市場と国際色
翌朝、愚楽は港の市場に足を踏み入れた。
夜明けとともに開かれた広場には、世界の果てから運ばれた品々が所狭しと並んでいる。
東インドから届いた胡椒とクローブ、シナモンの山。
西アフリカからは象牙や金、干した魚。
新大陸からは砂糖の塊、乾いた唐辛子、そして見慣れぬ赤い果実が籠いっぱいに盛られていた。
色とりどりの布をまとった人々が声を張り上げ、アラビア語、スペイン語、ポルトガル語、ヘブライ語、ヒンドゥスターニーまで、さまざまな言葉が飛び交う。
愚楽は口をぽかんと開け、よだれを垂らしながら辺りを見回した。
「うおお……匂いだけで腹が減る……! 俺は一生この匂いを忘れねえ!」
その横でイザベラが腕を組み、呆れた顔をした。
「まったく、あんたの辞書には『我慢』って言葉が載ってないのかい」
ふと、愚楽は香辛料の山の前に立つアラブ商人に近づき、耳で覚えたアラビア語らしき言葉を叫んだ。
「フィッシュ! フィッシュ! 俺は魚が欲しい!」
商人は目を丸くした。
「お前、今“靴下が欲しい”って言ったぞ」
周りの客たちはどっと笑い、愚楽は赤面しながら頭を掻いた。
「おかしいな……昨日の夜に聞いたのを真似したんだが……」
イザベラは腰に手を当て、笑いをこらえきれずに言った。
「博士、耳はいいが脳みそは半分こぼれてるんじゃないの?」
「そうだ! 俺は馬鹿だ! でも旨い飯の味は忘れない!」
決め台詞を叫ぶと、市場の子供たちが拍手して囃した。
そのとき、愚楽の目に赤い果実が映った。
「おお! なんだこの赤玉は!」
手に取ると、瑞々しい光沢を放ち、太陽の下で宝石のように輝いている。
商人が片言のポルトガル語で説明した。
「これはインディアスから来た“トマト”。珍しい果実。だが、毒だと言う者もいる」
客たちは不安げに首を振り、「悪魔の果実」と囁く者もいた。
しかし愚楽は構わずかじりついた。
ぷちりと皮が弾け、酸味と甘みが口に広がる。
「うまっっっ!!!」
果汁を滴らせながら叫んだ。
「これは新しい味だ! 俺は一生忘れねえ!」
周囲の人々は目を丸くし、やがて大爆笑となった。
「見ろ、あの馬鹿、毒を食ったぞ!」
「まだ倒れないぞ! いや、むしろ旨いと叫んでる!」
イザベラは額に手を当ててため息をついた。
「博士、あんた命知らずだね……」
だが彼女の瞳には好奇心がきらめいていた。
「でも……面白い。今夜、うちの厨房で煮込みにしてみようじゃないか」
愚楽は顔を輝かせた。
「やった! 旨い新しい飯ができるぞ!」
「ただし、倒れても責任は取らないからね」
イザベラは勝気に笑った。
こうして、愚楽の食い意地と市場の喧騒は、異国の果実トマトを「食べ物」として港町に受け入れるきっかけとなったのである。




