幕間 その頃の小蓮商会
フランスの空が血に染まり、断頭台の刃が毎日のように落ちていたその頃――セーヌから遠く離れた港町アムステルダムでは、一つの一族が静かに息を潜めていた。
その屋号は「小蓮商会」。
遥か昔、旅芸人の少女・小蓮を祖とし、代々交易と縁の糸を紡いできた一族である。
今代の当主は、初老の商人・蓮ユルゲン。中国系の血を引きながらもオランダ語を流暢に操り、ヨーロッパの港町で巧みに立ち回る人物であった。
彼は商会の帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
「パリは混乱、ヴェルサイユは瓦解。だが商いは続けねばならん」
机の上には、香辛料と布地の見本、遠方から届いた銀貨、そして蒸気船の設計図が置かれていた。
「……新しい時代が来る。煙と鉄で動く船が、大洋を駆けるという」
若い商人見習いが首を傾げる。
「そんなもの、うまく動くのでしょうか?」
「馬鹿者。愚楽という男を知っているか?」
青年は目を丸くした。
「愚楽……? 昔から伝わる“永遠の道化”のことですか?」
「そうだ。あの馬鹿が世の果てで巨大な卵を茹でただの、王の前で眠りこけただの、荒唐無稽な話ばかりだ。だがな――世の中はいつも、馬鹿げたことから変わっていくのだ」
蓮ユルゲンはゆっくり立ち上がり、窓の外に視線を投げた。港では新しい帆船が建造され、その向こうに蒸気の試作船が白い煙を吐いていた。
「愚楽がどこかで笑っているなら、我らも笑って商いを続けようではないか。笑いを忘れた商人は、必ず滅びる」
若い見習いは、頷きながらも不思議な気持ちであった。
祖先から伝わる話によれば、この「愚楽」という男は必ず歴史の転換点に現れ、不思議と小蓮の血筋と交わるのだという。
「師よ、もし本当に愚楽と出会ったら……どうすれば?」
「決まっている。腹いっぱい食わせ、笑わせてやれ。そして、縁を結ぶのだ」
蓮ユルゲンの声は揺るぎなく響いた。
窓の外では、白い煙を吐く蒸気船の汽笛が鳴った。
それはまるで、新しい時代の到来を告げる合図のように。
小蓮商会は、その音を聞きながら未来を見据えていた。
どれほど王が倒れようと、革命が血を流そうと、縁と笑いの糸は決して途切れない。
愚楽という馬鹿と共に、それは歴史を越えて受け継がれていくのだ。




