煙突の街の工場と愚楽の人気
ロンドンの空はいつも灰色だった。
石炭の煙が空を覆い、工場の煙突からは休むことなく煤が吐き出される。川面は黒ずみ、風にのって灰が舞い落ちる。その中を、痩せこけた子供たちが裸足で走り、工場へ吸い込まれていった。
愚楽は煤まみれの通りに立ち、目を白黒させた。
「うわぁ……これじゃ空まで焦げちまうな」
彼は鼻を押さえながら笑った。煙はきついが、漂ってくる匂いは人の暮らしの匂いだ。油で揚げた魚、肉を煮込む香り、パンを焼く匂い――そのどれもが腹を鳴らす。
工場の休憩時間、労働者たちが煤だらけの顔で外へ出てきた。少女や少年までもが煤のついた手で固いパンをかじっている。
「兄さん、どこの馬鹿だ?」
労働者のひとりが、にやりと笑って声をかけてきた。
「俺は愚楽だ! 馬鹿だが、旨い飯のことだけは忘れない!」
そう名乗った瞬間、子供たちがきゃっきゃと笑った。大人たちも、煤けた顔に小さな笑みを浮かべる。
労働者のひとりが銅貨を掲げて見せた。
「お前に金の価値なんざわかるか?」
愚楽は待ってましたとばかりに答えた。
「金があれば、飯が食えるだろ!」
「それ以外は?」
「それ以外に、何があるんだ?」
一瞬の沈黙ののち、爆笑が起こった。
「まったくだ! 腹が満ちりゃ生きていける!」
「この兄ちゃん、いいこと言うじゃないか!」
すると愚楽は、傍らの籠から硬そうなパンを取り出し、子供たちと分け始めた。
「おう、口に入れば同じだ。固くても噛めば甘い!」
自分の歯でがじがじとかじりつき、わざと「歯が折れる!」と大げさに叫ぶと、子供たちは腹を抱えて笑った。
「兄ちゃん、もっとやって!」
「今度は石炭を食べる真似してよ!」
愚楽は小石を口に入れるふりをして、苦い顔をして吐き出す。
「うぇっ! これはさすがに不味い!」
子供たちが大喜びで転げ回る。煤煙にまみれた街に、しばし笑いが響き渡った。
その様子を見ていた年配の労働者が、しみじみと呟いた。
「笑ったのなんて何日ぶりだろうな……」
その夜。工場帰りの労働者たちは、愚楽を連れて近所の酒場に集まった。
安い麦酒と煮込み肉、塩気の強いスープ。それらを囲みながら、愚楽はまるで自分の家のように皿をつつき、杯を重ねた。
「金は腹のためにあるんだろ! なら金はありがたい! だけど笑いがあれば、金がなくても腹は半分ふくれる!」
その一言に、場はまた笑いで満ちた。
気がつけば、愚楽は「笑う兄ちゃん」として工場街で評判になっていた。子供たちは彼を見かけると駆け寄り、大人たちは肩を叩いて笑顔を見せる。煤に閉ざされた街に、ひとときの光が差す。
その裏通りには「小蓮商会ロンドン支店」の看板が輝いていた。愚楽はそこに目をとめ、かつての縁を思い出してにやりと笑った。
「腹が減っても、縁と笑いがあれば生きていける。――よし、次は何を食うかだ!」
煤煙の街に、またも彼の笑い声が響いた。




