煙突の国にて
フランスの断頭台を背にしてから、どれほどの歳月が経ったのだろう。
革命の炎がパリを赤く染め、人々が「平等」と「自由」を叫んでいたあの喧噪を離れた愚楽は、気がつけば北の海を越えていた。船に乗ったのか、商隊に紛れたのか、それすら覚えていない。覚えているのはただ――海の上でも腹は減るという事実だけだ。
十九世紀に入ったイギリス。そこは今や「世界の工場」と呼ばれる国であった。蒸気機関の黒煙が街を覆い、レンガ造りの工場が川辺に立ち並ぶ。石炭の煤は空を曇らせ、朝夕には無数の労働者が工場に飲み込まれ、また吐き出されていく。
愚楽は港町をうろつき、やがてその煤けたロンドンの街にたどり着いた。
ある日愚楽は、石畳の上で立ち止まり、工場帰りの少年が手にしていた銅貨をまじまじと眺めていると、周囲の労働者が笑いながら声をかけてきた。
「おいおい、馬鹿そうなのにお前に金の価値がわかるのか?」
「それくらい俺にでもわかる。美味いものが食べられるだろ」
「それ以外は?」
「それ以外あるのか?」
愚楽の即答に、少年たちは一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間には腹を抱えて笑った。煤と汗のにおいが染みつく街角に、ほんのひとときの明るさが広がる。
そのとき、背後から低く落ち着いた声がした。
「やはり……愚楽殿、いや今は“グラク五世”と呼ばれるべきか」
振り向けば、品のある洋装を身にまとった青年が立っていた。切れ長の瞳にどこか東洋の影を残し、背筋の伸びた佇まい。名を蓮英と名乗った。小蓮商会のロンドン支店を預かる一族の若き当主である。
「我が家には代々伝わっております。“永遠の馬鹿”が現れたときは、必ず力を貸せと。祖母も父も、皆その言葉を口にしていました」
「……俺が馬鹿だってことは、もう世界中に知れ渡ってるんだな」
愚楽が頭をかくと、蓮英はくすりと笑った。
小蓮商会ロンドン支店の屋敷に招かれた愚楽は、石炭と鉄鋼、織物、紅茶、そしてインドや植民地から届いた香辛料まで、ぎっしりと帳簿に記された数字の山を見せられた。
だが愚楽は帳簿など一切理解できない。代わりに、台所から漂ってくる牛肉と野菜のシチューの匂いに目を輝かせた。
「これだよ! 金の価値ってつまりこれだろ!」
「……まあ、そういう解釈も一理あるでしょう」
蓮英は肩をすくめたが、目尻には笑みがにじんでいた。
その夜、愚楽は屋敷を抜け出し、夜のロンドン市場を歩いた。煤けた空の下、ランプの灯りが魚や肉を照らし出し、香ばしい匂いが漂う。その一角で、揚げ物を売る屋台に惹き寄せられた。
「ほらよ、スコッチエッグだ。六ペンス」
丸い球を手にして愚楽は首を傾げた。「スコッチ……エッグ?」
かじった瞬間、熱と肉の香りが広がり、遠い記憶が胸をよぎった。リスボン。巨大な鍋。アフリカからのダチョウの卵。イザベラの笑顔と人々の笑い声。
「名前は小さくなったのに、ちゃんと腹に来るな……」
愚楽はぽつりと呟き、煤煙に霞む夜空を見上げた。
王も革命も越えて、また別の時代が幕を開けていた。




