楽の存在が煤煙の街にひとときの明るさを運んでいた。
その様子を見ていた蓮英が、ゆっくりと近づいてきた。
「お前は相変わらずだな。馬鹿そうなのに、どうして人を笑わせてばかりいるんだ」
「え? 腹が減ってるやつが笑えば、ちょっとは膨れるだろ? 金より安上がりだ」
愚楽が真顔で言うと、蓮英は思わず苦笑した。
「……やっぱり馬鹿だ」
それでも声を低くして付け加える。
「だが、馬鹿でも心は豊かだ。金の本当の価値を知らなくても、人に笑いを分けられるやつは、金持ちより豊かかもしれん」
労働者たちが「そうだ、そうだ!」と声を合わせ、ジョッキを掲げた。酒場中が再び笑いと乾杯に包まれる。
愚楽はビールの泡を口につけたまま首をかしげた。
「豊かってのは……腹いっぱいってことか?」
その言葉に、笑いがまた一段と大きくなった。
煤煙の街の片隅、酒場の喧騒の中で、愚楽の馬鹿げた勘違いは、人々の胸に不思議な温もりを残していた。




