幕間 小蓮の縁
夜のパリは静まり返っていた。昼間の広場には断頭台の赤い跡がまだ残り、風が吹くたびに鉄の匂いが漂ってくる。人々の叫びも、歓声も、泣き声も、今は消え失せ、街はまるで長い悪夢から目を覚ましたばかりのようだった。
その石畳を、ひとりの男が歩いていた。
――愚楽。宮廷では「グラク四世」と呼ばれ、王の道化として笑いを撒き散らしてきた男。だが今や王も王妃もなく、道化に居場所もない。
彼は空腹でもなく、喉が渇いているわけでもない。それでも歩かずにはいられなかった。まるで何かに導かれるように、パリの裏通りを抜け、セーヌの岸辺に出る。
川面に映る月を眺めていると、不意に風が頬を撫でた。
その風の中に――彼は懐かしい声を聞いた気がした。
「……兄ちゃん」
振り返ると、そこに立っていたのは一人の少女の姿だった。
薄衣をまとい、澄んだ瞳で笑う。愚楽にはすぐにわかった。
「小蓮……!」
もうとっくに世を去ったはずの少女。だが幻影は、まるで生きているかのように微笑んでいた。
「兄ちゃん、また馬鹿やってるね」
「俺はずっと馬鹿だ。馬鹿だから生き延びちまう。お前と違ってな……」
愚楽は拳を握った。血の匂い、断頭台の影、飢えた群衆の顔――あまりに多くの命を見送りすぎた。
しかし、小蓮は首を横に振った。
「兄ちゃん、忘れないで。人は死ぬけど、縁は残る。私が子を残したのも、いつか兄ちゃんに会わせるためだよ」
愚楽ははっとした。そうだ、小蓮の子孫たちは各地に生きてきた。愚楽が老いないのを知っていた学僧のユースフ、草原を渡った蓮明、リスボンから海を渡った蓮承……そして今も、どこかで彼を待つ者がいるのかもしれない。
「俺は……また出会えるのか?」
「うん。兄ちゃんが馬鹿で笑いを忘れない限り、必ず会える」
その言葉とともに、幻影は川霧の中に消えていった。
残されたのは、ただ冷たい夜気と、月明かりだけ。
愚楽は深く息を吸い込み、夜空に向かって叫んだ。
「よし! 俺はまだ笑えるぞ! 次はどんな飯が待っているかな!」
その声はセーヌの水面を震わせ、遠くに響いた。
やがて彼の耳に、新しい音が届いた。汽笛――蒸気船の遠い鳴き声だった。
黒い煙がかすかに立ち上り、夜空を染める。
「おお……また知らん時代が始まるな。腹が鳴るぜ!」
愚楽は笑いながら歩き出した。
血と涙の時代を越えたその足は、煙と鉄の時代――産業革命の世界へと向かっていた。
月は静かに彼を照らし、どこかで小蓮の笑い声が風に混じったような気がした。




