グラク一世、ヴェルサイユに笑う
リスボンの港で巨大な卵料理を平らげ、友を新大陸へと見送ったあの日から――年月は流れた。
世界は大航海時代の興奮を経て、いまやヨーロッパの中心はポルトガルやスペインからフランスへと移ろい始めていた。
アメリカからの銀と砂糖、アフリカからの奴隷、インドや東洋からの香辛料が流れ込み、交易の果実は王権を潤した。
その栄華を体現する場所が、太陽王ルイ十四世の築いたヴェルサイユ宮殿であった。
愚楽は相変わらず放浪を続けていた。船に乗り、馬に揺られ、時に市場の片隅で寝転がり、ただ「旨い飯」を求めて歩いた。
そして気づけば、フランスの都パリから流れ込む人波に紛れ込み、ヴェルサイユの城門へとたどり着いていたのである。
――ここから先は、ただの馬鹿の旅ではなかった。
豪奢と退廃の極みとも言える宮廷に、愚楽の「馬鹿な真実」がどのように受け入れられるのか。
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間。燭台に灯る千の炎が黄金の壁と天井の絵を照り返し、王の前に並ぶ廷臣たちは誰もが緊張で背筋を伸ばしていた。
そこにひとり、場違いな男が呼び出された。
背はそれほど高くなく、肌は浅黒く、切れ長の目に東洋の影を宿す。その異国めいた容貌は、豪奢な衣裳をまとったフランス貴族の中で異様に浮いていた。
「名は?」と侍従が問いかける。
男は胸を張り、何のためらいもなく答えた。
「グラク一世! 俺は馬鹿だが、世界の果てを旅してきた!」
ざわめきが広がる。廷臣たちは顔を見合わせ、嘲笑を浮かべる者もいた。
だが男は気にしない。両腕をぶんぶん振り回しながら叫ぶ。
「草原ではチンギスとかいう髭面の大将と羊を追った! 海の向こうでは革靴を煮て食った! 巨大な鳥の卵を茹でて宴をした! ああ、あれは旨かった!」
信じがたい体験談。だが、口ぶりは妙に臨場感に満ちている。しかも食べ物の話になると、目がぎらぎらと光るのだ。
廷臣たちは一瞬、あきれて沈黙した。しかし次の瞬間、ルイ十四世が玉座の上で肩を震わせ――ついに笑い声をあげた。
「革靴を煮た!? 馬鹿な! だが面白い!」
笑いに釣られ、貴婦人たちも口元を覆いながらくすくすと笑った。退屈な宮廷の空気が、一人の馬鹿によって一変したのである。
王は片手を上げて宣言した。
「こやつを我が宮廷の道化とせよ! 真か虚か知らぬが、余の退屈を晴らすに足る!」
こうして愚楽は「グラク一世」としてヴェルサイユの一角に居場所を得た。
その夜の宴。大広間のテーブルには七面鳥の丸焼き、肉を詰めた鳩、甘いソースを絡めた仔羊、黄金色に輝くパンの山、飴細工の塔のような菓子が並べられた。
グラクは目を皿のように見開き、わしづかみにパンをかじり、ワインを豪快に飲み干した。
「おおっ! ぶどうを潰した水だ! これなら飢えた時にも飲める!」
貴婦人たちは顔をしかめたが、王はまたも大笑いした。
「愚かだが愉快だ! 太陽には光が必要、夜には星が必要、そして宮廷には――馬鹿が必要だ!」
笑いの渦の中で、グラクは骨付き肉をしゃぶりながら叫んだ。
「旨いものは王でも下男でも同じだ! 腹が膨れりゃ、皆幸せだ!」
その一言に、一瞬だけ宴のざわめきが止まった。
そして次の瞬間、王も廷臣も爆笑した。
馬鹿な道化の戯言。しかしどこかに真理を含む。
こうしてグラク一世は、豪奢なヴェルサイユの宮廷に欠けていた「馬鹿な真実」をもたらしたのだった。




